春秋時代47 東周襄王(七) 周内史過と晋恵公 前649年

今回は東周襄王四年です。
 
襄王
649年 壬申
 
[] 孔子が編纂した史書『春秋』はこの年春に「晋が大夫・丕鄭父を殺した」と書いています。丕鄭父は丕鄭のことです。この事件は前年冬に記述しました。
『春秋左氏伝』は「春、晋が丕鄭の乱を魯に報告した(丕鄭が殺されたという報告が魯にもたらされたのは春だったため、『春秋』は春の出来事として書いている)」と解説していますが、実際は晋が用いた暦(夏暦。『春秋左氏伝』)と魯が用いた暦(周暦。『春秋』)には二カ月のずれがあるため、『春秋』は昨年冬の事を本年春に書いたのだと思われます。
 
[] 周襄王が召公・過(武公)と内史・過に命じて晋恵公に命を下しました。恵公が正式に諸侯の地位に即きます。しかし恵公を補佐する呂甥と郤芮(冀芮)は不敬で、恵公も心が散漫で、瑞玉を受け取る位置が低く、拝礼はしたものの稽首(頭を地につける礼)はしませんでした。
 
内史・過が周に帰ってから襄王に報告しました「晋は滅ばないとしても、その後世は途絶えるでしょう。呂甥と郤芮は禍から逃れることができません。」
襄王がその理由を問うと、内史・過が答えました「『夏書尚書・大禹謨)』にはこうあります『民衆に優れた国君がいなければ、誰を擁すればいいのだろう。国君に民衆がいなければ、共に国を守る者はない(衆非元后,何戴。后非衆,無与守邦)。』また、『湯誓尚書・湯誓)』にはこうあります『わし一人に罪があるなら、万夫に罰を加えるな。万夫に罪があるのなら、それはわし一人の責任だ(余一人有罪,無以万夫。万夫有罪,在余一人)。』さらに『盤庚尚書・盤庚上)』にはこうあります『国が素晴らしいのは汝等大衆のおかげだ。国がよくないのは、わし一人の責任だ。甘んじて罰を受けよう(国之臧,則惟女衆。国之不臧,則惟余一人,是有逸罰)』このように大衆の長となって民を使う者は慎重でなければなりません。民が関心を持つのは大事(戦争と祭祀)であり、先王は大衆の助けがなければ大事を成功させることができないと知っていたから、邪心を除いて民と和し、誠心誠意で事に臨み、明確な準則によって大衆を導き、人々の支持を得てから実行したのです。邪心を除くことを『精』といいます。誠心誠意であることを『忠』といいます。準則を明らかにすることを『礼』といいます。人々に支持されることを『信』といいます。これは大衆の長となり民を用いる時の道(基礎)です。『精』でなければ和さず、『忠』でなければ立たず、『礼』でなければ従わず、『信』でなければ実行できません。今、晋侯は即位できたのに内外との約束を破り、自分に協力した者を殺しました。これは『信』を棄てたことになります。王命に対して不敬であるのは、『礼』を棄てたことになります。自分が嫌うことを人に施すのは、『忠』を棄てたことになります。悪意が心を満たすのは、『精』を棄てたことになります。この四者を全て棄てたのですから、遠い者は至らず、近い者も和しません。これで国を守ることができるでしょうか。
古の先王が天下を得たら上帝・明神を敬い、朝日・夕月を祀りました。これらの儀式によって民が主君に仕えることを教えたのです。諸侯は春と秋に王命を受けて民に臨み、大夫や士は自分の官職において慎重に任務を行い、庶人や工商もそれぞれの業を行って上のために尽力しました。しかしそれでも漏れがあることを恐れたため、車服や旗章の規則を作り、贄幣(礼物)や瑞節(玉や符節)の違いによって班爵爵位・貴賎を明らかにしました。また、功績のある者は表彰して身を正すことを奨励しました。それでもまだ怠惰だったり責任感を持たない者がいたため、刑を与えて辺境に流しました。こうして蛮夷の国ができ、斧鉞(死刑)・刀墨(入墨の刑)の民(「斧鉞刀墨の民」で「罪人」の意味)が生まれるようになったのです。諸侯でありながら自ら放縦であっていいはずがありません。
晋侯は本来即位できる立場ではありませんでした。だからこそ、勤勉かつ慎重に事を行ってもまだ足りないと思って恐れるくらいでなければなりません。自分の意思のままに行動し、隣国を遠ざけ、民を虐げ、上(天子)を尊重しないようで、どうしてその身を守ることができるでしょう。
玉を受け取る時の位置が低いというのは、贄礼(礼物・賞賜を受け取る礼。謁見の礼)を廃したことになります。拝礼しながら稽首しないのは、王を侮っているからです。礼を廃したら制約がなくなり、王を侮ったら民を失います。天は事象によって吉凶の予兆を示すものです(晋侯の態度に凶兆が現れています)。任が重く爵禄が大きい者ほど速く禍を受けます。晋侯が王を侮れば人々は晋侯を侮ります。晋侯が礼を棄てたら人々が晋侯を棄てるようになります。大臣がその禄を受けながら諫言せず、阿諛しているようなら、必ず禍が及びます。」
以上は『国語・周語一』を元にしました。
『春秋左氏伝僖公十一年』は内史・過の言葉をもう少し簡単に書いています。
内史・過が襄王に言いました「王が命を下したのに心が散漫としたまま瑞玉を受け取ったのは礼を棄てたからです。礼を棄てるというのは自分で自分を棄てるようなものです。礼とは国の幹です。敬とは礼の輿(車)です。不敬であれば礼が行われず、礼が行われなければ上下が暗昏になります。その子孫が長く続くことはありません。」
 
[] 夏、魯釐公と夫人・姜氏が陽穀で斉桓公に会いました。この夫人は声姜といい、恐らく斉桓公の娘です(楊伯峻『春秋左伝注』参照)
 
[] 揚・拒・泉・皋・伊・雒の戎が共に京師を攻め、王城に入り、東門を焼きました。王子・帯(襄王の弟。恵王二十二年、655年参照)が招き入れたためです。王子・帯は甘を食邑とし、諡号を昭公と定められたため、甘昭公ともいいます。
尚、「揚・拒・泉・皋・伊・雒の戎」は「揚拒戎、泉皋戎、尹洛之戎」と書かれることもあります(解放軍出版社『中国歴代戦争年表・上』、中国地図出版社『中国歴史地図集・第一冊』等)
 
秦と晋が周王室を援けるために兵を出しました。
秋、晋恵公が周と戎を講和させようとしましたが、失敗しました。
 
[] 八月、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
 
[] 黄国は斉と和していたため楚に入貢せず、「郢からここまで九百里もある。我が国を害すことは出来ない」と言って警戒を怠っていました。
冬、楚が黄国を攻めました。史記・楚世家』は楚成王二十二年の事としていますが、二十三年のはずです。
翌年に続きます。
 
[] 『竹書紀年』(古本・今本)によると、この年(晋恵公二年)、晋で金の雨が降ったといいます。
 
[] 『竹書紀年』(古本)によると、この年(秦穆公十一年)、秦が霊邱を取りました。

[] 史記・鄭世家』によると、この年(鄭文公二十四年)文公の賎燕姞南燕です)が子を産みました

以前、燕姞はあるを見ました。夢の中で、燕姞を与え、「余伯鯈という南燕蘭を汝の子の名とせよ。には国(国内にまたとない芳香)をもつと言いました。
燕姞の話を文公に告げます。文公燕姞を御し、を与えて(徴)としました
この年、燕姞男児を産み、命名しました(東周定王元年・606年に再述します)
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代48 東周襄王(八) 泛舟の役 前648~646年