春秋時代 晋太子申生の死

晋の太子・申生が殺されました。

春秋時代37 東周恵王(十六) 斉桓公南征 晋太子申生の死 前656年


『国語・晋語二』に詳しく書かれているので、ここで紹介します。
 

申生が稷桑(東山)から凱旋して五年が経ちました(東周恵王十七年、前660年参照。足掛け五年です)

驪姫が献公に言いました「申生の陰謀はますます深くなっていると聞きました。私は以前、申生が大衆の心を得ていると言いました。大衆に利がないのに狄に勝てるはずがありません。しかも最近は、狄を破った功を誇り、ますます志を大きくしています。狐突は申生に従いたくないため、家にこもりました。申生は信を守り、強を好むといいます。彼は既に国君の地位を奪うことを周りの者に漏らしているので、後悔して中止したら周りから責められます。約束を破ったら、人々の不満を抑えることができません。だから周到な陰謀を考えているのです。もし早く手を打たなければ、近々禍難が訪れます。」
献公が言いました「それを忘れたことはない。しかし罪を与える機会がないのだ。
 
驪姫が優施に言いました「国君が私に太子を殺して奚斉を立てることを許しました。しかし里克が邪魔になるはずです。」
優施が言いました「私が里克を招きましょう。一日で解決できます。あなたは特羊の饗(羊一頭を使った宴)を準備してください。私が酒を勧めて話をします。私は優(娯楽を提供する役者)なので、度が過ぎたことを言っても問題ありません。」
驪姫は同意して宴を準備しました。

 

宴が始まると優施が里克に酒を飲ませました。酒がまわった頃、優施が立ち上がって舞いを始め、里克の妻に言いました「主孟(「主」は大夫の妻という意味。「孟」は里克の妻の字)が私に酒を勧めてくれるなら、彼(里克)が平穏に国君に仕える方法を教えましょう(主孟啗我,我教茲暇豫事君)。」

優施が続けて歌いました「安心して国君に仕えたいのに、自ら近付くことができない。その智慧は鳥や烏にも劣る。人は苑(草木が豊富な場所)に集まるのに、彼一人枯木の下にいる(暇豫之吾吾,不如鳥烏。人皆集於苑,己独集於枯)。」

これは里克のことを歌っています。里克が笑って言いました「苑とは何だ?枯木とは何だ?」
優施が言いました「母が国君の夫人となり、その子が国君を継ぐのは、草木や花が豊富な苑と同じでしょう。母が既に死に、その子も誹謗されているのは、枯木と同じでしょう。枯れるだけでなく、もうすぐ伐り倒されます。
優施が退出すると、里克は酒菜をさげて何も食べず床に入りました。夜半、眠れない里克は優施を招いて聞きました「先ほどの発言は冗談か?それとも何か噂を聞いたのか?」
優施が言いました「はい。国君は既に驪姫が太子を殺して奚斉を立てることに同意しました。その謀は既にできています。」
克が言いました「君命を奉じて太子を殺すのは、私には忍びない。しかし今まで通り太子と接するのも、私にはできない。中立であれば禍から逃れられるか?」
優施が言いました「逃れられます。」
 
翌朝、里克が丕鄭に会って言いました「史蘇の言がもうすぐ本当になる。優施が言うには国君の謀はもうできているそうだ。奚斉が太子に立てられる。」
丕鄭が聞きました「あなたは何と言ったのですか?」
里克が答えました「私は中立の立場だと言った。」
丕鄭が言いました「惜しいことです。優施の話を聞いた時、信用できないと言って相手にしなければ、陰謀の時を遅らせ、太子の周りを強化し、方法を考えて彼等の意志を変えることができたでしょう。彼等の意志が弱くなれば、離間させることもできたはずです。しかしあなたが中立と答えたので、彼等の意志は固まってしまいました。陰謀が完成したら離間も難しくなります。」
里克が言いました「すでに言ってしまったことはどうしようもない。そもそも彼等の心は決まっている。それを変えることはできないだろう。汝はどうするつもりだ?」
丕鄭が言いました「私は無心です。国君に仕える身なので、国君の心が我の心です。決定権は私にはありません。」

里克が言いました「国君を殺して太子を守るのは廉(実直)である。しかし廉によって驕心し、驕によって人の家(献公父子)を制するようなことは私にはできない。自分の意志を曲げて国君に仕え、太子を廃して自分の利とし、利のために他者奚斉)が太子に立つのを助けるのも、私にはできない。隠退するしかない。」

翌日から里克は病と称して入朝しなくなりました。

この三旬(三十日)後に申生が害されました

 

驪姫が国君の命と称して申生に言いました「昨晩、国君が夢で斉姜(申生の母)に会いました。速やかに祭祀を行い、福(祭祀で用いた肉酒)を国君に贈りなさい。」

申生は命に従って曲沃で祭祀を行い、福を国都・絳に届けました。
この時、献公は狩猟に出ていました。

驪姫は福を受け取ると、鴆(毒)を酒に入れ、(烏頭。毒薬の名)肉に入れました。

帰還した献公が申生に福を献上させます。献公は地を祭って酒を注ぎました。すると土が盛り上がりました。申生は恐れて逃走しました。

驪姫が肉を犬に与えると、犬は死んでしまいました。小臣(恐らく宦官)に酒を飲ませると小臣も倒れて死にました。

献公は怒って申生の傅・杜原款を殺しました。申生は新城(曲沃)に逃げ帰ります

 

杜原款は死ぬ前に小臣・圉を使って申生にこう伝えました「私は才が無く、智が少なく、鋭敏でもないため、太子を教導することができず、こうして死ぬことになりました。国君の心を深く知ることもなく、本来なら太子にその地位を棄てさせ広土に生きる場所を見つけさせるべきでしたが、私は慎重で遅鈍だったため、太子と共に逃げることもできませんでした。太子に対する誹謗があることも知っていましたが、私は反駁もしませんでした。その結果、今回の大難に陥り、讒言に害されることになってしまいました。私は死を恐れません。讒人(驪姫等)と悪名を共にするだけです。君子は情(忠愛の情)を失わず、讒言に言い訳せず、讒言が身に及んで死ぬことを受け入れ、美名を残すものだといいます。死んでも情を失わないのは堅強です。情を守って父を喜ばせるのは孝です。身を殺して志を成すのは仁です。死んでも主君を忘れないのは敬です。孺子(子供、若者)よ、勉めなさい。死んでも愛(美名)を残せば、民に思われ続けます。それで充分ではありませんか。」

申生は納得しました
 
ある人が申生に言いました「あなたに罪はありません。なぜ逃げないのですか。」
申生が言いました「出奔して罪から逃れたら、人々は国君を責めるだろう。それでは私が国君を怨んでいることになる。父の悪を明らかにして諸侯の笑いものにしたら、私も行く場所がなくなる。内は父母に容れられず、外は諸侯に受け入れられないのは、二重の困苦だ。国君を棄てて罪から逃げるのは死から逃げるのと同じだ。『仁者は君を怨まず、智者は二重の困苦を受けず、勇者は死から逃げない』という。無罪が明らかにならなければ逃げても罪は重くなるだけだ。逃げて罪を重くするのは不智であり、死から逃げて主君を怨むのは不仁であり、罪があるのに死なないのは無勇である。また、私が去ったら人々の国君に対する怨みが厚くなるだろう。悪を重ねて死から逃げてはならない。私はここで命を待つ。
 
驪姫が曲沃に行き、申生に会うと泣いて言いました「あなたは父に対しても手を下そうとしました。国人を愛すことができますか。父を害して国人に好かれようとしましたが、国人があなたを好きになれますか。父を殺して利をもたらそうとしましたが、国人があなたを利すると思いますか。これらは全て民が嫌うことです。あなたは長く生きることができないでしょう。」
驪姫が帰ると申生は曲沃の宗廟で首を吊って死にました。
死ぬ直前、申生が猛足を派遣して狐突にこう伝えました「私には罪があり、伯氏(狐突の字が伯行だったため、伯氏とよびました)の忠告を聞かなかったためにこうなってしまった。私は命を惜しまない。しかし我が君は既に年をとり、国家は多難だ。伯氏が外に出て補佐しなければ、我が君はどうなるだろう。伯氏が我が君を助けてくれるなら、私は死んでもあなたの恩恵に感謝し、悔やむことはない。」
 
申生の諡号は「共君」とされました。「共」という諡号には「過ちがあっても改めることができる(既過能改)」という意味があります。
 
太子・申生を自殺に追い込んだ驪姫は二公子の讒言もしました「重耳と夷吾は共君の陰謀に参加していました。」

献公が閹士(宦官)・楚(伯楚。寺人披の字)重耳を暗殺させました。重耳は逃れて狄(翟、北狄に奔ります。

献公は大夫・賈華にも夷吾暗殺を命じました。夷吾も梁に奔ります。
献公は残った群公子も駆逐し、奚斉を太子に立てました。また、制令を発して公族が国内に留まる事を禁止しました