春秋時代 韓原の戦い 岐下の野人

晋と秦が韓原で戦いました。

春秋時代49 東周襄王(九) 韓原の戦い 前645年(1)


本編では『春秋左氏伝僖公十五年)』と『国語・晋語三』の内容を元にしましたが、『史記・秦本紀』は異なる記述になっているので、ここで紹介します。

 
秦繆公(穆公)十五年、晋が兵を発して秦を攻撃しようとしたため、秦繆公は丕豹を将とし、自ら出撃しました。

九月(晋が用いていた夏暦。周暦では十一月)壬戌、両軍が韓地韓原)で戦いました。晋恵公は全滅を覚悟して秦軍と戦い、戦場を駆け巡りましたが、晋軍が劣勢になったため退き返そうとしました。その時、戎(戦車を牽く馬)が沼に足を取られて動けなくなりました。繆公と麾下の将兵が恵公に攻撃を集中します。ところが恵公はなんとか逃げ延び、逆に晋軍が秦繆公を包囲しました。晋軍の集中攻撃を受けて繆公は負傷し、部下達も倒されていきます。すると突然、三百余人の野人(城邑の外で生活する人)が晋軍に襲いかかりました。野人達は秦繆公を包囲の中から救出し、反撃して晋恵公を捕えました。

 
かつて繆公は良馬を失いました。馬は岐下(岐山の麓)に逃げ、周辺に住む野人三百余人に食べられてしまいます。
暫くして秦の官吏が野人を捕まえ、法によって処罰しようとしました。すると繆公はこう言いました「君子は家畜のために人を害することはない。善馬(良馬)の肉を食べながら酒を飲まないようでは体に悪いという。」
繆公は野人三百余人に酒をふるまって釈放しました。
野人三百余人は秦が晋と戦うと聞いて従軍を請い、許されました。戦いが始まり繆公が窮地に陥ると、皆、死を恐れず先を争って晋軍に襲いかかり、晋恵公を捕えることができました。
 
秦繆公は晋恵公を連れて帰国し、国内に布令しました「臣民は斎戒して日夜を過ごせ。後日、晋君を捧げて上帝を祀る。」
周天子(襄王)はこれを聞いて「晋はわしと同姓だ(どちらも姫姓。周王室と晋は親族関係です)」と言い、恵公の釈放を求めました。
晋恵公の姉は繆公夫人です。恵公が捕えられ間もなく殺されると聞いた夫人は衰絰(喪服)を着て裸足で言いました「妾()の兄弟姉弟は助け合うことができず、君命を辱めてしまいました。」
繆公が言いました「わしは晋君を捕えたことを功績だと思っていた。しかし今、天子は命乞いをし、夫人も憂いている。」

秦繆公は晋恵公と盟を結んで帰国させることにしました。上舍(上等の宿舎)に住ませ、七牢(一牢は牛・羊・豚、各一頭)を贈ってもてなします。

十一月(夏暦。周暦では翌年正月)、晋恵公が釈放されて帰国しました。恵公は河西の地を秦に譲り、太子・圉を人質として秦に送ります(太子・圉が人質になるのは、『春秋左氏伝』では二年後の事です)。繆公は太子・圉に宗女(宗室の女性)を娶らせました。
 
この時、秦の地は東に拡大し、龍門河に至りました。