春秋時代51 東周襄王(十一) 慶鄭処刑 前645年(3)

今回も東周襄王八年の続きです
 
[十二] 十月(晋が用いる夏暦。周暦では十二月)、晋の陰飴甥(呂甥)が秦穆公に会い、王城(秦の地名)で盟を結びました。
穆公が聞きました「晋国は和しているか?」
呂甥が答えました「和していません。小人は国君が犯した罪を考えることなく、国君を失ったことを恥じて自分の親族を哀悼しています。進んで税を納めて軍備を整え、太子・圉を立てようとし、こう言っています『必ず報復しよう。そのためには斉・楚や戎狄に服従して協力を求めてもいい。』君子は国君を愛していますが、その罪も知っています。進んで税を納めて軍備を整え、秦の命を待ってこう言っています『必ず徳に報いよう。死んでも徳に裏切ることはない。』このように小人と君子の考えが分かれているので和しているとは言えません。国内の意見がまとまらないため、盟を結びに来るのが遅くなりました。」
穆公が言いました「汝が来なくても、わしが晋君を送り返そうと思っていた。晋の臣民は国君についてどう考えているか?」
呂甥が答えました「小人は国君が難から逃れることができず、帰って来ないと思っています。君子は心が大きく、国君が帰ってくると信じています。小人はこう言っています『我々が秦を害した。秦が我が君を返すはずがない。』そして小人は国君の罪を考えることなく、秦を憎み、新君太子・圉)に仕えて報復することだけを考えています。これに対して君子はこう言っています『我々が罪を知ったのだから、秦は我が君を返すはずだ。秦は主君を国に入れることができ、主君を捕えることもできた。主君を釈放することもできるはずだ。これほど大きな恩恵はないだろう。裏切ったら捕え、服したら赦す。これ以上厚い徳はなく、これ以上厳かな刑はない。服した者は徳を懐かしみ、裏切った者は刑を恐れる。この一戦で秦は霸を称えることができるだろう。国に入れたのにその地位を安定させることなく、廃して国君に立てず、以前の仁徳を怨みに換えるようなことを秦がするはずがない。』」
穆公は「まさにわしの心と同じだ」といい、晋穆公が住む館舎を改め、七牢(牛・羊・豚各一頭で一牢。七牢は諸侯の礼)を贈りました。
 
[十三] 秦が晋恵公を帰国させました。
晋の大夫・蛾析が慶鄭に言いました「主君が捕まったのはあなたに原因があります。主君が帰ってくるというのに、なぜ逃げないのですか?」
慶鄭が言いました「『軍が敗れたら軍のために死に、将が捕まったら将のために死ぬ軍敗,死之。将止,死之)』という。しかし私はどちらもできなかった。しかも国君を援けようとした者を妨害したため、国君は捕虜になってしまった。大罪を三つも犯したのに、どこに逃げるというのだ。そもそも、国君を敗戦に追いこみ、敗れたのに死なず、刑を受けることもない。これでは人臣といえない。臣でありながら臣らしくないようでは、どこに行っても受け入れられないだろう。国君が帰ってくるのなら私に刑を与えて国君の意志を満足させよう。国君が帰って来ないようなら、私が一人で兵を率いて秦を討つ。それでも国君を得ることができなかったら死ぬまでだ。これが私が逃げない理由だ。臣下が逃げて国君の意に背くのは犯(反逆)である。国君が犯しても(道に背いても)国を失うという懲らしめを受けるものだ。臣下ならなおさら刑を受けて当然だろう。
 
十一月(晋が用いる夏暦。周暦では翌年正月)、恵公が晋の郊外に至りました。そこで慶鄭が国都にいると知り、家僕・徒を送って慶鄭を呼び出し、こう言いました「汝には罪があるのに、なぜまだいるのだ?」
慶鄭が言いました「臣は主君を怨んでいます。主君が国に入ってから徳に報いていれば、国勢を下降させることはありませんでした。国勢が下降してからも諫言を聞いていれば、戦を招くことはありませんでした。戦になっても良将を用いていれば敗れることはありませんでした。既に戦に敗れたのですから、罪がある者(敗戦の責任がある者)を誅殺するべきです。罪がある者を罰しなければ国は成り立ちません。だから臣は刑を待ち、主君の政事を正すことにしたのです。」
恵公が言いました「処刑せよ!」
慶鄭が言いました「直言は臣下が行うべきことです。上が直刑(的確な刑罰)を行うのは、国君の明というものです。臣下がやるべきことを行い、国君が英明であれば、国に利があります。主君が臣を処刑しないとしても、臣は自殺するつもりでした。」
蛾析が恵公に言いました「自ら罪を認めて刑を受けようとする臣下は、赦して仇討に使うべきだといいます。主君は彼を赦して秦への報復のために用いるべきです。」
梁由靡が言いました「いけません。我々が罪人を赦して仇討に用いたら、秦も同じことをするでしょう。そもそも、戦に勝てないからといって暗殺のような手段で報復するのは、武とはいえません。国を出て戦って勝てず、国に帰っても動揺を収めることができないようでは智といえません。講和が成立したのに裏切るのは信ではありません。刑罰を正しく用いず政治を乱したら威を失います。戦に勝てず国を治めることもできないようでは、国を衰退させて孺子(人質として秦に行くことになった太子・圉)を殺すことになります。刑を行うべきです。」
恵公が言いました「慶鄭を斬れ。自殺させてはならない。」
家僕・徒が言いました「国の君となる者は私怨を棄てることができるものです。臣下が死刑から逃げようとしなかったことは、美徳として称えるべきです。処刑するよりも賢明です。」
梁由靡が言いました「国君の制令刑律は民を治めるためにあるのです。命がないのに勝手に進退を決めるのは、制令を犯すことです。自分の満足のために国君を失うのは、刑律に背くことです。慶鄭は国を害し混乱を招きました。戦になっても勝手に退き、逃走したのに自殺を許したら、臣下を放縦にさせ、国君が刑を失うことになります。今後のためになりません。」
恵公は司馬・説(司馬は官名。説は名)に刑の執行を命じました。
 
司馬・説は三軍の兵士を集めてから慶鄭の罪を読み上げました「韓の戦いにおける誓いはこのようであった。『秩序を失い軍令に背いたら死刑(失次犯令,死)』『将が捕えられても顔に傷がない者は死刑(将止不面夷,死)』『虚言によって衆を誤らせる者は死刑(偽言誤衆,死)。慶鄭は秩序を乱して軍令に背いた。これが一つ目の罪である。慶鄭は勝手に進退を決定した。これが二つ目の罪である。慶鄭は梁由靡を誤らせ、秦公を逃してしまった。これが三つ目の罪である。国君が捕まったのに慶鄭の顔には傷がない。これが四つ目の罪である。慶鄭よ、刑に伏せ!」
慶鄭が言いました「説よ、三軍の士がここに集まり、私は刑が行われるのを待っている。顔が傷つくことを恐れると思うか。早く刑を行え!」
丁丑(二十九日)、慶鄭が斬首されました。
恵公は国都・に入りました。
 
韓原の戦勝によって、秦は晋の河東に官司を置き、税を徴収するようになりました。
 
[十四] この年、晋を再び飢饉が襲いました。
秦穆公は晋に食糧を贈り、こう言いました「わしが憎むのはその君であり、その民は憐れんでいる。唐叔(晋国の祖)が封じられた時、箕子はこう言った『この子孫は必ず大きくなる。』我が国が晋を得ることはできない。だから今は徳を築いて能力がある者の出現を待つのだ。」
 
 
 
次回で襄王八年が終わります。

春秋時代52 東周襄王(十二) 斉管仲の死 前645年(4)