春秋時代40 東周恵王(十九) 恵王の死 前654~653年

今回で東周恵王の時代が終わります。
 
恵王二十三年
丁卯 前654
 
[] 春、晋献公が大夫・賈華に屈の公子・夷吾を攻撃させました。夷吾は守りきれないと判断し、屈の人々に再戦を誓って去りました。
夷吾が言いました「兄(重耳)に従って狄(翟)に行くべきではないか?」
大夫・郤芮(「冀芮」ともいいます。「冀」は食邑です)が答えました「いけません。後から出たのに同じ場所に向かったら、共謀していたと疑われ、罪から逃れることができなくなります。また、同じ場所に亡命しても共に帰国することはできません。一つの場所で生活したら悪い感情も生まれます。我々は梁に奔るべきです。梁は秦に近く、秦は国君(晋献公)と親しい関係にあります(晋献公の娘は秦穆公の夫人です)。我々が梁に行けば驪姫は我々が秦の援けを得ようとしていると思うでしょう。国君は既に老いているので、驪姫は恐れを抱くはずです。我々が梁の保護を受けたら、驪姫は必ず後悔して我々の罪を追求しなくなるでしょう。」
夷吾は梁に奔りました。
二年後、驪姫は奄楚(閹楚。寺人・披)を梁に派遣し、玉環を夷吾に送って対立を解くために釈明しました。
四年後、献公が死に、夷吾が秦の協力を得て帰国します
 
以上は『春秋左氏伝(僖公六年)』と『国語・晋語二』を元にしました。『史記・晋世家』の冀の言葉は少し異なります。
晋大夫・冀芮がこう言いました「いけません。重耳が既にいます。我々もそこに行ったら、晋は必ずに遷すでしょう。が晋を畏れたら、が我々に及ぶことになります。に奔るべきです。に近く、は強大です。我がが百歳の後(死後)、援けを得て帰国することができます。」
夷吾はに奔りました
 
[] 夏、斉侯桓公、魯公(釐公)宋公桓公、陳侯(宣公)、衛侯(文公)、曹伯(昭公)が鄭を討伐し、新城(新密)を包囲しました。
鄭を攻撃したのは前年、鄭が首止の会盟から逃げ帰ったからです。新密を攻めたのは築城するべき季節ではない夏(農忙期)に城を築いたからです。
 
秋、楚が鄭を援けるために許国を包囲しました。諸侯連合軍が鄭の包囲を解いて許に兵を向けると、楚は兵を退いて武城に駐軍しました。
 
冬、蔡穆侯が許僖公を連れて武城で楚成王に会いました。許男(男爵・僖公)は肉袒(上半身を裸にすること)し、手を背の後ろで縛り、口に璧玉をくわえています。許の大夫は衰絰(喪服)を着て士は櫬(棺)をかついでいます。
楚成王が大夫・逢伯に聞くと、逢伯が言いました「昔、武王が殷に勝った時も微子啓が同じ姿で投降しました。武王は自ら縄をほどき、璧玉を受け取って凶を祓い、櫬を焼き棄て、礼をもって命を下し、元の地位に戻しました。」
成王はこれに従い、許僖公の縄を解いて礼遇しました。
 
僖公が鄭討伐から還りました。
 
 
 
恵王二十四年
653年 戊辰
 
[] 春、斉が鄭を攻撃しました。
孔叔が鄭文公に言いました「諺にこうあります『心が堅強でないのに、なぜ屈辱を恐れるのか(心則不競,何憚於病)。』強硬にもなれず、軟弱にもなれないのでは倒れてしまいます。これは国の危機です。斉に屈して国を救うべきです。」
文公が言いました「斉がなぜ来たのかは理解している。少し待て。」
孔叔が言いました「朝に夜の到来を待つことができないほど危急の時です。なぜ待てるのですか。」
 
[] 夏、小邾子が魯に来朝しました。
小邾子は元々国といい(東周釐王三年、679年参照)、国君は犁来です。かつては五爵に属さない附庸国でしたが、この年には『春秋』に「小邾子」と書かれているので、周王室から正式に封侯され、子爵になったことがわかります。
 
[] 鄭文公が斉との対立の原因を国政を預かる大夫・申侯の責任とし、申侯を処刑して斉桓公の歓心を求めました。陳の轅濤塗による讒言(二年前)も処刑の一因です。
 
申侯は申国の出身で、楚文王に寵用されていました。しかし文王は死ぬ直前に申侯を国から追い出しました(東周恵王二年、前675年参照)。この時、文王が申侯に璧玉を与えて言いました「わしだけが汝を理解している。汝は利を独占しても満足することなく、わしは汝が求める物を何でも与えて罰することがなかった。しかしわしの後に位に即く者は汝に多くの財物を要求し、汝は罪から逃れることができなくなるだろう。わしが死んだら速やかに去れ。小国は汝を受け入れることができないから行ってはならない。」
しかし申侯は小国の鄭に奔って厲公に仕え、そこでも信任されました。
 
やがて申伯が殺されたという情報が楚に入りました。楚の子文於菟)が言いました「古人はこう言った『臣を知る者は、君に勝る者はいない(知臣莫若君)。』この言葉を変えることはできない。」
 
[] 秋七月、斉桓公が魯釐公桓公および陳の世子(太子)・款、鄭の世子・華と甯母(魯地)で会盟しました。鄭への対応を決めるためです。
 
管仲が斉桓公に言いました「二心を抱く者を招くには礼を用い、疎遠な国を懐かしむには徳を用いれば、帰順しない者はいないといいます。」
桓公は諸侯を礼遇し、諸侯から周王室に納める方物(貢物)を提出させて王室に納めました。
 
鄭文公は太子・華を会盟に参加させました。文公には寵妃が複数おり、子も多かったため、太子の立場は不安定でした。そこで太子・華は国外の力を借りて国内での地位を固めるため、桓公にこう言いました「我が国では洩氏、孔氏、子人氏の三族が君命(斉桓公の命令)に逆らうように主張しています。三族を除いていただければ、鄭は内臣として君命に従います。貴国に不利はないはずです。」
桓公が同意しようとすると管仲が言いました「主君は礼と信によって諸侯と会したのに、姦悪をもって終わるのですか。子と父が背反しないことを礼といい、時機を見て君命を完成させることを信といいます。この二者に背くことほど大きな姦悪はありません。」
桓公が言いました「諸侯が鄭を討伐しても勝てなかった。今、このような機会がきたのに利用しないのか。」
管仲が言いました「もし徳によって宣撫し教訓を与えたのに相手が従わなかったら、諸侯を率いて鄭を討てばいいでしょう。鄭が滅亡を逃れることはできません。しかし罪人(子華。鄭にとっての罪人です)を利用して鄭に臨むのなら、名分は鄭にあります。鄭が我々を恐れることはありません。こうして諸侯を集めたのは徳を広めるためです。姦人と同席したら後代に示しがつきません。諸侯の会とは徳・刑・礼・義が全ての国で記録されます。姦人を参加者の列に加えたら、盟約の意義を失います。逆に姦計を隠して事実を書き残さなかったら盛徳とはいえません。同意してはなりません。こちらが子華の謀を用いなくても鄭は必ず盟約を受け入れます。また、子華は太子でありながら大国に頼って自国を弱めようとしているので、禍から逃れることはできません。そもそも、鄭では叔詹、堵叔、師叔の三良が政治を行っているので、隙を衝くことはできません。」
桓公は子華の要求を拒否しました。
子華は文公に疎まれ、後に殺されます。
 
[] 曹伯・班(または「般」。昭公)が在位九年で死に、子の共公・襄が継ぎました。
 
[] 魯の公子・友(季友)が斉に入りました。会盟後の聘問です。
 
[] 冬、曹が昭公を埋葬しました。
 
[] 鄭文公が斉に使者を送って会盟を請いました。二年後に葵丘で盟が結ばれます。
 
[] 閏十二月、東周恵王が死に、王子・鄭が跡を継ぎました。これを襄王といいます。襄王は太叔・帯(恵王二十二年、前655年参照)の謀反を恐れて喪を隠し、斉に危難を報告しました。
 
恵王が死んだ年を『春秋左氏伝』『帝王世紀』は在位二十四年(本年)としていますが、『史記・周本紀』『竹書紀年』(今本)は二十五年と書いています。
実際に死んだのは二十四年閏十二月ですが、内乱を恐れて喪を発するのが遅くなり、翌年になってやっと恵王の死が発表されたため、在位年数に差が生まれています。
資治通鑑外紀』は恵王の死を二十四年に書いていますが、翌年を恵王二十五年と数え、襄王の位が安定してから喪を発したとしています。この一年は王不在ということになります。
資治通鑑前編』は『史記』に従い、恵王が死んだ年を二十五年としていますが、『春秋左氏伝』の内容(恵王は二十四年に死に、翌年、襄王の王位が安定してから喪を発した)も併記しています。
 
[] 『春秋左氏伝』によると、この年、晋が狄(翟)を攻め、采桑で破りました。狄が公子・重耳を匿っていることが戦争の原因です。
史記』の『晋世家』『十二諸侯年表』は翌年(晋献公二十五年)のこととしていますが、『春秋左氏伝』では、翌年は翟が晋を攻撃します。
 
 
 
次回に続きます。