春秋時代36 東周恵王(十五) 邢・衛の再建 晋の虢攻撃 前659~657年

今回も東周恵王の時代です。
 
恵王十八年
壬戍 659
 
[] 魯釐公(僖公)の元年、季友を相に任命し、汶陽(汶水北)邑を与えました。季友の子孫は季孫氏(季氏)を名乗ります。
慶父の子孫を孟孫氏(仲孫氏。孟氏)、叔牙の子孫を叔孫氏(叔氏)といい、季孫氏と併せて三桓と称されました。三桓の「桓」は慶父・叔牙・季友が魯桓公の子だったことを表します。
 
[] 春、斉桓公、宋桓公、曹昭公が師()を率いて聶北に駐軍しました。狄に攻撃されている邢国を援けるためです。
しかし邢国は壊滅し、邢の人々は諸侯の陣に逃走しました。
諸侯は狄軍を攻撃し、同時に邢国の器物財貨と共に邢人を安全な場所に遷しました。
 
夏六月、邢国が夷儀(または「陳儀」)に遷りました。
斉、宋、曹の兵が邢のために城を築きました。邢国の国境が定められ、狄の略奪を防ぎ、牛馬等の家畜を守ることができるようになりました。
 
[] 魯の荘公夫人・姜氏(哀姜)は魯で政変が起きた時、邾国に逃げました(前年)
桓公は魯の乱の原因が哀姜と慶父にあったため、邾国から哀姜を呼び戻しました。
秋七月戊辰(二十六日)、斉が哀姜を夷(恐らく斉地)で殺しました。
 
[] 楚が鄭を攻撃しました。鄭が斉に服従していたためです。
八月、斉桓公、魯釐公、桓公、鄭文公、曹昭公と邾子が檉(別名「犖」。または「朾」)で会盟しました。
この後、諸侯と楚の戦いに関する記述がないので、楚は兵を退いたようです。
 
[] 邾国は虚丘(邾と魯の国境)に守備兵を置いていました。前年、魯で政変があったため、警戒して兵を置いたのかもしれません。あるいは、邾国は哀姜を匿っていたため、魯との戦闘に備えていたのかもしれません。
九月、邾が乗丘の兵を退きあげさせました。しかし魯釐公が(または「纓」。邾地)で邾師を襲って破りました。
 
[] 莒国が魯に賄賂を求めました。前年、亡命してきた慶父を魯に返したため、何回も賄賂を要求したようです。
冬十月壬午(十二日)、魯の公子・友が酈(または「犂」「麗」。魯地)で莒軍を破り、莒子(莒の国君)の弟・拏(または「挐」)を捕えました。
 
[] 魯僖公が荘公夫人・姜氏(哀姜)の死体返還を求めたため、斉桓公はその死体を魯に送りました。
十二月丁巳(十八日)、霊柩が魯に到着しました。
 
『春秋左氏伝』はこの事件を「斉人が哀姜を殺したのは度が過ぎている。女子は元々人に従うものである(乱は慶父の責任であって、それに従った哀姜の罪は死刑に値しない)」と評価しています。
古代の女性は、嫁ぐ前は父に従い、嫁いだら夫に従い、夫が死んだら子に従うと教えられていました。これを「三従の義」といいます。
 
[] この年、秦穆公が自ら兵を率いて茅津を討ち、勝利しました。茅津は戎の名のようです。
 
 
 
恵王十九年
癸亥 前658
 
[] 春正月、斉桓公を中心とする諸侯が楚丘に城を築きました。曹国に逃れた衛人を住ませるためです。
周王室が正式に衛を楚丘に封じました。
僖公は楚丘建設の大工事に遅れたようです
 
桓公は前年、邢人のために夷儀に国を造り、本年は衛人のために楚丘に国を造りました。邢人は新しい地への移住を国に帰ったかのように喜び、衛人も楚丘に遷ってから亡国の悲劇を忘れることができました。
この二事は覇者・桓公の功績として称えられています。
 
資治通鑑外紀』は『管子』『国語』等を元に斉桓公と諸侯の関係を紹介しています。別の場所で書きます。

春秋時代 斉桓公と諸侯(二)

 
[] 夏五月辛巳(十四日)、魯が哀姜を埋葬しました。
 
[] 晋の荀息が献公に虢攻撃を進言しました。しかし虢に行くには虞を通らなければなりません。そこで荀息は屈地の馬と垂棘の璧を虞に贈って道を借りるように勧めました。
献公が言いました「それらはわしの宝だ。」
荀息が言いました「もしも虞の道を借りることができたら、外府(外の倉庫。虞国)で一時的に宝物を保管するようなものです(いずれ取り返すことができます)。」
献公が言いました「虞には賢臣・宮之奇がいる。」
荀息が言いました「宮之奇は惰弱なので強く諫めることができません。また、彼は幼い頃から虞君と一緒に成長したため、関係が親しすぎます。諫言しても虞君は聞き入れません。」
献公は荀息を虞に派遣しました。

以上は『春秋左氏伝(僖公二年)』の記述です。『史記・晋世家』は少し異なります。
晋献が言いました以前、我が先君の荘武公が晋の乱を誅した時、がしばしば晋を援けて我々曲沃を攻めた。また、晋の亡公子(亡命した公子)もかくまっており、乱を成そうとしている。滅しなければ子孫いを残すことになるだろう。」
献公は荀息産の名馬を与え、に道を借りさせました
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
荀息が虞君に言いました「以前、冀国が道を失い、顛軨(地名。虞坂)を通って、鄍邑(虞地)の三門を攻撃した時、我が国は貴国のために冀国を討伐しました。今、虢国が道を失い、客舎に塁壁を築いて敝邑(晋国)の南境を侵しました。虢国討伐のために道を貸していただけないでしょうか。」
虞公はこれに同意し、先導を買って出ました。宮之奇が諫めても聞き入れません。
虞は虢に向けて兵を出しました。
 
夏、晋の里克、荀息が師を率いて虞師と合流し、虢を討伐しました。
虞・晋連合軍は下陽(または「夏陽」)を占領します。下陽は黄河北に位置し、虢国の宗廟・社稷がありました。
『竹書紀年』(古本・今本)はこの時「虢公・醜が衛に奔った」と書いていますが、下陽を落とされた虢は黄河南に遷り、南虢として国を存続させました。虢公が出奔するのは三年後のことです。
 
献公は瑕父と呂甥に命じて虢の国都(下陽)を邑とさせました。
 
[] 秋九月、斉桓公、宋桓公と江人、黄人が貫(宋地)で会盟しました。
江と黄の二国はもともと楚に従っていましたが、始めて斉に服従しました。
 
[] 冬十月から翌年夏まで、魯で雨が降らなくなりました。
 
[] 斉の寺人(宦官)・竪貂(または「竪刁」)が多魚(地名)で軍事に関する情報を魯に漏らしました。具体的にどのような情報が流れたのかは分かりません。
 
[] 虢公が桑田で戎を破りました。
晋の卜偃が言いました「虢は必ず亡ぶ。下陽を失ったのに恐れず、逆に武功を立てた。これは天が虢の鑒(鏡)を奪い、その過ちを見えないようにして禍を増したのだ。虢は晋を軽視し、ますます民を憐れまなくなるだろう。五年ももたないはずだ。」
 
[] 冬、楚が鄭を攻撃し、大夫・章が鄭の聃伯を捕えました。
 
[九] この年、燕荘公が在位三十三年で死に、子の襄公が立ちました。

[] 『史記・晋世家』によると、この頃、晋献姫に「わしは太子(申生)を廃して斉を立てるつもりだと言いました。
しかし姫は泣いてこう言いました「太子が立てられていることは諸侯知っています。しかも、度々兵を指揮しており、百姓も帰心しています。賎(私)のために(嫡子)を廃して子を立てるのですか。国が必ずそうするというのなら、(私)は自ら命を絶ちます。
姫は表では太子を支持する姿を見せましたが、裏ではを使って太子を讒言させました
 
 
 
恵王二十年
甲子 前657
 
[] 春中、魯で雨が降りませんでした。
 
[] 夏、徐人が舒を取りました。徐は嬴姓の国、舒は偃姓の国です。
舒は舒庸、舒蓼、舒鳩、舒龍、舒鮑、舒龔の六部に分かれており、「群舒」とよばれていました。この時、徐国が占領したのが群舒の全てなのか一部なのかは不明です。また、『春秋左伝注』(楊伯峻)によると、徐国は舒から数百里も離れていたため、その地を統治するのは不可能でした。舒は暫くして復国したようです。今後も舒国は登場します。
 
[] 六月、魯でやっと雨が降りました。
魯では前年十月から雨が降りませんでしたが、史書『春秋』には「不雨」とあるだけで「旱」という記述がありません。『春秋左氏伝』は「雨が降らなかったことによる被害がなかったため、『旱』とは書かない」と説明しています。
 
[] 秋、斉桓公、宋桓公および江人、黄人が陽穀で会盟しました。楚に対抗するためです。
 
陽穀の会盟に魯が参加しなかったため、斉桓公は魯に使者を送って改めて会盟を求めました。
冬、魯の公子・友(季友。名が友で季友は字です。名と字が同じです)が斉に入り、陽穀の盟約に参加しました。
 
[] 楚が鄭を攻撃しました。
鄭文公が楚と講和しようとしましたが、孔叔が反対して言いました「斉が我が国のために尽力しています。徳を棄てるのは不祥です。」
 
[] この年、斉桓公と蔡姫(蔡穆公の妹)が囿(苑)で舟に乗って遊びました。蔡姫は戯れて舟を揺らします。桓公が顔色を変えて止めるように命じましたが、蔡姫は止めませんでした。
怒った桓公は蔡姫を蔡国に帰らせ、関係を絶ちました。
斉の一方的な態度に蔡も怒り、蔡姫を別の者と再婚させました。
翌年、ますます怒った斉桓公が蔡を攻撃します。
 
以上、『史記・斉太公世家』と『春秋左氏伝』の記述を元にしました。『春秋左伝注』(楊伯峻)は二つの異なる記述も紹介しています。
まず『韓非子・外儲説』には「怒而出之、乃且復召之」とあります。桓公が怒って蔡姫を追い出しましたが、暫くして呼び戻したという意味です。
また、長沙馬王堆から出土した『春秋事語』には「今聴女辞而嫁之」と書かれているようです。蔡姫本人の意志を聞いて別の男に嫁がせたという意味です。
 
 
 
次回に続きます。