春秋時代48 東周襄王(八) 泛舟の役 前648~646年

今回も東周襄王の続きです。
 
襄王五年
648年 癸酉
 
[] 春、諸侯が衛の楚丘に郛(外城)を築きました。狄の攻撃に備えるためです。
 
[] 三月庚午、日食がありました。
「三月庚午」というのは『春秋(僖公十二年)』の記述です。恐らく「四月庚午朔」の誤りといわれています。
 
[] 前年、楚が黄国への攻撃を開始しました。
夏、楚が黄国を滅しました。
黄国が頼りにしていた斉の援軍は来ませんでした。斉は周王室の内乱平定で忙しかったようです。
 
[] 周襄王が戎族を導き入れた王子・帯を討ちました(前年参照)
秋、王子・帯が斉に奔りました。
 
『春秋左氏伝』は前年に戎が周を攻め、本年、周襄王が反撃したとしており、私の通史もこれに従いました。しかし『史記・周本紀』は全て昨年の事としています。
 
[] 冬、斉桓公が管夷吾管仲を派遣して周と戎を講和させ、隰朋を派遣して晋と戎を講和させました。晋は前年、周と戎の講和に失敗して逆に攻撃を受けていたようです。
 
襄王が上卿の礼で管仲をもてなそうとすると、管仲は辞退して言いました「臣は賤しい有司(官員)にすぎません。斉には天子が命じた二守(二人の守臣。上卿。諸侯には三卿がおり、そのうち二卿は天子が任命し、一卿は国君が任命したようです)・国氏と高氏がいます。もし春と秋に二卿が天子を聘問したら、王はどのような礼をもって遇するつもりでしょうか。陪臣(諸侯の臣)である私は上卿の礼を辞退します。」
襄王が言いました「伯舅(異姓の諸侯)の使者よ、余は汝による戎平定の勲功を嘉し、その美徳を受け入れるのであり、これは奨励するべきであって忘れてはならない。汝はその職に努めよ。朕の命に逆らうな。」
しかし管仲は頑なに上卿の礼を辞退し、下卿の礼を受けて帰還しました。
 
[] 十二月丁丑(十一日)、陳宣公が在位四十五年で死に、太子・款が立ちました。これを穆公といいます。
 
[] 『資治通鑑外紀』によると、この年、日中に星が秦に落ち、大きな音が響きました。
 
[] 『史記・秦本紀』はこの年(秦繆公十二年)に「斉の管仲と隰朋が死んだ」と書いていますが、『斉太公世家』を見ると二人の死は斉桓公四十一年(東周襄王八年、前645年)の事としているので、『秦本紀』の誤りです。
 
 
 
襄王六年
647年 甲戍
 
[] 春、狄が衛を侵しました。
 
[] 斉桓公が仲孫湫を周に送って聘問させました。目的は王子・帯を赦すように説得することです。しかし襄王に謁見した仲孫湫は王子・帯の話題に触れることなく帰国しました。
帰った仲孫湫が桓公に言いました「まだ無理です。王の怒りは収まっていません。少なくとも十年経たなければ王は王子を呼び戻さないでしょう。」
 
[] 夏四月、陳が宣公を埋葬しました。
 
[] 斉侯桓公・魯公(釐公)・宋公(襄公)・陳侯(穆公)・鄭伯(文公)・許男僖公)・曹伯(共公)が鹹で会いました。
淮夷が杞の脅威になったことへの対策と、周王室の安定を図ることが目的です。
 
秋、周王室を戎族の攻撃から守るため、諸侯が兵を派遣しました。斉の仲孫湫も兵を率いて周に入りました。
 
[] 九月、魯が大雩(雨乞いの儀式)を行いました。
 
[] 冬、魯の公子・友が斉に入りました。
 
[] 晋は連年の不作で、この年は大きな飢饉に襲われました。恵公は秦に食糧を求めます。
秦穆公が子桑(大夫・公孫枝)にどう対応するべきかを問うと、子桑はこう言いました「重ねて恩を施して報いを受けることができるのなら、主君が晋に求めることは何もありません。重ねて恩を施しても報いがないようなら、その民は離心し、民が離心した相手を討てば、敵は衆を集めることができず、必ず敗れます(報いがあってもなくても秦の利になるので、食糧を送るべきです)。」
穆公が百里奚に意見を聞くと、百里奚はこう言いました「天災は各国交代で起きるものです。隣国を憐れむのは道です。道を行えば福があります。」
晋から秦に亡命した丕豹は晋討伐を進言しました。しかし穆公が言いました「その君が悪であっても民に罪はない。」
秦は晋に食糧を送ることにしました。
 
以上は『春秋左氏伝僖公十三年)』を元にしました。『史記・晋世家』もほぼ同じ内容です。しかし同じ『史記』でも『秦本紀』は少し異なり、こう書いています。
丕豹が繆公(穆公)に言いました「食糧を与えず、飢饉につけこんで晋を討つべきです。」
繆公が大夫・公孫支孫子桑)に問うと、公孫支はこう言いました「飢饉と豊作はかわるがわる起きることです。食糧を与えるべきです。」
繆公が百里百里奚)に問うと、百里傒もこう言いました「夷吾は罪を犯しましたが、百姓に罪はありません。」
穆公は百里奚と公孫支の意見を採用し、食糧を晋に与えることにしました。
 
『国語・晋語三』にもこの出来事は書かれています。
丕豹が穆公に言いました「晋君は貴君に対して無礼で人々はそれを知っています。往年には晋で難(里克・丕鄭および多数の大夫を殺した事件)が起き、今年は飢饉が晋を襲いました。晋君は既に民心を失い、天意も失ったので災難が多発しているのです。この機に討伐するべきです。食糧を与えてはなりません。」
穆公が言いました「寡人(私)は晋君を憎むが、その民に罪はない。天災は各国に起きるものだ。不足した所に食糧を送るのは道だ。天下の道を廃れさせてはならない。」
穆公が公孫枝に意見を求めると、公孫枝はこう言いました「主君が晋君に施しを与えても、晋君はその民衆に対して恩恵を施しませんでした。今、旱害に襲われて晋君が主君に援けを求めたのは、天道(天意)というものでしょう。主君が晋を援けなくても天が援けるはずです。そのようなことになったら、晋の民衆は晋君の我が国に対する裏切りを正当なこととみなすでしょう。晋を援けて民衆を喜ばせるべきです。民衆が喜べば必ず自国の主君を咎めます。それでも晋君が行いを正さなかったら、我々が誅することができます。その時、我々に抵抗しようとする者はいないでしょう。」
穆公は納得しました
 
以上、三書の記述は若干異なりますが、秦穆公は晋に食糧を送ることにしました。
食糧輸送のために動員された船と車は秦都・雍から晋都・絳まで連なります。
これを「汎舟の役」といいます。「汎舟」は「汜舟」「泛舟」とも書き、「舟を浮かべる」という意味です。
 
尚、『史記・秦本紀』はこの出来事を秦繆公十二年(前年)の事としていますが、十三年の誤りです。『史記・十二諸侯年表』には穆公(繆公)十三年に書かれています。



襄王七
646年 乙亥
 
[] 春、斉を中心とする諸侯が縁陵に築城し、杞国を遷しました。縁陵は斉国領内または杞国領内にあった邑です。
前年、杞国が淮夷の脅威にさらされたため、諸侯が鹹で会合して対策を図りました。その結果、杞国を遷すことになったようです。
但し、『管子』の『大匡(第十八)』や『覇形(第二十二)』には宋が杞を攻めたと書かれており、『春秋公羊伝僖公十四年)』は「徐と莒が杞国の脅威になった」としています。
 
桓公は杞国に車百乗と甲兵千人を与えました。
 
[] 魯から(または「繒」)に嫁いだ季姫(恐らく釐公の娘)が魯に来ました。
当時、子が魯への入朝を怠っていたため、釐公は怒って季姫を魯に留め、に帰しませんでした。
夏六月、季姫と子が防で会い、子を魯に入朝させました。
 
[] 秋八月辛卯(初五日)、沙鹿山が崩れました。
晋の卜偃が言いました「期年(一年後)、大咎に襲われて国が亡びそうになるだろう。」
 
[] 狄が鄭を侵しました。
 
[] 冬、蔡の穆侯が在位二十九年で死に、子の甲午が立ちました。これを荘侯(「荘公」と書くこともあります)といいます。
 
[] この年、秦を飢饉が襲ったため、穆公は晋に食糧を求めました。しかし晋恵公は拒否します。
晋の慶鄭が恵公に言いました「恩恵に裏切ったら親しいものを失い(無親)、他者の災難を喜んだら不仁とされ、自分が大切にする物に対して貪婪になったら不祥であり、隣国を怒らせたら不義といわれます。四徳を失って国を守ることができるでしょうか。」
虢射が言いました「皮がないのに毛だけあっても役に立たない。」
少し難しい表現ですが、「皮」は晋が秦に譲ると約束した領土を指し、「毛」は秦に送る食糧を比喩しています。約束を破って皮(城)を譲らず、既に秦の恨みを買っているのに、毛(食糧)を送っても意味はない、という例えです。
慶鄭が反論して言いました「信を捨てて隣国を裏切ったら誰が艱難な時に我々を援けるでしょう。信がなければ患憂が生まれ、援けがなければ必ず倒れます。」
虢射が言いました「食糧を与えても相手の怨みを減らすことはできず、逆に力をつけることになる。食糧を与えるべきではない。」
慶鄭が言いました「恩恵に裏切って災いを喜ぶのは、民が嫌うことだ。親しい者でもそのような事があったら仇となる。敵国ならばなおさらだ。」
結局、恵公は虢射の意見を採用しました。
退出した慶鄭が言いました「国君は必ず後悔するだろう。」
 
以上は『春秋左氏伝僖公十四年)』の記述を元にしました。
以上は『春秋左氏伝僖公十四年)』の記述を元にしました。『史記・晋世家』は少し異なります。
秦を飢饉が襲ったため、晋に食糧を請いました。晋君が群臣と謀ります。
慶鄭が言いました「秦によって擁立されたのに、すでに領地を割譲する約束を破りました。それでも、晋が飢えた時にはが食糧を貸しました。が飢えて食糧を求めています。何を躊躇して謀る必要があるのですか。
恵公の舅(母の兄弟)である虢射が言いました前年、が晋をに与えましたが、はそれを知らず、我々に食糧を貸しました。今、天がを晋に与えようとしています。晋はに逆らってはなりません。討つべきです。」
虢射を採用しました

史記・秦本紀』は簡単な記述になっています。
秦を飢饉が襲ったため、穆公が晋に粟穀物を求めました。
晋恵公が群臣と謀ると、虢射が言いました「飢饉につけこんで攻撃すれば大功を挙げることができます。」
恵公は同意しました。
 
『国語・晋語三』にも記述があります。
秦を飢饉が襲うと、晋恵公は河西五城に命じて秦に食糧を運ばせることにしました。しかし虢射が言いました「河西の地を秦に譲ると約束しながら与えず、その地の食糧を送ったら、秦の怨みを減らすことはできず、逆に寇(敵)を強くしてしまいます。食糧を送るべきではありません。」
恵公が納得すると、慶鄭が言いました「いけません。秦に対して土地を割く約束を破り、しかも食糧まで惜しむというのですか。善を忘れて徳に背いたら、必ず秦の攻撃を受けます。」
恵公は「慶鄭には関係ないことだ」と言って諫言を無視しました。
 
晋の度重なる裏切りに怒った秦穆公は、翌年、晋を攻撃します。
 
[] 『史記・十二諸侯年表』によると、この年(楚成王二十六年)、楚が六と英の二国を滅ぼしました。
しかし『史記・楚世家』を見ると、楚がこの年に滅ぼしたのは英国だけで、六国を滅ぼすのは楚穆王四年(東周襄王三十年、前622年)のこととなっています。
再び『史記・十二諸侯年表』を見ると、楚穆王四年には「楚が六と蓼を滅ぼす」と書いてあります。六国は楚成王に滅ぼされてから一度復国し、楚穆王によって再び滅ぼされたのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。

春秋時代49 東周襄王(九) 韓原の戦い 前645年(1)