春秋時代44 東周襄王(四) 晋恵公即位 前651年(3)

今回も東周襄王二年の続きです。
 
[(続き)] 呂甥が大夫達に言いました「国君が既に死んだが、勝手に新君を立てることはできない。久しく国君がいなければ、諸侯の謀略を招くであろうが、国外の公子を迎え入れても民心が統一しなければ乱を大きくしてしまう。そこで、秦に助けを求めようと思う。」
大夫達は賛成し、大夫・梁由靡を秦に送りました。
梁由靡が秦穆公に言いました「天が晋国に禍を降し、多数の讒言が生まれて寡君(自国の主君。献公)の公子達に害を及ぼしました。公子達は国外に逃れて民間に隠れ、頼る者もいません。また、寡君の不禄(士が死ぬことを「不禄」といいました。ここでは謙遜して国君の死を「不禄」と言っています)によって喪と乱に同時に臨むことになりました。すでに秦君(穆公)の霊威と鬼神の善心によって罪人(驪姫・奚斉・卓子)を罪に伏すことができましたが、群臣はまだ安寧を取り戻すことができず、君命(穆公の命)を待っております。貴国が我が社稷を顧み、先君との好を忘れることがないなら、亡命した公子から晋の国君を選び、晋の祭祀を継がせて国家と民衆を鎮撫していただきたく存じます。四方の隣国諸侯がそれを聞いたら、誰もが秦君の威を恐れ、その徳を喜ぶことでしょう。終君(献公)は秦君の重愛と重賜を受け、晋の群臣もその大徳に感謝し、皆、秦君の隸臣として帰順を願うようになります。」
 
秦穆公は同意して使者を帰らせると、大夫・子明(孟明視)と公孫枝を召して言いました「晋国で乱が起きたが、誰を派遣して二公子を観察させるべきだろうか。」
子明が言いました「公子・縶(子顕。大夫)がいいでしょう。縶は鋭敏で礼も知っており、恭敬で洞察力もあります。鋭敏なら謀略を察知することができ、礼を知っていれば使者にふさわしく、恭敬ならば君命を失敗することなく、洞察力があれば正しい判断ができます。」
穆公は公子・縶を派遣しました。
 
公子・縶は狄(翟)で重耳を弔問して言いました「寡君(秦穆公)が私を派遣し、公子の憂(亡命の憂い)と喪の悲しみを慰問させました。国は喪によって得ることができ、また、喪によって失うものであるといいます。喪の期間は長くありません。この機会を逃さず、行動を起こすべきです。」
重耳が舅犯に意見を求めると、舅犯はこう言いました「いけません。国外に亡命して親しい者がいない場合は、信と仁によって人と親しくするべきです。このような者が国君になれば危険はありません。父が死に、その霊柩がまだ堂に置かれているのに(埋葬していないのに。実際は荀息によって埋葬されたはずです)、子が利を求めたら、誰も我々を『仁』とは思わないでしょう。他にも公子がいるのに外の力に頼って先を争ったら、誰も我々の行動を『信』と評価しないでしょう。仁も信もないのに長利を得ることはできません。」
重耳が公子・縶に言いました「あなたは亡臣(亡命の臣)を慰問し、また、重大な命を背負ってきましたが、私は国外に出奔し、父が死んだのに哭泣の位にいることもできません(葬儀に参加することもできません)。他志(即位する意志)をもって貴国の義をわずらわせることはできません。」
重耳は再拝するだけで稽首せず、泣いて退席し、公子・縶と会おうとしませんでした。
 
公子・縶は梁に入って夷吾を弔問しました。夷吾が冀芮に言いました「秦がわしを助けに来た。」
冀芮が言いました「亡人が廉潔である必要はありません。廉潔であったら大事を成すことができません。厚い報酬を贈って相手の徳に応えるべきです。他の公子にも国君になる権利はあるのです。我々がそれを望んで悪いはずがありません公子は財を愛してはなりません。他の者が先に国を得たら、我々が惜しいと思う物もなくなります。土地を惜しむこともありません。まずは国に入って民を得ることが大切です。」
夷吾は公子・縶に会うと再拝稽首し、泣くことなく一度退席してから個人的に公子・縶に会って言いました「中大夫・里克が私を支持したので、私は汾陽の田百万畝を彼に与えると約束しました。丕鄭も私を支持したので、負蔡の田七十万畝を彼に与えると約束しました。貴国が私を助けてくれるのなら、私はもう天命を必要としません。亡命した私が再び国に入って宗廟を掃き、社稷を定めることができるのなら、国土を惜しむこともありません。貴国には既に多数の郡県がありますが、私が国に還ることができたら、河外(河西と河南)の五城(『春秋左氏伝(僖公十五年)』『国語・晋語二』では「河外列城五」。『史記・秦本紀』では「河西八城」)を献上しましょう。これは貴国に土地がないからではありません。秦君が東游して津梁黄河の港や橋)に来た時に困らないためです。亡人()は鞭を持って馬を馳せ、東游する秦君の後に従いましょう。また、黄金四十鎰と白玉の珩(装飾品)六双を準備しました。これを公子への答礼にしようとは思いません。左右の者にでもお与えください。」
 
公子・縶が帰国して穆公に報告すると、穆公はこう言いました「私は公子・重耳を支持しよう。重耳は仁の人だ。再拝しても稽首しなかったのは国君の地位を欲していないからだ。拝礼後に泣いたのは父を愛していたからだ。退いてから個人的に会おうとしなかったのは私利を求めなかったからだ。」
公子・縶が言いました「それは誤りです。もしも晋君を擁立して晋国を安定させたいのなら、仁の者を選ぶべきです。しかしもしも晋君を擁立することで自分の名を天下に知らしめたいのなら、不仁の者を選んで乱を誘い、それを操作するべきです。『仁によって国君を定めることも、武によって国君を定めることもある。仁による場合は徳のある者を選び、武による場合は自分に服す者を選ぶ(仁有置,武有置。仁置徳,武置服)』といわれています。」
穆公は納得し、百里奚に夷吾を守らせて晋に入れることにしました。

以上は『春秋左氏伝(僖公十年)』の内容です。『史記・晋世家』は少し異なります。
里克等斉と悼子を殺してから、を翟に送って公子重耳を迎え入れることにしました。
しかし重耳は辞退してこう言いました「父に背いて出奔し、んでもとしての礼を修めずに服すことができませんでした。重耳が国に入るわけにはいきません。大夫は他のを擁立してください。」
史記・晋世家』には重耳は暗殺を恐れて帰国を辞退したとも書かれています。
使者が翟から戻って
里克に報告すると、里克は梁に人を送って夷吾を迎え入れることにしました
夷吾はすぐ招きに応じようとしましたが、呂省郤芮が言いました国内には他にも擁立するべき公子がいます。それなのに国に新君を求めているので、信用できません。に行って強国のを借りなければ、恐らく危険です。」
夷吾は郤芮に巨額の礼物をもたせてに送りました。秦に対して国に帰ることができたら、晋が領する河西に割譲させてくださいと約束します。
更に、里克を送ってもし本当に即位できたら、(汝)汾陽を封じようと伝えました。
秦繆公(穆公)を発して夷吾を晋に送ることにしました。
 
[] 斉桓公が晋の混乱を治めるため諸侯を率いて西に向かいました。
秦の百里奚も夷吾を擁して晋に兵を進めます。
桓公は隰朋に兵を率いて秦師と合流させ、共に夷吾を晋に入れました。夷吾が即位します。これを恵公といいます。
桓公は高梁(晋邑)に至って引き還しました。
 
[] 秦穆公が晋の郤芮に聞きました「公子(夷吾)が晋で頼りにしているのは誰だ?」
郤芮が答えました「亡人(亡命者)には党がなく、党があったら敵ができるといいます。夷吾は幼い頃から遊びを好まず、争っても度を超すことがなく、怒っても顔に表しませんでした。成長してからもこれは変わっていません。だから国外に亡命しても国人を怨むことなく、晋の民衆も安心しています。その他のことはわかりませんが、夷吾のように不才な者に、頼れる者がいるでしょうか(前半は夷吾の長所を述べ、最後は謙遜して秦しか頼る相手はいないと言っています)。」
穆公が公孫枝に聞きました「夷吾は国を安定させることができると思うか?」
公孫枝が答えました「準則があれば国を定めることができると言います。『詩』には『知識を得ることなく、上帝(自然)の準則に従う(不識不知,順帝之則。『詩経・大雅・皇矣』)』とあります。文王はこれができました。また、『人をだますことなく傷つけることもない。このような人物が人の模範にならないはずがない(不僭不賊,鮮不為則。『詩経・大雅・抑』)』ともあります。これは好悪が無く、忌(猜疑)もなく、克(強)を好むこともない状態です。郤芮の言葉には忌(偽り)も克(強がり)もみられます。国を安定させるのは難しいでしょう。」
穆公が言いました「忌(猜疑)があれば怨みも増える。そのような状態では誰も克(勝)を得ることはできない。これは我が国にとって有利なことだ。」
 
 
 
次回に続きます。