春秋時代 百里奚登用

秦穆公が賢人・百里奚を得ました。

春秋時代39 東周恵王(十八) 虢・虞滅亡 前655年(2)


ここでは百里奚の登用に関する逸話を二つ紹介します。
 
まずは『説苑・臣術(巻二)からです。

秦穆公が塩を買うために賈人(商人)を集めました。ある賈人が五頭の羖羊(黒い牡羊)の皮で百里奚を買い、塩を載せた車を牽かせて秦に送りました。秦穆公は到着した塩を確認している時、百里奚の牛が肥えていることに気がつきます。そこで百里奚に問いました「任務が重く道も遠く険阻なのに、汝の牛はなぜ肥えているのだ?」

百里奚が答えました「臣は規則正しく牛に飲食させ、乱暴な手段を用いず、険阻な場所では臣自ら先に進んで引いたり後ろから押してきました。だから肥えているのです。」
穆公は百里奚が君子(優秀な人材)であると判断し、沐浴させてから衣冠を与えて談話しました。その内容に喜んだ穆公は、後日、公孫支(公孫枝。秦の賢臣)と政治について語らせます。
公孫支が驚いて言いました「主君は耳目が聡明で、思慮深く、観察力に富んでいます。そのおかげで聖人を得ることができたようです。」
穆公が言いました「その通りだ。わしも奚百里奚)の言に喜んでいる。彼は聖人のようだ。」
公孫支は退出すると雁を持って宮殿に戻り、穆公を祝賀して言いました「我が君が社稷の聖臣を得ました。社稷の福を祝いましょう。」
穆公は再拝してから祝辞を受け入れました。
翌日、公孫支が上卿の地位を百里奚に譲ろうとして穆公に言いました「秦国は僻地にあり、民の風俗は劣り、愚昧・無知です。これは危亡の原因となります。臣は自分が上の地位にいるべきではないことを知っています。よって彼に位を譲らせてください。」
穆公が拒否すると公孫支が言いました「主君が賓相(補佐する官。ここでは公孫支)を必要とせず、社稷の聖臣を得ることができたのは、主君の禄(幸)というものです。臣が賢人を見つけて位を譲ることができるのは、臣の禄です。主君がすでにその禄を得たのに、臣に禄を失わせるのですか。臣を退かせてください。」
それでも穆公が許さないため、公孫支が言いました「臣が不肖でありながら上位にいたら、主君が倫(道理)を失うことになります。不肖・失倫は臣の過ちです。賢才を進めて不肖を退けるのは主君の明です。臣の位をそのままにして君の徳を失わせるのは、逆臣の行為です。臣は国を出ます。」
穆公は公孫支の進言を受け入れ、百里奚を上卿に任命して政治を行わせ、公孫支を次卿にして百里奚を補佐させました。
 
 
次は呂氏春秋・孝行覧・慎人』です。
百里奚は虢国を滅ぼした晋に捕えられ、その後、秦で牛を飼って生活していましたが、五枚の羊皮で公孫枝に転売されました。
百里奚を得た公孫枝はその才能を見抜き、秦繆公に推薦します。
三日後、公孫枝は繆公に対して百里奚に高い官位を与えるよう進言しました。
繆公が言いました「五羊の皮で買った者を用いたら、天下に笑われるのではないか。」
公孫枝が言いました「賢才を信じて用いることが、主君としての英明さです。賢人に地位を譲って自らその下に立つのが、臣下の忠というものです。これができれば主君は名君となり、臣下は忠臣となります。彼に賢才があり、国内を安定させることができれば、敵国は我が国を恐れるようになります。誰に我々を笑う暇があるでしょう。」
繆公は百里奚を登用しました。
果たして、百里奚の謀略は巧みで、事を起こしたら必ず成功しました。
 
呂氏春秋』はこの話から教訓を書いています。
秦に仕えてから百里奚の賢才が不遇の時よりも増したわけではありません。繆公に用いられたから能力を発揮して名声を得ることができたのです。今も百里奚のような人材が眠っているかもしれません。人主は広く賢士を求める努力が必要です。