春秋時代35 東周恵王(十四) 晋太子申生の東山討伐 前660年(3)

今回で東周恵王十七年(前660年)が終わります。
 
[] 晋献公が太子・申生に東山の皋落氏(赤狄の一種)を討伐させました。里克が諫めて言いました「太子は冢祀(宗廟の祭祀)社稷の粢盛穀物社稷の祭祀)を奉じ、朝晩、国君の食事を見守るものです。だから冢子というのです(「冢」は「大」という意味を持ちます。「大子」は「太子」と同じ意味です)。国君が国外で行動したら太子は国内を守り、国内に守りがいたら国君に従います。国君に従うことを撫軍、国内を守ることを監国といいます。これは古に定められた制度です。師()を率いる者は謀をめぐらし、軍旅を指揮しなければなりません。これは国君と国政(正卿)の任務であり、太子がすることではありません。師(軍)は命によって動きます。太子が命を発する時、国君の意見を仰いでいたら指揮官としての威厳を失います。しかし国君の意思に逆らって勝手に命を出したら不孝とみなされます。だから国君の嗣嫡(後継ぎ)が師を率いてはならないのです。国君が任官の原則を棄て、太子が師を率いても威厳がないという状況で、何の役に立つでしょうか。皋落氏は迎撃の準備をしているとも聞きました。計画を中止するべきです。」
献公が言いました「寡人(私)には複数の子がいる。誰を後継ぎに立てるかは決まっていない。」
里克は何も言わずに退出しました。
 
里克が太子・申生に会うと、申生が言いました「私は廃位されるのでしょうか。」
里克が言いました「国君は太子に曲沃の民を治め、軍旅を指揮することを命じており、これらがうまくいかないことを心配しています。なぜ廃位する必要があるのでしょうか。そもそも。子は自分が不孝であることを恐れるもので、後継者に立てられないことを恐れるものではありません。自分の行いを正して人を責めることがなければ、難から逃れることができます。」
 
申生が師を率いて出発する時、献公は申生に偏衣(左右で色が異なる服)を着せ、金玦(円形で口が開いた玉の装飾品)をつけさせました。
申生は献公の代わりに上軍を指揮します。狐突が戎車を御し、先友が車右になりました。下軍は罕夷が指揮し、梁餘子養(梁は姓、餘子は字、養が名)が御者に、先丹木が車右になりました。羊舌大夫(羊舌突)が尉(軍尉)を務めます。
先友が申生に言いました「衣服の半分は国君の服であり、重要な軍(上軍)も預かっています。成敗はこの一挙にかかっています。太子は勉め励んでください。偏衣に悪意はありません。兵権を握れば禍を遠ざけることができます。国君と親しくなり禍もなくなるのですから、心配することはありません。」
狐突が嘆息して言いました「時は事の本質を象徴し、衣服は身分を明らかにし、佩装は内心を表す旗となります。遠征は春夏に行うべきであり、衣服は純色(一色)にするべきであり、本心から人に指示しようというのなら、佩飾の決まりを守るべきです。年末に出征を命じたのは、事態を順調に進行させないためです(十二月は一年の終わりで、行動しても順調にいかず道を閉ざされるという意味がありました)。衣服の色が統一されていないのは遠ざけられたことを意味します。金玦をつけさせたのは太子を棄てるという本心を示しています。尨(色が純粋でないこと)は涼に通じ(尨は本来、毛が多い牛を指します。なぜ「涼」という意味になるのかわかりません)、冬は殺、金は寒、玦は離(玦は決別を意味します)を表します。これらに頼ることはできません。例え努力しても、狄を全滅させることはできないでしょう。」
梁餘子養が言いました「師を率いる者は、廟で命を受け、社で脤(祭肉)を与えられ、決められた服を着るものです。尨服を着るように命じた意図は明らかです。死んでも不孝とされるだけです。早く逃げるべきです。」
罕夷が言いました「尨服は規則にあわず、金玦は二度と戻れないこと(決別)を意味しています。もし戻れたとしても何の意味があるでしょう。国君の心は決まっています。」
先丹木が言いました「このような服は狂夫(狂人)も断るものです。国君からは『敵を全滅して還れ』と命じられましたが、敵を全て倒すことが可能でしょうか。例え滅ぼしたとしても、国内には讒言が満ちています。君命を辞退するべきです。」
狐突が去ろうとしましたが、羊舌大夫が言いました「いけません。命に逆らうのは不孝、事を放棄するのは不忠です。寒(悪。難)を知ったとしても、不幸・不忠を選んではなりません。この戦いで死ぬべきです。」
 
申生が戦いの準備をすると狐突が改めて出奔を勧めて言いました「以前、辛伯が周桓公にこう言いました『妾が后(正妻)に並び、正卿が二人立ち、嫡子と庶子が同等になり、大城と国都が同じ大きさになること、これらは乱の本になります。』しかし周公は忠告を聞かなかったため、禍難を招きました(東周荘王三年、前694年)。今、晋国でも乱の本が生まれました。太子はまだ後嗣に立てられるとお思いですか。身を危険にさらして罪を得る時を速めるよりも、孝を尽くして(太子の地位をあきらめて父を満足させ)民を安んじる方が大事です。どうするべきか善く考えるべきです。」
 
以上は『春秋左氏伝(閔公二年)』を元にしました。『国語・晋語二』には少し異なる内容が紹介されています。別の場所で書きます。

春秋時代 晋太子申生の遠征

 
戦いの結果は太子・申生の勝利で終わりました。狄を破った申生は無事凱旋します。しかし宮内での讒言はますます増えていきました。
史記・晋世家』によると、里克は病と称して遠征に参加しなかったようです。
 
[] この年、秦成公が在位四年で死にました。七人の子がいましたが全て跡を継がず、弟の任好が即位しました。これを繆公(穆公)といいます。



次回に続きます。

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