春秋時代45 東周襄王(五) 斉桓公と封禅 前651年(4)

今回で東周襄王二年が終わります。
 
[] 当時、周王室はますます衰え、斉・楚・秦・晋が強大になっていましたが、晋は献公の死によって混乱し、秦穆公は辺境にいたため中国(中原)の会盟に参加せず、楚成王は荊蛮の地に勢力を拡大して夷狄としての立場を自任していました。唯一、斉桓公だけは繰り返し諸侯を集めて会盟を行い、徳を天下に示して覇を称えることができました。
この年、葵丘で会盟した桓公は帰国してから封禅の儀式を行おうとしました。
「封禅」とは泰山の「封」と梁父の「禅」を指します。「封」は天を祀る儀式、「禅」は地を祀る儀式です。聖賢な帝王だけが行える祭祀といわれていました。
管仲が言いました「古で泰山を封じ、梁父を禅した者は七十二家にいるといわれていますが、私が記憶している者は十二家しかいません。無懐氏は泰山を封じ、云云山(梁父の東)を禅しました。虙羲氏(伏羲氏)も泰山を封じ、云云山を禅しました。神農氏も泰山を封じ、云云山を禅しました。炎帝(神農氏の子孫)も泰山を封じ、云云山を封じました。黄帝は泰山を封じ、亭亭山を禅しました。顓頊は泰山を封じ、云云山を禅しました。帝嚳も泰山を封じ、云云山を禅しました。堯も泰山を封じ、云云山を禅しました。舜も泰山を封じ、云云山を禅しました。禹は泰山を封じ、会稽を禅しました。湯は泰山を封じ、云云山を禅しました。周成王は泰山を封じ、社首山を禅しました。皆、天命を受けてから封禅を行ったものです。」
桓公が言いました「寡人(私)山戎を北伐して離枝(令支)孤竹を破った。大夏(晋陽)を西伐して流沙を渡り、険阻な太行山や辟耳山に至ってから還った。南伐して召陵に至り熊耳山に登って江漢(長江・漢水を眺めた。兵車の会を三回657年・陽穀の会、前655年・首止の会、前651年・葵丘の会)、乗車の会を六回681年・北杏の会、前680年と前679年・鄄の会、前659年・檉の会、前647年・鹹の会、前644年・淮の会)開き(実際はこの時まだ鹹の会と淮の会が開かれていません)、諸侯を九合して天下を正した。諸侯で寡人に逆らう者はない。昔、三代(夏・商・周)が天命を受けたが、寡人の功績はこれと変わらない。」
管仲桓公の説得が難しいと思い、困難な事を並べました「古の封禅は鄗山の黍と北里の禾を祭祀に供える食事とし、江淮(長江と淮水)の間に生える三脊茅(茅草)を蓆とし、東海から比目魚を、西海から比翼鳥(鶼鶼。伝説の鳥)を得て、更にこちらが求めなくても自然に十五の吉祥物が現れてから行いました。今は鳳皇鳳凰麒麟も現れず、嘉穀も生えず、雑草が茂り、鴟梟(凶鳥。ふくろう)がしばしば訪れています。これで封禅を行うのは相応しくないでしょう。」
桓公はあきらめました。
 
資治通鑑外紀』はここで斉桓公管仲の話を紹介しています。『管子』が出典です
まずは『管子・中匡(第十九)』からです。
ある日、桓公管仲宴に誘いました。桓公はそのために新しい井戸を掘り、十日間斎戒しました。
宴が始まり管仲来ると、桓公(酒器)を持ち、夫人も尊(酒器)を持って酒を勧めます。しかし酒が三巡すると管仲何も言わず退席しました。
桓公が怒って言いました「寡人(私)は十日も斎戒して仲父管仲を招いた。充分、厳粛ではないか。それなのに仲父は何も言わずに出て行った。これはなぜだ。」
鮑叔と隰朋が管仲追って言いました「公が怒っている。」
管仲宮中に戻り、門内の屏風の前に立ちました。しかし桓公は何も言いません。管仲中庭に入っても桓公は口を開きません。管仲が堂まで進むと桓公がやっと言いました「寡人は再会を十日もしてから仲父を宴に招いた。自分では誤りはないと思っている。仲父が去ったのはなぜだ。」
管仲が言いました「享楽に浸る者は憂患に陥り、味を厚くする(美味を求める)者は徳行が薄くなり、朝政を怠ける者は政治を疎かにし、国家を害する者は社稷危うくすると言います。だから臣は退席したのです。」
桓公が堂から下りて言いました「寡人は自分の安逸を目的にしたのではない。仲父は年長者だ。寡人も老いて衰えたが、時には仲父を慰労したいと思ったのだ。」
管仲が言いました「壮者は怠らず、老者は怠けず、天の道に従えば終わりを全うできるといいます。三王(夏桀・商紂・周幽王)の失敗は一朝にして生まれたのではありません。主君が怠けてはなりません。」
管仲が帰る時、桓公は賓客の礼で再拝して送り出しました。
翌日、管仲朝すると桓公が言いました「寡人は国君の信について聞きたい。」
管仲が言いました「民が愛戴し、隣国が親しみ、天下が信用することを国君の信といいます。」
桓公が聞きました「それでは、信とは何から始めるべきか。」
管仲が答えました「まず身を治め、次は国に及ぼし、最後は天下を治めます。」
桓公が聞きました「身を治めるとはどういうことだ。」
管仲が答えました「血気を正しく導いて長寿を得ること、心を養い徳を施すこと。これが自分の身を治めるということです。
桓公が聞きました「国を治めるとはどういうことだ。」
管仲が答えました「遠く賢人を求め、百姓を慈愛し、亡国を援けて祭祀を復活させ、その子孫を起用すること。税を減らし刑罰を軽くすること。これが国を治める大礼法則)です。」
桓公が聞きました「天下を治めるとはどういうことだ。」
管仲が言いました「法を行っても厳しすぎず、刑を簡潔にしても罪人を逃すことなく、有司(官員)は寛大で民を虐げず、困窮した者や隠者も法度の下に守られれば、往来する者が全て拘束されることなく、民は世を楽しむことができます。これを天下を治めるといいます。」
 
次は『管子・桓公問(第五十六)』からです。
桓公管子に問いました「わしは今ある天下を失わず、得たものを亡ぼしたくないと思うが、可能だろうか。」
管仲が言いました「慌てて創造せず、時機に応じて行動するべきです。個人的な好悪によって公正を害してはなりません。民の欠点を調べて自分の戒めにする必要があります。黄帝は明台黄帝が聴政した場所)の制度を作りました。賢人の意見を集めるためです。堯は衢室(堯が民意を聞いた場所)の制度を作りました。下の意見を集めるためです。舜は善言を奨励する旌(旗)を作りました。諫言を遠ざけないためです。禹は朝堂に諫鼓を置きました。人々に発言の機会を与えるためです。湯は総街の庭(大通りに建てられた亭舎。成湯が民意を聞いた場所)を造りました。人々の批難を聞くためです。武王は霊台(天文や吉祥災異を観察する場所)を造りました。賢者を用いるためです。これらが古の聖帝明王が得たものを失わなかった理由です。」
桓公が言いました「わしも古人に倣おうと思うが、何と命名するべきだろうか。」
管仲が言いました「嘖室の議がいいでしょう(「嘖」は議論という意味です)。法は簡潔かつ行いやすく、刑は慎重にして犯罪をなくし、政治は簡略して従いやすく、税を減らして誰でも納めることができるようにします。もしこれらの政策に対して過ちを訴える者がいたら、『正士』とみなしてその意見を嘖室で議論します。有司(官員)が嘖室の議を担当したら本職として問題を解決させます。嘖室は東郭牙に任せましょう。彼は正事のためなら国君とも議論することができる人物です。」
桓公は同意しました。
 
[] 本年即位したばかりの宋襄公は公子・目夷(襄公の庶兄)の仁徳を評価して左師に任命しました。この後、宋の政治が安定します。目夷の子孫である魚氏(目夷の字を子魚といったため、子孫は魚氏を名乗りました)は代々左師を勤めることになりました。
 
 
 
次回は襄王三年です。