春秋時代34 東周恵王(十三) 衛の滅亡と復国 前660年(2)

今回は東周恵王十七年(前660年)の続きです。
 
[] 十二月、狄(赤翟)が衛国を攻撃しました。
 
衛懿公は淫乱奢侈だったため、百姓・大臣が帰服しませんでした。また、懿公は鶴を愛し、鶴に軒(大夫以上の乗り物)まで与えるほどでした。
狄が侵入すると甲冑を受け取った衛人達はこう言いました「鶴に戦わせればいい。鶴は俸禄も官位ももっている。なにもない我々がなぜ戦えるというのだ。」「国君が俸禄を与えてきたのは鶴だ。国君によって富貴を得たのは宮人(宮女)だ。国君は鶴と宮人を使って戦え。」
多くの兵が戦う前に逃走しました。
 
懿公は玦(玉佩)を石祁子に与え、甯荘子に矢を与えて「これらを使って国を救え。国の利となることを選んで決定せよ」と言い、衛都の守備を命じました。玦は決定権を、矢は指揮権を表します。
また夫人には繍衣を与えて「二子(石祁子・甯荘子の指示に従え」と言いました。
懿公は自ら兵を率いて出陣します。渠孔が懿公の戎車を御し、子伯が車右となり、黄夷が先鋒を、孔嬰斉が殿(後軍)を率いました。
衛軍は狄人と(または「泂沢」「洞沢」)で戦いましたが大敗しました。懿公が自分の旗を隠そうとしなかったため、狄軍に狙われて惨敗したといわれています。懿公は殺され、衛国は滅ぼされました。
 
狄人は太史・華龍滑と礼孔を捕えました。二人(華龍滑と礼孔)が言いました「我々は太史であり、祭祀を掌っている。我々が先に帰らなければ国を得ることはできない。」
狄人は二人を帰らせました。
二人は城下に至ると守備兵に「対抗できる相手ではない」と伝えました。
夜、二人は国人と共に城から出て逃走しました。石祁子と甯荘子が指揮をとります。
暫くして狄兵が衛都に入り、逃走する衛人を追撃しました。衛人は黄河北岸で再び敗れました。
 
懿公の父・恵公は若くして即位しました。恵公の父は宣公です。宣公は太子・急子(伋)が娶るはずだった斉女(宣姜)を自分の夫人にしました。宣姜は寿と朔を産みます。やがて、太子・急子と寿は殺され、朔が宣公の跡を継ぐことになりました。これが恵公です(東周桓王十九年、前701年参照)
宣公の在位年数は十九年なので、宣公即位後に生まれ、しかも二人の兄がいた恵公・朔は、即位した時まだ十五歳前後だったはずです。
 
宣公死後、斉人(恐らく釐公。宣姜の父のようです)は昭伯(公子・頑)と宣姜を姦通させました。昭伯は『史記・衛康叔世家』では急子(恵公の兄)の同母弟と書かれています。黔牟(東周荘王元年、前696年参照)の弟でもあります。昭伯は斉の要求を断りましたが、強制されて宣姜と関係を結び、五子ができました。斉子(斉桓公に嫁ぐ長衛姫)、申(後の衛戴公)、燬(後の衛文公)と宋の桓公夫人(東周恵王二年、前675年参照)、許の穆公夫人です。
 
恵公が在位三十一年で死に、子の懿公が即位しましたが(東周恵王八年、前669年)、衛人は宣公の太子だった急子を慕っていたため、懿公に心服しませんでした。国内の混乱を避けて昭伯の子・燬は斉に逃げました。
 
この年、狄の侵攻を受けて懿公は死に、衛国は滅ぼされました。
桓公黄河沿岸で衛の遺民を迎え入れます。男女七百三十人と共邑・滕邑(どちらも衛の邑)の民五千人が宋軍に守られ、曹国に入りました。
昭伯は既に死んでいたため、衛の人々は昭伯の子・申を国君に立てました。これを戴公といいます。
宋が衛を援けたのは、宋桓公の夫人が衛女(昭伯の娘)だったからのようです。尚、『史記・宋微子世家』はこの出来事を宋桓公二十三年に起きたとしていますが、桓公二十二年の誤りです(『十二諸侯年表』も宋桓公二十二年としています)

母国が滅ぼされた時、許穆夫人(許国の穆公夫人。昭伯の娘)が衛に向かいました。この時のことが『載馳』という詩に書かれています。『詩経・鄘風』に収録されています。
 
衛懿公が死ぬ時、弘演という臣下が最後まで従いました。斉桓公はそれを聞いてこう言いました「衛の滅亡は無道が原因だ。しかしそのような臣がいたのなら、衛国を存続させなければならない。」
桓公は公子・無虧(武孟。長衛姫の子)に車三百乗、甲士三千人を指揮させ、曹の守備を命じました。また、即位したばかりの衛戴公に馬や祭服五着、牛・羊・豕(豚)・鶏・狗それぞれ三百および門材(門を造る材木)を贈り、戴公夫人には魚軒(魚の皮で装飾した車)と上質の錦三十両を贈りました。
 
[] 狄が黄河北の衛を滅ぼしたため、黄河の南に位置する鄭が守備の兵を出すことにしました。鄭文公は高克という者を嫌っていたため、高克に師(軍)を率いて黄河沿岸に駐軍させます。清邑の民が動員されました。
ところが文公は高克に命令を出さず、退き返させようともしませんでした。長い間放置された兵達の不満が溜まり、ついに離散して軍は壊滅します。高克も陳に奔りました。
鄭人は文公を謗って『清人』の詩を作りました。『詩経・鄭風』に収録されています。
 
[] 衛で即位したばかりの戴公が死にました。弟の燬が立ちます。これを文公といいます。
文公は粗末な衣冠を身につけ、農業の生産力を高め、商業による流通を盛んにし、工業を優待し、教化を重視して学問を普及させました。文公自身も官員任免の方法を学び、能力がある人材を登用していきました。文公元年には革車(戦車)が三十乗しかありませんでしたが(全て斉桓公から贈られた革車です)、末年(在位二十五年)には三百乗を擁するほど国力を回復させました。
 
以上は『春秋左氏伝(閔公二年)』の記述です。『史記・衛康叔世家』には「即位したばかりの文公は、賦税を軽くし、法を平等にし、自らの身体を動かして百姓と苦難を共にし、衛を集めた」とあります

余談ですが衛文公の名について、漢代の賈誼が書いた『新書・審微』に記述があります。
衛文公は元々「辟疆」という名でした。
即位後のある年、衛侯(文公)が周王室に入朝しました。周王に会う前に行人(諸侯や上卿の応対を担当する官)が衛侯に名を聞きます。衛侯が「辟疆」と答えると、行人は「疆を開くというのは天子の号です。諸侯がこの名を用いるべきではありません」と言って衛侯の入朝を拒否しました。「辟」は「開く・開拓する」、「疆」は「領土・領域」という意味です。
そこで衛侯は「燬」に改名しました。「破損する・破壊する」という意味です。
周は衛侯の入朝を受け入れました。 
 
 

次回に続きます。