春秋時代33 東周恵王(十二) 魯閔公殺害 前660年(1)
今回は東周恵王十七年です。三回に分けます。
恵王十七年
辛酉 前660年
[一] 春正月、斉が陽国(恐らく姫姓)の民を遷し、その地を奪いました。
虢の大夫・舟之僑が「徳がないのに禄を貪っている。禍は近い」と言って晋に出奔しました。
これは『春秋左氏伝(閔公二年)』の記述です。『国語・晋語二』には異なる記述があります。
虢公が夢を見ました。顔に白い毛が生えて虎のような爪を持つ神人が鉞を持って宗廟の西の屋根の上に立っています。虢公は怖くなって逃げ出しました。すると神が言いました「逃げるな。帝(天帝)がこう命じた『晋に汝の門を襲わせよ。』」
虢公は神に稽首したところで目が覚めました。そこで史嚚を招いて占わせます。その結果、「主君の言う通りなら、この神は蓐收(西方の神)といい、天上の刑神です。天が定めたことはそれぞれを主管する神によって達成されます」と出ました。
天神が刑神を送って晋に虢を攻撃させる、という意味です。
占いに不満な虢公は史嚚を捕え、国人に夢を祝賀させました。
虢の大夫・舟之僑が一族に言いました「多くの人が虢はもうすぐ亡ぶと言っているが、今日、始めてその道理を知ることができた。主君は神の戒めを受けても自分を律することなく、大国の侵攻を国人に祝わせた。これで目前の禍を軽減できるはずがない。大国と小国の関係はこう言われている。『大国に道があれば小国は大国に入る、これを服という。小国が驕慢になれば大国が小国に入る。これを誅という。』民は国君の奢侈を嫌っているから、その命令に従わないだろう。今、主君はその夢を吉として祝っているが、これではますます奢侈になる。天が主君から鏡を奪って自分の姿を見せなくし、その欠点を増長させているのだ。民が国君のあり方を嫌い、天は国君を惑わしている。大国が誅伐に来ても、国君の命令に従う者はない。宗国(公族)が衰弱したら諸侯が遠のく。内外が親しくないのに誰が援けるというのだ。このまま国が滅ぶのを待つのは忍びないことだ。」
舟之僑は一族を連れて虢から晋に遷りました。
[三] 夏五月乙酉(初六日)、魯が荘公のために吉禘の祭祀を行いました。位牌を宗廟に入れる大祭のようです。荘公が死んだのは二年前の八月だったので、本来ならまだ三年(二十五カ月)の喪に服していなければなりません。『春秋左氏伝』は吉禘を行うのが速すぎると書いています。
[四] 魯閔公は哀姜(斉人。荘公夫人)の妹・叔姜が生んだ子だったため、その即位を斉国に支持されていました。しかし慶父(共仲)と哀姜の関係がますます深くなり、哀姜は慶父を魯君に立てることを考えました。
以前、閔公の傅(教育官)が大夫・卜齮の田(土地)を奪い、それを知った閔公も止めようとしませんでした。卜齮は閔公を憎むようになりました。
成季(季友。慶父の弟)は閔公の弟(または閔公の庶兄)・申と共に邾に奔りました。
九月、政変を怒った魯人は慶父を誅殺しようとしました。そのため慶父も恐れて莒に奔りました。
哀姜も乱を避けて邾国に逃げます。季友と同じ邾に向かったのは、助けを請うことが目的だったのかもしれません。
一方の季友は母が陳人だったため、公子・申を擁して陳に入り、陳の援けを借りて魯に帰りました。
こうして公子・申が即位しました。これを釐公(僖公)といいます。
季友が生まれる前に父の桓公が卜楚丘の父(名は不明)に卜わせました。その結果こう出ました「男児です。その名は『友』といいます。公の傍に仕え、両社の間で公室を輔けるはずです。季氏が亡んだら魯は繁栄しません。」
「両社の間」について『春秋左伝注』(楊伯峻)を元に簡単に解説します。魯には周社と亳社の二社がありました。雉門外の右が周社、左が亳社です。諸侯の宮殿には三門があり、庫門(外門)、雉門(中門)、路門(寝門)といいました。庫門の中は外朝といい、訴訟等の処理が行われる場所です。国君が頻繁に行く場所ではありません。雉門の中を治朝といい、君臣が毎日会って政治を行う場所でした。路門の中は燕朝、または内朝といい、君命が下された時に臣下が進言できる場所でした。二社の間というのは雉門の中を指し、そこにいるというのは大臣として政治を行うという意味になります。
また、最後の部分を「季氏が亡んだら魯は繁栄しません」と訳しましたが、原文の「季氏亡則魯不昌」は二つの解釈ができます。ひとつは「季友の子孫(季氏)が将来滅んだら魯国は衰える」という意味です。もう一つは「季氏」を「季友」と解釈し(『春秋左氏伝』では「季氏」ですが、『史記・魯周公世家』では「季友」になっています)、「亡」を「亡命」と解釈します。「季友が亡命したら魯が衰える」という意味になります。実際に季友が亡命したため国内が乱れて子般と閔公が殺されました。
『史記・魯周公世家』によると季友は「成季」と号しました。季友の死後、その子孫は季氏を名乗ります。
成風(荘公の妾。釐公の母)は季友のこういった話を聞いていたため、季友と親しく接し、公子・申(釐公)を託していました。季友が釐公を立てたのはそのためです。
魯は莒に賄賂を送って慶父の引き渡しを要求しました。莒人は慶父を魯に返します。慶父が密(魯地)まで来た時、季友は大夫の公子・魚を送って慶父を殺させました。慶父は命乞いをしましたが、公子・魚は泣いて拒否します。公子・魚の泣き声を聞いた慶父は助かる道がないと知り、「奚斯(公子・魚の字)が泣いている」と言うと自縊しました。
慶父の子孫は孟氏(または「孟孫氏」。一部は「仲孫氏」)を名乗りました。
[五] 冬、斉の高子(恐らく高傒)が魯に来て盟を結びました。魯で即位したばかりの釐公の地位を確立するためです。
次回に続きます。