春秋時代 晋太子申生の遠征

東周恵王十七年(前660年)、晋の太子・申生が東山の狄を討伐しました。

春秋時代35 東周恵王(十四) 晋太子申生の東山討伐 前660年(3)


本編では『春秋左氏伝(閔公二年)』を中心に記述しましたが、『国語・晋語二』には少し異なる記述がるのでここで紹介します。

 
晋の優施が驪姫に姦計を教えました。
夜半、驪姫が泣いて献公に言いました「申生は仁を好み能力もあり、民を慈しみ寬厚ですが、これには目的があると聞きました。今、申生はあなたが私に惑わされ、必ず国を乱すと言っています。国の利益を口実にあなたを害すのではないかと心配です。あなたは健在なうちにどのような手を打つつもりでしょうか。私を殺してください。一妾のために百姓を乱に遭遇させるようなことがあってはなりません。」
献公が言いました「民に恵愛を与えることができるのに、父を愛さないことがあるか。」

驪姫が言いました「それこそ(私)が恐れることです。外の人々が言うには、仁を行うことと国に忠であることとは違うそうです。仁を行おうという人は親しい人を愛することを仁といい、国を治めようという人は国に利があることを仁といいます。だから民の長となる者は私親(個人的に親しい感情)を持たず、大衆と親しくします。大衆の利となり百姓を和すことができるなら、主君弑殺も恐れないでしょう。また、大衆のために私親を棄てたら、大衆から歓迎されます。始めは弑殺の悪名を着るかもしれませんが、最後は美名で終わります。後善によって前悪を覆うからです。民は利を追求します。国君を殺して大衆を利するのなら、誰が弑殺を妨害するでしょう。親しい人を殺しても他者の悪とならなければ、誰も彼から去ろうとしません。大衆が利と寵を得て、彼の志が達成することで大衆が喜ぶのなら、大衆は彼を支持します。惑わされない者はいません。例え国君を愛したいと思っても、誰もこのような誘惑から逃げることはできないはずです。例えばあなたが殷紂だったとします。もし紂に良子がおり、先に紂を殺していたら、紂の悪が世に知られることなく、武王の手を借りる必要もなく、子孫が廃されることもなく、祖宗の祭祀は今も続いていたはずです。そうなったら紂が善君だったのか暴君だったのか、私達には分からなくなったでしょう(父を殺すことによって後世の利益となることもあるのです)。あなたはこのようなことを心配したくないとお思いですが、それでいいのでしょうか。大難が訪れてから憂慮しても手遅れです。」

献公が恐れて言いました「それではどうするべきだ。」

驪姫が言いました「あなたは引退して申生に政治を譲るべきです。彼が政権を得て好きにふるまうことができたら、あなたを害しようとは思わないでしょう。よくお考えください。桓叔(曲沃時代の主君)以来、誰が親族を愛してきましたか。親族を愛さなかったから翼を併合することができたのです。」

献公が言いました「政権を譲ることはできない。わしは武と威によって諸侯に臨んできた。死ぬ前に政権を失ったら武とはいえない。子を抑えることができないようでは威ともいえない。わしが政権を譲ったら諸侯が関係を絶つだろう。そうなったら諸侯が我が国を害すことになる。政権を失い国を害するようなことはできない。汝は心配するな。わしが方法を考えよう

驪姫が言いました「皋落狄(東山狄)は朝から晩まで国境を侵し、田野で農牧ができない状態です。国君の倉廩(倉庫)は元々満たされていません。しかもこのままでは国境が削られる恐れがあります。そこで、申生に狄を討伐させましょう。そうすれば申生と民衆の関係が堅固なものかどうかを確認できます。もし狄に勝てなければ敗戦の罪を問いましょう。勝ったら民衆を用いる力があるということなので、申生は更に大きな欲を持つはずです。改めて対策を考えましょう。また、狄を破れば諸侯を驚かせ、国境を侵す者がいなくなります。食廩(食糧倉庫)が満たされ四鄰が服し、国境を安定させるという多くの利があり、しかも申生の様子を探ることもできます。」

献公は驪姫の進言に喜び、申生に東山討伐を命じました。偏衣(左右で色が異なる服)を着せ、金玦(円形で口が開いた玉の装飾品)をつけさせます

 

太子の僕人・賛が言いました「太子に危険が訪れた。主君が下賜した物は奇であり、奇は怪を生み、怪は無常(正常ではないこと)を生む。そして無常では立つことができない。太子の出征は様子をうかがうためだろう。左右の色が異なる(中心で色が分かれる)服は国君の心が太子から離れていることを表し、金玦は冷遇を表している。これらは国君が内心から太子を害そうとしていることの表れだ。相手の心を憎んだら内から危険を与え、相手の身を害そうとしたら、外から危害を加えるものだ。内部に危険が生まれたら、逃げるのは難しい。しかもあのような衣服は狂夫でも着ようとしないだろう。国君は『敵を全滅させたら還れ』と言ったが、たとえ全ての敵を滅ぼしても、内部の讒言を無くすことはできない。」
 

冬、献公が太子・申生に東山討伐を命じました。里克が献公を諫めて言いました「皋落氏は戦の準備を進めていると聞きました。申生の出征を中止するべきです。」

献公が言いました「いや、彼に行かせる。」

里克が言いました「このようなことは前例がありません。国君が外出した時、太子が国に留まったら監国し、国君の外出に太子が従えば撫軍するものです。しかし国君が国に留まり太子が外出するというのは、今までなかったことです。」

献公が言いました「これは汝が知ることではない。太子を立てるには三つの道があるという。身(徳)が均しい場合は年長者を選び、年が同じ場合は国君の愛情の程度で選び、愛情が同じで決断できない時は卜・筮で選ぶものだ。汝が我々父子の関係を心配する必要はない。わしは今回の遠征で太子の能力を確認したいと思っているのだ。」

献公が不機嫌になったため、里克は退出しました。

外に出ると申生がいました。申生が言いました「主君は私に偏衣・金玦を下賜しましたが、何の意味があるのでしょうか。」

里克が言いました「孺子(子供。若者)よ、恐れているのですか?偏衣は国君の衣服の半分をあなたに着るという意味です。しかも金玦を持たせている。あなたへの愛情は薄くありません。恐れる必要はありません。人の子たる者は自分が不孝であることを恐れ、得るものがない(即位できない)ことは恐れないものです。『恭敬は請願よりも賢い(敬賢於請)』ともいいます。孺子は勉めて国君に仕えるべきです。」

後世の人は「里克は父子の感情をうまく調整することができた」と称えました。

 

太子・申生が出征しました。狐突が戎車を御し、先友が車右になります。申生は偏衣を着て金玦を持ちました。

出発してから申生が先友に聞きました「国君が私にこれらを与えたのはなぜだろう。」

先友が言いました「国君は権力を半分に分け、金玦の権(決定権)を与えられたのです。孺子よ、この機会に尽力してください。」

狐突が嘆いて言いました「雑色(複数の色)の衣服を純粋な人に着せました。また、最も冷たく光る金玦を太子に与えました。国君の心が冷えているからです。どうしてこれらに頼ることができるでしょう。そもそも、たとえ尽力したとしても狄を全て滅ぼすことができるとお思いですか?」

先友が言いました「国君の衣服の半分を着て、兵の要(指揮権)を握っています。この出征に勉めればいいだけのことです。偏衣に悪意は無く、兵権を握れば災を遠ざけることができます。心配することはありません。」

 

晋軍が稷桑に入ると狄人が迎撃しました。

申生は戦おうとしましたが、狐突が諫めて言いました「いけません。国君が寵臣を愛したら大夫が危うくなり、国君が女色を愛したら嫡子(太子)が危うくなって社稷が難に遭うといいます。父君の望みをかなえれば(太子の地位から退けば)死から遠く離れることができます。戦をせず大衆に恩恵を与えれば社稷を利することができます。そもそも、太子が危険な狄の地にいる間にも、国内で讒言が生まれています。」

申生が言いました「国君が私に遠征を命じたのは、私を好きだからではなく、私の心を試すためだ。だから私は奇服と兵権を与えられた。出陣前に国君は私に甘言を述べた。その言葉は大いに甘いものだったが、その中には必ず苦みがある。宮中で讒言が生まれ、国君の心は決まっている。私がそこから逃れることはできない。ここは戦うべきだ。戦わずに還ったら私の罪は更に大きくなる。もし戦って死んだら、美名を残すことはできるはずだ。」
 
申生は稷桑で狄を破って凱旋しました。
しかし僕人・賛等が予想した通り宮内での讒言はますます増えていきました。
狐突は家の門を閉ざして外に出なくなりました。