春秋時代43 東周襄王(三) 晋献公の死 前651年(2)

今回は東周襄王二年の続きです。
 
[] 九月甲子(晋が使っていた夏暦の九月甲子。周暦では十一月初十日)、晋献公が在位二十六年で死にました。太子・奚斉(驪姫の子)が即位することになります。
しかし晋の里克と丕鄭は公子・重耳を晋に入れようとし、三公子(申生・重耳・夷吾)の徒党を集めて乱を計画しました。
 
以前、献公は荀息を奚斉の傅に任命しました。献公の病が重くなった時、荀息を招いてこう言いました「わしは奚斉に跡を継がせようと思うが、奚斉は幼弱なうえ、諸大臣も服していないから乱が起きる恐れがある。孤児を大夫(荀息)に託そうと思うがどうだ。」
荀息が稽首して言いました「臣は股肱の力を尽くし、忠貞を加えて命に従います。成功したら主君の霊威によるものです。失敗したら臣も続いて死にます。」
献公が問いました「忠貞とはなにか。」
荀息が答えました「公家の利となり、力が及ぶと知ったら尽力することを忠と言います。死者を送り生者(新君)に仕え、どちらにも二心を抱かず、たとえ死者が活き返ったとしても、後ろめたくならないように行動することを貞と言います。」
献公は荀息に奚斉を託し、国政を委ねました。
 
献公が死に、里克が奚斉を殺そうとしましたが、その前に荀息に言いました「三怨(三公子の党)がもうすぐ動く。秦人も晋人もそれを支持するだろう。あなたはどうするつもりだ?」
荀息が答えました「死ぬだけだ。」
里克が言いました「もしあなたが死ねば奚斉が即位できるのなら、あなたの死も意味がある。しかしあなたが死んでも奚斉はやはり廃される。無益ではないか。」

荀叔が言いました「私には先君との約束を破ることができない。約束を守り、しかもわが身を愛することができるか?無益なことかもしれないが、死から逃げるつもりはない。人は誰でも善を求める。その気持ちが私より劣ることはないだろう。私自身に二心を持つつもりはないのに、他の者に二心を持つように勧めることはできない(里克等に重耳への忠心を捨てさせることはできない)。」

里克が丕鄭に言いました「三公子の徒が孺子を殺す。あなたはどうするつもりだ?」
丕鄭が聞きました「荀息は何と言っている?」
里克が答えました「荀息は死ぬと言っている。」
丕鄭が言いました「二人の国士が行動を起こせば失敗することはない。私はあなたに協力しよう。あなたは七輿大夫(申生に仕えていた下軍の大夫。左行・共華、右行・賈華、叔堅、騅、累虎、特宮、山祁)を率いて私を待て。私は狄を動かし、秦の援助を求める。徳が薄い者(夷吾)を国君に立てればそこから重賂(厚い恩賞)を得ることができる。徳の厚い者(重耳)を国に入れなければ、我々が国を操ることができる。」
里克が言いました「それはいけない。義とは利の基礎であり、貪婪は怨恨の本であるという。義を棄てたら利は立たず、貪婪な欲を厚くしたら怨みが生まれる。孺子(奚斉)は民の罪を得たか。そうではない。驪姫が国君を惑わし、国人を騙し、群公子を讒言して利を奪い、国を乱して群公子を出奔させ、無罪の者(太子・申生)を殺して晋が諸侯の笑い者となったから、百姓は憎悪しているのだ。これは大川の堤防が決壊した時のように、救うことができない勢いとなっている。だからこそ、奚斉を殺して国外の公子を迎え入れるのは、民を安定させて憂いを無くすことを目的にしなければならない。そうすれば諸侯も我々に協力するだろう。庶幾(民衆)は諸侯が義によって晋を援けたと思い、喜んで新君を支持するはずだ。今もしも国君を殺して富を得ようとしたら、貪婪によって義に背くことになる。貪婪は民の怨みを招き、義に背いて富を得ても自分のためにはならない。富のために民の怨みを招いたら、国を乱して身を滅ぼし、諸侯の史書に記録されることになるだろう。富を保つことはできない。」
丕鄭は納得しました。
 
冬十月(夏暦。周暦では十二月)、里克が奚斉を喪次(喪に服すための草廬)で殺しました。
荀息が自殺しようとすると、ある人がこう言いました「卓子または「倬子」。公子卓。驪姫の妹の子)を擁立して補佐するべきです。」
荀息は公子卓を即位させて献公を埋葬しました。
 
十一月(夏暦。周暦では翌年一月)、里克が公子卓を朝廷で殺しました。驪姫も殺されます。
荀息は自殺しました。
 
里克と丕鄭は大夫・屠岸夷を狄(翟)に派遣して公子・重耳にこう伝えました「今は国が乱れて民が不安定になっています。しかし動乱こそ国を得る機会であり、不安定な民ほど治めやすいものです。我々が公子のために道を開きましょう。」
重耳が舅犯(狐偃。舅は母の兄弟という意味。字は子犯)に「里克が私を国に入れようとしている」と言うと、舅犯はこう言いました「いけません。堅い樹木は始めが大切です。基礎が固まっていなければ必ず枯れてしまいます。国の長となる者は、哀楽喜怒の礼節をわきまえて民を導かなければなりません。喪を哀しむことなく国君の地位を求めても、成功は難しいでしょう。動乱の中、国に入るのは危険です。喪を利用して国を得るのは、喪を『楽』とすることになります。その結果、『哀』が生まれるでしょう。動乱を利用して国に入るのは、乱を『喜』とすることになります。乱を喜んだら徳が疎かになります。このように哀楽喜怒の礼節に逆らって、民を導くことができるでしょうか。民を導くことができなくて国の長といえるでしょうか。」
重耳が言いました「喪がなければ誰に機会があるというのだ。乱がないのに誰が私を迎え入れるというのだ。」
舅犯が答えました「喪・乱には大小があります。大喪大乱が起きている時には近付いてはなりません。父母の死は大喪です。兄弟が讒言によって陥れるのは大乱です。今はまさにその時です。よって成功は困難です。」
重耳は使者に会って言いました「あなたは亡人(出奔した者)の重耳に会いにきてくれたが、私は父が生きている間、傍に仕えることができず、死んでからも喪に臨むことができないでいる。この罪は重い。大夫(屠岸夷)の慰労に対してただ感謝するしかなく、建議を受け入れることはできない。国を安定させる者は民衆と親しみ、隣国との関係を善くし、民心に応じる必要がある。民衆に利があり、隣国にも擁立され、大夫達も従う者を立てるべきだ。私には民意に背くことはできない。」
 
呂甥(呂省)と郤称も大夫・蒲城午を梁に送って公子・夷吾にこう伝えました「秦に厚い賄賂を贈って援けを求めるべきです。我々が公子の入国に協力します。」
夷吾が冀芮郤芮。冀は食邑)に言いました「呂甥が私を国に入れようとしている。」
冀芮が言いました「国が乱れて民が安定していない時は、大夫の考えも固まっていません。この機会を失ってはなりません。動乱がなければ国に入ることはできず、民に危難がなければそれを安定させる必要もありません(混乱がなければ新君を迎える必要もありません)。幸いにもあなたは先君の子なので選ばれました。動乱の中であなたを拒む者はいません。大夫の考えも固まっていないので、あなたに従うはずです。あなたは国の全ての財物を外内(国外の諸侯と国内の大夫)に贈るべきです。国庫を惜しまず国に入ることができれば、後日、改めて財物を集めることができます。
夷吾は使者に会うと再拝稽首して帰国に同意しました
 
 
次回に続きます。

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