春秋時代 斉桓公と諸侯(一)

斉が狄の攻撃を受けた邢や衛を援けました。

春秋時代36 東周恵王(十五) 邢・衛の再建 晋の虢攻撃 前659~657年


桓公と諸侯の関係について『資治通鑑外紀』が『管子』『国語』を元にいくつかの逸話を紹介しています。以下、列記します。

 
まずは『管子・覇形(第二十二)からです。
宋が杞を攻め、狄が邢と衛を攻撃しました
しかし斉桓公は病と称して動こうとせず、管仲を召して言いました「寡人(私)には千年の食があるが百歳の寿命はない。今、こうして病に侵された。時を惜しんで楽しもうではないか。」
管仲は「わかりました」と言いうと、楽器を並べて歌舞を演じさせ、一日に数十頭の牛を殺して宴を開きました。このような日が数十日も続くと、群臣が諫めて言いました「宋が杞を攻め、狄が邢・衛を攻めました。これらを援けなければなりません。」
桓公が言いました「寡人には千年の食があるが百歳の寿命はなく、しかも疾病を得た。今のうちに楽しまなければならない。そもそも彼等は寡人の国を侵したのではない。隣国のことだ。汝等が心配することではない。」
やがて宋が杞を占領し、狄が邢と衛を滅ぼしました。
しかし桓公は楽器に囲まれた生活をしています。
管仲が大鐘の西に立ちました。桓公は南面して立ち、管仲は北面しています。大鐘が鳴ると桓公管仲に言いました「仲父管仲よ、楽しいだろう。」
管仲が言いました「これは悲哀というものです。楽しみではありません。古の帝王が鐘(楽器)の間で楽しんだ状況は、今とは異なります。帝王が言葉を発したら、その命令は天下に行き渡りました。鐘磬の間で遊ぶ時も、四面に兵革(兵器。戦争)の憂いはありませんでした。しかし今、主君の言葉は天下に行き渡ることなく、鐘磬の間で遊んで四面には兵革の危険が存在しています。これは楽ではなく哀というべきです。」
桓公は「わかった」と言うと全ての楽器を撤去し、歌舞を止めさせました。中には誰もいなくなります。
桓公管仲に言いました「寡人は鐘磬も歌舞も去らせた。何から始めるべきだ?」
管仲が言いました「宋が杞を攻め、狄が邢・衛を攻撃した時、我が君が援けなかったのは幸いなことです。諸侯が強を争っている時には、共に強を争うべきではないといいます。今、杞も邢も衛も既に滅びました。我が君はまず三君が住む場所を安定させるべきです。」
同意した桓公は車百乗、兵卒千人を用意して杞国のために縁陵に城を築き、同じく車百乗、兵卒千人を用意して邢国のために夷儀に城を築き、車五百乗、兵卒五千を用意して衛国のために楚丘に城を築きました。
桓公管仲に言いました「寡人は既に三君の居を定めた。次は何をするべきだ?」
管仲が言いました「諸侯が利を貪っている時は、共に利を争ってはならないといいます。我が君は虎豹の皮や錦を諸侯に与え、諸侯からは素帛や鹿皮を献上させるべきです。」
桓公はこれに従って虎豹の皮や錦を諸侯に与えました。諸侯は安価な素帛や鹿皮で答礼します。
諸侯は桓公の徳に慕って帰順し、桓公政令が天下に行きわたるようになりました
 
『管子・大匡(第十八)にも斉桓公が杞・邢・衛を援けたことが書かれています。但し、上述の内容とは若干異なります。
桓公が即位して五年目、宋が杞を攻めました。(略)
桓公は縁陵に城を築いて杞を遷し、車百乗と甲兵千人を与えました。
翌年、狄人が邢を攻めました。邢君は出奔して斉に入ります。桓公は夷儀に築城して邢君を住ませ、車百乗、兵卒千人を与えました。
その翌年、狄人が衛を攻めました。衛君は虚に出奔します。桓公は楚丘に築城して衛君を住ませ、車三百乗、甲兵五千を与えました
 
実際は杞を縁陵に遷したのは東周襄王七年(前645年)、邢のために夷儀に築城したのは恵王十八年(前659年)、衛のために楚丘に築城したのは恵王十九年(前658年)のことなので、それぞれの事件には隔たりがあります。
 
 
次は『国語・斉語』からです。
狄人が邢を攻めたため、桓公は夷儀に城を築いて邢国を遷しました。邢は略奪されることがなくなり、牛馬等の家畜も安全になります。
狄人が衛を攻め、衛人は曹に避難しました。桓公は楚丘に城を築いて衛を遷しました。衛の家畜が離散したため、桓公は馬三百頭を与えました。
天下の諸侯は桓公の仁を称え、桓公が私欲のために動いているのではないと判断して指示に従うようになりました。
 
 
『管子・小匡(第二十)からです。
桓公は諸侯が帰心したと知り、諸侯から贈られる幣物を減らして諸侯に与える礼を厚くしました。諸侯が痩せた馬・犬・羊を礼幣としたら、斉は良馬で答礼します。諸侯が素帛や鹿の皮四枚を礼幣としたら、斉は文錦や虎豹の皮で答礼します。諸侯の使者が何も持たずに斉に来たら、馬車の荷台に物資を満載させて還らせました。
桓公は仁愛によって招き、利益によって誘い、信頼によって結び、武力によって威信を示したため、小国諸侯は桓公に服して裏切ることなく、桓公の仁愛を喜び、利益を手に入れ、仁義を信じて武威を恐れました。
桓公は小国諸侯の多くが斉に帰順したと判断すると、更に大きな恩恵を施しました。諸侯と共に憂い、共に謀り、武力を用いる必要がある場合は諸侯を援けて兵を用います。桓公は譚国や莱国を攻撃しましたが、占有はしませんでした(譚国は東周荘王十三年、前684年に斉桓公によって滅ぼされました。桓公の莱国攻撃がいつのことかは分かりません。莱国が滅ぶのは遥か後の東周霊王五年、前567年のことです。『国語・斉語』は莱国ではなく遂国としています。遂国は東周釐王元年、前681年に桓公に滅ぼされました)。諸侯は桓公の仁徳を称賛しました。
東莱(斉の東にあった莱国を東莱というのか、西莱と東莱の二国があったのかははっきりしません)と魚や塩の交易を行いましたが、関所と市場を設けて検査をするだけで税は取りませんでした。その魚や塩が他の国に安く売り出され、諸侯に利をもたらします。諸侯は桓公を寛大として称えました。
蔡、鄢陵、培夏、霊父丘といった邑に城を築いて戎狄の侵攻から守りました。五鹿、中牟、鄴、蓋與、社丘といった要地にも城を築いて諸夏(中原諸国)に武威を示しました。
桓公による教化が完成したため、遠国の民は父母に対するように桓公に慕い、近国の民は流水のように自然に桓公に従いました。遥か遠くの者でも桓公の政治によって利益を得ることができました。これは人々が桓公の文治に服し、武威を恐れたからです。桓公は無道な諸侯を討伐し、周室を安定させました。天下で逆らう者がいないのは軍備にも力を入れたからです。その後、三革(兜・鎧・盾)と五兵(刀・剣・矛・戟・矢)を収め、朝服で黄河を渡って西に臨み、戦わずに西方諸国を帰順させました。これは文治による功績が大きかったからです。大国の主君は反省してみだりに動くことがなくなり、小国諸侯は次々に斉に帰服していきました
 
 
資治通鑑外紀』は斉が経済政策によって周辺諸国服従させた様子を書いています。
当時、魯と梁は綈(紡織品)を生産し、莱と莒は柴田(薪を生産する場所)を持ち、代は狐白(白狐の皮)を売り、楚は鹿を売っていました。管仲桓公に進言してこれらを高価で買い取らせます。魯、莱、代、楚の国君は金銭を重視し、斉に売るために特産物の生産に力を入れて農業を疎かにしました。
数年後、斉は突然各国との交易を停止します。各国は収入が減ったため食糧難に陥りましたが、農業をすぐに復興させることはできず、多くの民が斉に流れていきました。
この詳細は『管子・軽重戊(第八十四)に記載されています。
 
 
次は『管子・中匡(第十九)からです。
管仲が国費を計算すると、三分の二が国外の賓客に用いられ、国内の出費に充てられているのは三分の一だけでした。管仲がこれを桓公に報告すると、桓公はこう言いました「汝は心配しているのか?四鄰の賓客が我が国に入って喜び、国を出たら称賛する。こうなれば光名が天下に満たされる。逆に我が国に入って喜ばず、出たらけなすようでは、名が天下に満ちることになる。土壤があれば粟穀物を作ることができる。木があれば物資を作ることができる。粟がなくなったらまた生産すればいい。物資がなくなったらまた集めればいい。人の君となる者にとって名声こそもっとも貴重である。財があって何の役に立つというのだ。」
管仲が言いました「これは我が君の賢明なところです。」


次回に続きます。