春秋時代49 東周襄王(九) 韓原の戦い 前645年(1)

今回は東周襄王八年です。四回に分けます。
 
襄王八年
645年 丙子
 
[] 春正月、魯釐公が斉に入りました。
 
[] 楚が徐国を討ちました。徐が諸夏(中原諸国)に近づいたためです。斉桓公には徐嬴という夫人がおり、斉と徐は婚姻関係にありました。
 
三月、斉侯桓公・魯公(釐公)・宋公(襄公)・陳侯(穆公)・衛侯(文公)・鄭伯(文公)・許男僖公)曹伯(共公)が牡丘で盟しました。蔡丘の盟の内容を再確認し、徐を援ける相談をするためです。
魯の孟穆伯(公孫敖。慶父の子)が魯師と諸侯の大夫を率いて徐国救援に向かい、匡(衛、または宋の地)に駐軍しました。
 
[] 夏五月、日食がありました。
 
[] 秋七月、斉師と曹師が厲国を攻めました。徐を援けるためです。
 
[] 八月、魯で螽(蝗)の被害がありました。
 
[] 九月、魯釐公が会盟から還りました。
子が魯に来朝したため、季姫がに帰りました(前年参照)
 
[] 己卯晦(三十日)、夷伯の廟に雷が落ちました。夷伯は魯の展氏の祖のようです。夷伯の廟は展氏の祖廟になります。展氏には隠れた罪があったため、天罰が降ったといわれました。
 
[] 冬、宋が曹を攻撃しました。旧怨(東周釐王二年、前680年に斉・陳・曹が宋を攻めました)に報復するためです。
 
[] 楚が婁林で徐を破りました。徐は諸侯の援軍に頼って油断していたようです。
 
[] 十一月(「十一月」というのは孔子が編纂した『春秋』の記述で周暦です。『春秋左氏伝』は晋が使っていた夏暦から「九月」の事としています)壬戌(十四日)、晋恵公と秦穆公が韓(韓原)で戦い、恵公が捕えられました。
以下、『春秋左氏伝僖公十五年)』と『国語・晋語三』を元に韓原の戦いの経緯を書きます。
 
晋恵公が帰国した時、秦の穆姫(穆公夫人。恵公の姉)が賈君を夷吾(恵公)に託し、「諸公子を晋に迎え入れなさい」と命じました。しかし即位した恵公は賈君と姦通し、諸公子を迎え入れることもなかったため、穆姫は恵公を怨みました(東周襄王三年、前650年)
恵公は即位前、中大夫に重賞を与えると約束しましたが、即位しても与えませんでした。また、秦穆公にも河外(河西と河南)の五城(または八城)を贈り、東は虢略、南は華山、河内は解梁城に至る地を秦に割くと約束しましたが、守りませんでした。晋を飢饉が襲った時は秦に援助を求めて食糧を得ましたが、秦を飢饉が襲った時は秦が食糧を求めても拒否しました。
相次ぐ裏切りに怒った秦穆公は晋討伐を決意しました。
 
史記』の『秦本紀』と『晋世家』を見ると、晋恵公が秦の飢饉につけこんで先に兵を出したため、秦穆公は激怒して迎撃したとあります。しかし秦の飢饉は前年のことで、『国語・晋語三』を見るとこの年の秦は豊作で国内も安定していたようです。また、韓原の戦いがあったのは収穫後の冬です。秦の飢饉につけこむのなら収穫前に兵を動かすはずなので、『史記』の記述は恐らく誤りです(楊伯峻『春秋左伝注』参照)
 
『春秋左氏伝』と『国語』の記述に戻ります。
秦の卜徒父(卜人。徒父が名)が筮で占うと「吉」と出て、「黄河を渡って侯の車が敗れる(渉河,侯車敗)」という辞を得ました。穆公が詳しく聞くと卜徒父が言いました「大吉です。三回破って晋君を捕えることができます(『春秋左氏伝僖公十五年)』には占いの解説が書かれていますが省略します)。」
 
占いの通り、晋軍は三敗しました。秦軍が韓(韓原)に至ります。
晋恵公が慶鄭に聞きました「寇(敵)が深く侵入した。どうするべきだ。」
慶鄭が言いました「主君が寇の怨みを深くしたのです。その進攻が浅いはずがありません。私が知るところではないので、虢射に聞いてください。」

史記・晋世家』では、慶鄭はこう言っています「が主公を国に入れて安定させたのに、主公は(領土割譲)の約束を破りました。晋が飢えた時、(食糧)を送ったのに、が飢えた時、晋は裏切り、しかも飢えに乗じて攻撃しました。深く侵入してくるのは当然です。」
 
『春秋左氏伝』と『国語』に戻ります。
恵公は「不遜ではないか!わしを責めるのか!」と言って怒りました。

恵公が車右を誰にするか占うと、慶鄭が吉と出ました。しかし恵公は「慶鄭は不遜だ」と言って家僕・徒を車右に、歩揚を御者に任命し(『史記・晋世家』の注によると二人とも大夫)、小駟が牽く車に乗りました。小駟は鄭から晋に贈られた馬です。
慶鄭が言いました「古の大事(戦争)では必ず自国で生まれた馬を使いました。馬はその地の水土に生まれ、その地の人心を知っているので調教しやすく、道に慣れているのでどこにいても指示に従います。今、異国の馬を戦事に従わせようとしていますが、恐れたら平静を失い、指示を聞かなくなります。馬の気が荒れていますが、これは狡猾で憤っているからです。血が体中を巡り、脈が膨れあがっているのは、外は強くても中が乾いているからです。進退に窮して動けなくなるでしょう。必ず後悔します。」
恵公は諫言を無視しました。
 
大夫・梁由靡が韓簡(晋の卿・韓万の孫)の車を御し、虢射がその車右となって恵公に続きました。
 
九月(夏暦。周暦では十一月)、晋恵公が秦師を迎撃するため、韓簡に視察させました。韓簡が戻って言いました「師(兵)は我が軍より少数ですが、闘士は我が軍の倍います。」
恵公が「それはなぜだ?」と問うと、韓簡が答えました「主公は晋から出奔した時、秦の援けを得ました。晋に帰国した時は秦に擁立されました。飢饉の時は食糧を提供されました。このように三回も恩恵を施されましたが、我々は報いていません。だから彼等は攻めて来たのです。それに対して今、我々は迎撃しようとしています。我々がやるべきことをしないから秦は憤っています。彼等の闘士は我が軍の倍どころではありません。」
恵公が言いました「その通りかもしれない。しかし我々が迎撃しなければ、秦国は今後我々を軽視するようになるだろう。一夫(匹夫)でも軽視されることを避けるものだ。一国においてはなおさらではないか。」
恵公は韓簡を送って秦軍に戦いを挑みました。韓簡が秦の陣営に向かって言いました「かつて貴君から受けた恩恵を、寡人(私。ここでは晋恵公)は忘れたことがない。しかし寡人は不才のため、衆()を集めることはできても解散させることはできない。貴君が兵を還すのなら、それは寡人の願いである。もしも貴君が兵を還さないとしても、逃げることはない。」
『春秋左氏伝』によると、秦穆公は公孫枝を送って応じました「貴君(晋恵公)が帰国するまでは、寡人(秦穆公)は貴君の将来を危惧していた。貴君が帰国しても国君の位が定まらなかったため、寡人は貴君のために憂慮した。しかし今、すでに国君の地位が定まったのだから、貴君の命に逆らうことはない(晋恵公が招いた戦争を避けることはない)。」
晋軍の大敗を覚った韓簡は退いてからこう言いました「戦死することなく捕虜になれたら幸いだ。」
 
『国語』の記述は若干異なります。
秦穆公自ら彫刻を施した戈を持って陣頭に立ち、こう言いました「昔、貴君が国に帰ることができなかったため、寡人は貴君のために憂慮した。貴君が帰国してもその地位を安定させることができなかったため、寡人は貴君を気にかけていた。しかし今、貴君はその地位を安定させ、軍を整えることができた。貴君は陣を構えればよい。寡人は自らそれを見に行こう。」
秦の使者が帰ると公孫枝が穆公を諫めて言いました「昔、主君は公子・重耳を帰国させず、今の晋君を擁立しました。これは主君が徳を置かず、服す者を選んだからです。しかし彼を選んだ結果、我が国の意に沿うことはありませんでした。もしも戦って敗れたら諸侯の笑い者になるでしょう。晋の自滅を待つべきではありませんか。」
穆公が言いました「確かに公子・重耳を晋君に立てなかったのは、徳を置かず服従する者を選んだからだ。しかし公子・重耳自身も国君になろうとしなかった。わしが何をすればよかったというのだ。今の晋君は国内で援けた者を殺し、国外では約束を破った。彼は信義を棄てたが、わしは恩恵を与えてきた。天が存在するのなら、必ずわしが勝つ。」
 
以上、『春秋左氏伝』と『国語』に違いがあるため、二書の内容を併記しました。
 
晋と秦の決戦は避けることができなくなりました。
壬戌(十四日)、秦穆公が大夫を集めて車に乗り、自ら戦鼓を敲いて進軍を開始します。両軍は韓原で戦い、晋軍が壊滅しました。晋恵公は戎馬が泥にはまって動けなくなります。恵公が慶鄭に叫んで言いました「車に乗せてくれ!」
しかし慶鄭はこう言いました「善を忘れて徳に背き、諫言を聞くことなく、卜にも逆らって私を車右にしませんでした。敗れると決まっていたのに、今更、私の車に乗ってどこに逃げようというのですか。」
慶鄭は去りました。
 
この時、韓簡の車を御す梁由靡が秦穆公を捕えようとしていました。車右は虢射です。
そこに慶鄭が現れて梁由靡等にこう言いました「主君を援けに行け!」
梁由靡はやむなく秦穆公から離れて秦恵公を援けに行きました。しかし晋恵公は既に秦軍に捕えられていました。
 
韓原の戦いに関して『史記・秦本紀』は『春秋左氏伝』『国語』と異なる内容を紹介しています。別の場所で書きます。

春秋時代 韓原の戦い 岐下の野人

 
 
 
次回は戦後の状況です。

春秋時代50 東周襄王(十) 戦後の晋と秦 前645年(2)