春秋時代32 東周恵王(十一) 晋の二軍 前661年

今回も東周恵王の時代です。
 
恵王十六年
庚申 前661
 
[] 春、狄が邢国を攻撃しました。
 
斉の管敬仲管仲。敬は諡号桓公に言いました「戎狄は豺狼のように貪婪です。諸夏(中原諸国)とは親近な関係にあるので、無視できません。平和に慣れるのは毒と同じです。そこに留まってはなりません。『詩』にもこうあります『帰りたくないはずがない。ただ恐れるのはこの簡書だ(『詩経・小雅・出車』「豈不懐帰,畏此簡書」)。』簡書(危急を告げる軍事の文書)を発した国も受け取った国も共に同じ敵を憎み、互いに助け合うものです。邢からの簡書に従って邢を援けるべきです。」
斉は兵を発して邢を援けました。
 
[] 夏六月辛酉(初七日)、魯が前年八月に死んだ荘公をやっと埋葬しました。魯国内で政変があったため、埋葬が遅くなりました。
 
[] 秋八月、魯閔公が落姑(または「洛姑」。斉地)で斉桓公と会盟しました。
魯閔公が季友(前年、陳に亡命しました)を帰国させるように求めたため、斉桓公は陳に使者を送って季友を呼び戻しました。
閔公は郎の地で季友を待ち、共に帰国しました。
 
[] 冬、斉の仲孫湫が魯を訪問し、政変の慰問をしました。
仲孫湫は斉に帰るとこう報告しました「慶父を除かなければ魯の難は収まらないでしょう。」
桓公が聞きました「どうすれば除くことができる?」
仲孫湫が答えました「難はあえて除かなくても、いずれ自ら倒れます。」
桓公が聞きました「この隙に魯を取ることができるか?」
仲孫湫が答えました「いけません。彼等はまだ周礼を守っています。周礼は国の基本です。『国が滅びる時はまず根本が倒れ、枝葉がそれに従う(国将亡,本必先顛,而後枝葉従之)』と言います。魯が周礼を棄てない間は動かすことができません。主君は魯の難を鎮めて親しくするべきです。礼のある国と親しくし、堅固な国に頼り、内部が離心している国を分裂させ、昏乱の国を滅ぼす、これが霸王の器(方策)です。」
 
[] 晋は一軍しかありませんでしたが、献公が二軍に拡大しました。献公が上軍を率い、太子・申生が下軍の将となります。趙夙が献公の戎車を御し、畢万が車右になりました。
 
士蔿が諸大夫に言いました「太子とは国君の貳(副。継承者)である。恭しく継承を待つべきであり、官位は必要ない。今、主君は太子に地(曲沃)を分け与え官に就かせた(下軍の指揮官。卿に相当します)。これは太子を外の人とみなしたことになる。主君を諫めて意見を確かめなければならない。」
士蔿が献公に言いました「太子に下軍を率いさせるのは相応しくありません。」
献公が言いました「下軍は上軍の貳(副。補佐)である。寡人(私)が上におり、申生が下にいるのに問題はない。」
士蔿が言いました「下は上の補佐にはなりません。」
献公がその理由を聞くと、士蔿はこう答えました「貳(正副)は体と同じです。上下左右は心と目によって動くから、用いて疲れることなく、体の利となるのです。上貳(左右の腕)が交互に物を持ち挙げ、下貳(左右の足)が交互に地を踏んで心と目を助けるから、行動して百物を操ることができるのです。もし下が上を持ち、上が下を持ったら、交互に動くことができず心と目に背くことになります。これでは物を操ることができません。だから古の軍は左右両軍を持ち、互いに不足を補ってきました。もしも下が上の補助の立場になったら、下に不足が生まれてもすぐ補うことができず、下が失敗しても助けることができません。軍が動く時は鐘鼓や旗が必要ですが、編制を変えることでそれらが乱れたら軍に隙が生まれます。隙ができたら敵の侵入を招き、敵が侵入したら援けることもできません。敵が志を得たら我が国の憂患となります。下軍が上軍を補佐する軍制では、小国を侵すことはできても大国を制することはできません。」
献公が言いました「寡人が自分の子の編制をしたのだ。汝が憂いることではない。」
士蔿が言いました「太子は国の棟梁です。棟梁としての地位があるのに兵を指揮させるのは危険です。」
献公が言いました「太子の重責を軽減させたのだ。危険はあるかもしれないが大害はない。」
 
士蔿は退出してからこう言いました「太子が即位することはないだろう。太子の制度を改めるだけで困難を考えることなく、重任を軽くしたが危険を心配しようとしない。主君には既に別の考え(太子廃立の計画)があるはずだ。太子が戦で勝ったとしても、それが原因で害されるだろう。もし勝てなかったら、その罪を問われることになる。勝っても負けても禍から逃れることはできない。勤勉に務めて認められないくらいなら、逃げた方がましだ。そうすれば主君は望みをかなえることができ、太子も死から遠ざかって美名を残すことができる。呉太伯(周王室の先祖・古公亶父の長子。弟に位を譲って呉に奔りました)のようになってもいいではないか。」
これを聞いた太子・申生はこう言いました「子輿士蔿の字)は私のために謀ってくれた。忠である。しかし人の子たる者は父命に逆らうことを恐れ、名声を得ないことは恐れないという。また人の臣たる者は自分が勤勉ではないことを恐れ、俸禄がないことは恐れないという。私は能力もないのに父君に従う機会を得た。これ以上、何を望むことがあるだろう。また、私の徳は呉太伯に遠く及ばない。」
 
以上は『国語・晋語一』の内容です。
『春秋左氏伝(閔公元年)』が紹介している士蔿の言葉は若干異なります。
士蔿が言いました「太子は即位できなくなった。都城を分けて位を卿とした。既に人臣として頂点に達してしまったのだから、これよりも上に立つことはできない。逃げて罪を避けた方がいい。呉太伯のようになってもいいではないか。少なくとも名を残すことはできる。諺にはこうある『心にやましいことがなければ、家がないことを憂いる必要はない(心苟無瑕,何恤乎無家)』。もし天が太子を守っているのなら、晋にこだわらない方がいい。」
 
献公と太子・申生は新軍を率いて耿(姫姓、または嬴姓)、霍(姫姓)、魏を滅ぼしました。
このうち霍国は太子・申生によって占領されました。しかし凱旋した申生に対する讒言はますます多くなりました
 
霍国との戦いでは趙夙も将として功績を上げました。霍公・求(または「来」)は斉に出奔します。
この年、晋を旱が襲ったため卜ってみると「霍太山の祟り」と出ました。そこで献公は趙夙を斉に派遣し、霍公を呼び戻しました。霍公が霍国の主に戻って霍太山の祭祀を行うと、晋は豊作になりました。
献公は趙夙に耿の地を与えて大夫に任命しました。
趙夙は西周幽王時代に晋に仕えた叔帯(幽王元年、前781年参照)の五代後の子孫です。父を公明といいます。
史記・趙世家』にはこの年に「趙共孟を産んだ」とあります。
 
また、畢万にも魏の地を与えて大夫に任命しました。
卜偃(郭偃)が言いました「畢万の子孫は大きくなるだろう。万は満たされた数だ。魏は高大な名だ。始めに与えられた賞賜が魏というのは、天が啓示しているからだ。天子は兆民を治め、諸侯は万民を治める。名が大きくて数が満ちているのだから、魏には多くの人が集まるはずだ。」
 
以前、畢万が晋に仕えることを占った時、周の大夫・辛廖が言いました「これ以上の吉はありません。必ず繁栄するでしょう。人が集まり堅固で、安定して武威がある、これは公侯(諸侯)の卦です。公侯の子孫(ここでは畢万を指します。畢万は西周文王の弟にあたる畢公・高の子孫です。畢公・高の子孫は国を失い夷狄や中原で庶民になっていました)は先祖の地位に戻ることができるでしょう。」
畢万の子孫は魏を氏としました。
 
献公は太子・申生のために曲沃に築城しました。
 
 
 
次回に続きます。