春秋時代37 東周恵王(十六) 斉桓公南征 晋太子申生の死 前656年

今回も東周恵王の時代です。
 
周恵王二十一年
乙丑 前656
 
[] 春正月、斉桓公が魯公釐公)宋公桓公、陳侯(宣公)、衛侯(文公)、鄭伯(文公)、許男(男爵・穆公)、曹伯(伯爵。昭公)と共に蔡を攻撃しました。
蔡は壊滅し、穆公(繆公)は斉に捕えられました。
 
桓公と諸侯の連合軍はそのまま南下して楚討伐に向かいました。
楚子(成王)が連合軍に使者を派遣してこう伝えました「君は北海にあり、寡人(私)は南海にいる。馬牛を失っても互いの地に至ることはないほど離れているのに(「風馬牛不相及」。「風」は「失う」の意味)、君が我が地に来たのは何のためだ?」
管仲が答えました「昔、召康公が我が先君・太公呂尚にこう命じた『五侯九伯で従わない者がいたら、汝が征伐して周室を援けよ西周成王二年参照)。』先君に与えられた責任の範囲は、東は海に至り、西は黄河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。汝が包茅(苞茅。草の名。楚が周王室に進貢することになっていました)を貢納しないため、王祭に必要な物が不足し、縮酒ができなくなった(周王室の祭祀では、祭壇の前に束ねた苞茅を立てて酒を注ぐ儀式がありました。酒糟が茎の中に溜まり、清められた酒が下に流れる様子を神が酒を飲む姿に見立てたようです。これを「縮酒」といいます)。我々はこれを譴責に来た。また、かつて昭王が南征して還らなかった西周昭王十九年参照)。我々はこの罪を問いに来た。」
楚成王が使者を通して答えました「進貢しなかったのは寡君の罪だ。今後、怠ることはない。しかし昭王が還らなかったことに関しては、水浜に聞いてくれ。」
諸侯は軍を進めて陘陘山。楚地)に駐軍しました。
 
夏、許男・新臣(男爵。穆公)が陣中で死に、子の僖公・業が立ちました。
 
楚成王が王族の屈完を諸侯連合軍の陣に送りました。諸侯は軍を退いて召陵に駐軍します。
桓公が諸侯の大軍に陣を構えさせ、屈完と同じ馬車に乗って整然とした軍容を見せました。桓公が言いました「諸侯が兵を出したのは不穀(私)一人のためではない。先君が築いた友好を継続させたいからだ。我々と関係を修復したいと思わないか?」
屈完が言いました「敝邑(我が国)社稷に福をもたらし、我々を許容していただけるとは、まさに寡君(自国の主君)の願いです。」
桓公が諸侯の兵を指して言いました「このように立派な兵を誰が防ぐことができるだろう。彼等が城を攻めたら、落とせない城などないだろう。」
屈完が言いました「あなたが徳によって諸侯を従えるのなら、帰服しない者はいないでしょう。しかし力によって従えようとするなら、楚国は方城(楚の山名、または長城)を城壁とし、漢水を池(堀)とします。たとえあなたの兵が多くても役には立ちません。」
 
屈完が召陵で諸侯と盟を結び、楚と中原諸国は講和しました。
諸侯が蔡の穆公のために桓公に謝罪したため、桓公は穆公を釈放しました。
 
陳国の轅濤塗が鄭の大夫・申侯に言いました「大軍が陳と鄭の間を通って凱旋したら、我々両国を疲弊させることになる(陳と鄭が諸侯の大軍のために食糧・物資を供給しなければならないからです)。東方を回り、東夷に武威を示しながら海に沿って帰るようなら安全だ。」
この申侯は元々楚文王に仕えていた申侯伯です(東周恵王二年、前675年参照)。鄭に亡命して高位に就いていました。
申侯が轅濤塗の提案に賛成したため、轅濤塗は早速、斉桓公に進言しました。桓公は東巡に同意します。
ところが申侯が桓公にこう言いました「今回、諸侯が出征してから長い時間が経っています。東方を回ってもしも敵に遭遇したら、諸軍は役に立たないでしょう。陳と鄭の間を通れば物資も食糧も軍靴も両国が供給します。この道を選ぶべきです。」
桓公はこの進言に喜び、申侯に虎牢の地を与えました。轅濤塗は桓公に捕えられました。
 
以上は『春秋左氏伝(僖公四年)』を元にしました。『史記・斉太公世家』もほぼ同じ内容で、「陳の大夫・轅濤塗が斉桓公を騙して斉軍を東路から帰還させようとしたが、企みが発覚した」と書いています。
しかし同じ『史記』でも『陳杞世家』は若干異なり、「轅濤塗は斉軍が国境を騒がすことを嫌い、斉桓公を騙して東路の沿海を通って帰還させた。しかし東路は道が悪かったため、怒った桓公が轅濤塗を捕えた」としています。
『春秋公羊伝(僖公四年)』にもこの時のことが書かれています。「轅濤塗の進言に同意した斉桓公は沿海を通って東に向かったが、沼澤に陥った。これが原因で轅濤塗を捕えた」とあるので、『陳杞世家』とほぼ同じです。
 
秋、斉桓公が江国と黄国の兵を率いて陳を討伐しました。轅濤塗の罪を問うためです。
斉ではなく魯が江国と黄国を率いて陳を攻撃したとする説もあります。
 
八月、魯僖公が楚討伐から帰国しました。
 
[] 許が穆公を埋葬しました。
穆公は男爵でしたが、陣中で死んだため侯爵の礼で葬儀が行われました。諸侯が朝会で死んだ時は葬儀の礼に一等が加えられ、王事(戦争)で死んだ時は二等が加えられることになっていました。公・侯・伯・子・男の五爵のうち、子爵と男爵は同等とみなされるので、二等上は侯爵になります。公や侯で等級がそれ以上加えられない場合は、天子の礼服を着ることが許されました。
 
[] 冬十二月、魯の公孫茲(または「公孫慈」)が斉・宋・衛・鄭・許・曹と連合して陳を攻めました。
公孫茲は叔牙(魯荘公の弟。東周恵王十五年、前662年参照)の子で、叔孫戴伯とよばれます。
陳が講和を求めたため、斉は轅濤塗を釈放しました。
 
[] かつて晋献公が驪姫を夫人に立てようとした時、卜(亀の占い)で「不吉」と出て、筮(蓍草の占い)で「吉」と出ました。献公が「筮に従う」と言うと、卜人がこう言いました「筮は短く亀は長いものです。長い方に従うべきです。しかも卜の繇(兆辞)には『独占(寵愛)は変事を生み、公の牡羊を盗む。香草と臭草を一緒にしたら、十年経っても臭いは残る(専之渝,攘公之羭。一薰一蕕,十年尚猶有臭)』とあります。筮に従ってはなりません。」
献公は諫言を聞かず、驪姫を夫人に立てました。
驪姫は奚斉を産み、驪姫の妹は卓子を産みました(東周恵王十一年、前666年参照)。驪姫は奚斉を太子に立てるため、中大夫と計を練りました。
驪姫が太子・申生に言いました「主君が夢で斉姜(申生の母)に会いました。速やかに祭るべきです。」
申生は曲沃で祭祀を行いました。曲沃は晋の宗廟がある場所で、申生が守っていました。斉姜も廟に入れられています。
祭祀が終わると申生は胙(祭祀で使った酒肉)を献公に贈るため都・絳に入りました。
この時、献公は狩りに出ていました。驪姫は酒肉を六日間(『春秋左氏伝』は「六日」。『史記・晋世家』は「二日」)、宮内で保管し、献公が帰るのを待って、毒を入れて献上しました。献公が地を祀るために酒を注ぐと、土が盛り上がりました。肉を犬に与えると犬は死んでしまいました。小臣(侍臣)に食べさせると小臣も死にました。
驪姫が泣いて言いました「太子の陰謀です。」
申生は新城(曲沃。申生のために築城したばかりだったため、新城といいます。東周恵王十六年、前661年参照)に逃走し、献公は申生の傅・杜原款を殺しました。
 
ある人が申生に言いました「あなたが弁明すれば主君は必ず分かるでしょう。」
申生が言いました「主君は姫氏がいなければ不安で食事も満足にできない。私が弁明したら姫氏が必ず罪を受ける。主君は老いた。姫氏が罪を得て主君が楽しまないのに、私が安楽でいることはできない。」
ある人が言いました「あなたは逃げるべきです。」
申生が答えました「主君が罪を調査して潔白を証明することがないのに、父を殺そうとした悪名を背負って逃走したところで、私を受け入れる人はいない。」
十二月戊申(晋が使っていた夏暦で十二月戊申。周暦では翌年二月二十七日)、申生が新城で首を吊って死にました。
この時、公子・重耳と夷吾も都・絳にいました。
驪姫は二公子も讒言して「二人とも陰謀を知っていました」と言いました。
重耳は蒲に、夷吾は屈に奔りました。

以上は『春秋左氏伝僖公四年』の記述です。『史記・晋世家』は少し異なります。
狩りから帰った献宰人を献上しました。献が食べようとすると、傍にいた姫が止めて言いました「は遠いところから届けられました。試してみるべきです。」
そこで献公がを祭ると、地面が盛り上がりました。
肉を犬に与えると犬が死に、小臣に与えると小臣にました
姫が泣いて言いました「太子はなんと残忍なのでしょう。自分のも弑殺しようというのですから、に対してならなおさらです。しかも年老いた国旦暮(先が短い人)なのに、待つことができず弑殺しようとするとは!」
驪姫が献に言いました「太子がこのようなことをするのは(私)斉に原因があります。私達子母国に送るか、早く自殺させてください。私達を太子魚肉(餌食)にさせないでください以前、国が太子を廃そうとした時、(私)はそれに反対しました。しかしはそれが誤りだったとわかりました。」
この事を聞いた太子新城曲沃に奔りました。怒った献は太子の杜原款を処刑します。
ある人が太子にこう言いました(毒)を入れたのは姫です。太子はなぜ弁明しないのですか?」
しかし太子はこう言いました我がは既に年老いた。姫がいなければ安心して寝ることもできず、食事をしても美味しいと思えない。私が弁明したら国は驪姫に対して怒るだろう。そのようなことになってはならない。」
またある人が太子に言いました「他国に奔るべきです。」
太子はこう言いましたこのような悪を負って国を出ても、が私を許容してくれるというのだ。私は自殺するだけだ。」
十二月戊申申生新城で自殺しました
この重耳夷吾も晋都にいました。ある姫に「二公子は、姫が讒言によって太子を殺した事を怨んでいます」と言ったため、姫は恐れて二公子を讒言し、こう言いました「申生に薬を入れたことは、二公子も知っていました。」
これを聞いた二子は恐れて逃走しました。重耳を、夷吾を守ります

『国語』は更に詳しく書いているので、別の場所で紹介します。
 
[] この年、秦穆公が晋から夫人を娶りました。『史記・秦本紀』は穆公夫人を晋献公の娘で太子・申生の姉にあたるとしています。しかし『晋世家』では申生の妹としています。
 
[六] 『資治通鑑外紀』によると、この年、呉が斉の穀城を攻撃しました。これは『管子・大匡(第十八)』の記述を元にしています。
呉の侵入を諸侯に連絡する前に斉の徳を慕った諸国が兵を出し、桓公の到着を待ちました。桓公は兵車千乗を率いて国境で諸侯と会います。斉軍が戦闘の準備を整える前に呉兵は逃走しました。それを見届けて諸侯も兵を還しました。
 
 
 
次回に続きます。