春秋時代52 東周襄王(十二) 斉管仲の死 前645年(4)

今回で東周襄王八年が終わります。
 
[十五] この年、斉の管仲が病に倒れました。
『管子』の『戒(第二十六)』と『小称(第三十二)』に桓公管仲の会話が紹介されています。以下、二篇の内容を合わせて簡単に紹介します。
桓公管仲を訪ねて言いました「仲父管仲の病が重いのは隠すことができない。不幸にも治癒することでできなかったら、わしは誰に政治を任せればいいだろう。」
管仲が答えないため、桓公が言いました「鮑叔はどうだろうか?」
管仲が言いました「鮑叔は君子です。たとえ千乗の国(大国)でも、正当な道から外れて彼に与えようとしたら、彼は受け取りません。しかし彼に政治を任せてはなりません。彼は善を好み悪を嫌いますが、悪を嫌う度が過ぎており、一つの悪を見つけたら一生忘れません。」
桓公が問いました「それでは誰がいいか?」
管仲が答えました「隰朋ならいいでしょう。彼は知識を好み、虚心になって下の者に尋ねることができます。徳を人に与えることを仁といい、財を人に与えることを良といいます。善行によって人を制しようとしても、人は心服しませんが、善行によって人を養おうとすれば、服さない者はいません。国を治める時には知る必要のない政事というものがあるものです。家を治める時も知る必要のない家事があるものです。これができるのはまさに隰朋です。また、彼は家にいても公門(公事)を忘れず、公門にいても家を忘れず、君に仕えたら二心を持たず、しかも自分の身を大切にすることもできます。かつて彼は斉国の財を使って道を家とする難民五十家を援けましたが、誰も隰朋のおかげだと知りませんでした。これは大仁というものです(世に名が知られて当然な善行を誰にも知られることなく行うことができるというのは、「知る必要のない政事がある」という前文に符合しています)。これが隰朋です。」
桓公がまた問いました「不幸にも仲父を失ったら、我が国の大夫で国を安定させることができるだろうか?」
管仲が答えました「鮑叔牙は好直(実直を好む)、賓胥無は好善(善を好む)、甯戚は能事(能力がある)、曹孫宿は善言(弁舌に優れている)です。」
桓公が言いました「この四人のうち一人を得るのも難しいだろう。しかし寡人(私)は四人とも臣下とした。これでも国を安定できないとしたら、それはなぜだ。」
管仲が言いました「鮑叔は好直すぎるため、国のために好直を犠牲にすることができません。賓胥無は好善すぎるため、国のために好善を犠牲にすることができません(鮑叔と賓胥無は融通がききません)。甯戚は能事ですが、適度なところで止まるということができません。曹孫宿は善言ですが、弁舌に失敗したら沈黙してしまいます。消長や満ち欠けの形成に従って百姓と共に屈伸すれば臨機応変に柔軟な判断をすれば)、国を安定できるといいます。隰朋にはこれができます。隰朋は、行動する時には必ず自分の力量を把握し、事を起こす時には必ず自分の技量をわきまえることができます。」
ここまで話すと、管仲は嘆息してつぶやきました「天が隰朋を産んだのは、夷吾の舌とするためだ。身管仲が死んで舌隰朋)だけが生きることはないだろう。」
管仲が話題を変えて桓公に言いました「江と黄の両国は楚に近いので、臣が死んだら両国を楚に服属させてください。もしも楚に譲らなければ、楚は必ず併吞しようとします。楚が併吞しようとしたら我が国は両国を援けなければなりません。両国を援けるために楚と戦ったら禍乱が始まります。」
桓公は「わかった」と言いました。
 
後日、桓公が再び管仲を訪ねて言いました「仲父の病はますます重い。寡人に言うことはないか。」
管仲が言いました「主公が臣を訪ねて来なくても、臣には話すべきことがありました。しかし主公が聞き入れないのではないかと心配しています。」
桓公が言いました「仲父が寡人に東に行けと言えば寡人は東に行く。寡人に西に行けと言えば寡人は西に行く。仲父の命に逆らうことはない。」
そこで管仲は衣服と冠を正して坐り、こう言いました「東(東城)に犬がおり、いつも牙をむいて人を噛もうとしているので、臣はこれを繋いで自由を奪いました。主公の寵臣・易牙は美食を提供することで主公に仕えていますが、主公のために自分の子も犠牲にしました。自分の子を愛することもできない者が主君を本当に愛することができるでしょうか。
北郭(北城)に犬がおり、いつも牙をむいて人を噛もうとしているので、臣はこれを繋いで自由を奪いました主公は女色を愛しているため宮内の嫉妬を招きました。そこで竪刁は自ら刑を施して(去勢して)主公に仕え、宮内を管理するようになりました。竪刁は主公の寵臣となりましたが、自分の身体を愛することもできない者が本当に主君を愛することができるでしょうか。
西郭(西城)に犬がおり、いつも牙をむいて人を噛もうとしているので、臣はこれを繋いで自由を奪いました主公の寵臣である公子・開方(啓方)は千乗(大国。衛)の太子の地位を棄てて主公に臣事しました。彼は主公に仕えることで千乗の君よりも大きな利益を欲しているはずです。また、彼は十五年も自分の家に帰っていません。斉と衛は近いので帰るにも日数を要しないのに、親族を愛そうとしません。親族を愛することができない者が本当に主君を愛することができるでしょうか。
嘘偽りは長続きせず、真面目に生きない者は終わりを全うできないといいます。主公は彼等を遠ざけるべきです。」
桓公は「わかった」と言いました。
 
暫くして管仲は死にました。その十カ月後に隰朋も死にました。
 
管仲の喪に関して『礼記・雑記下』に記述があります。
管仲は以前、群盗に遭いましたが、その中から二人を選んで桓公に推挙し、こう言いました「この二人は盗賊と交わったためこのような事をしていましたが、実際は立派な人物です。」
管仲が死ぬと桓公は二人に命じて喪に服させました。
大夫に推挙されて国君に仕えた者が、自分を推挙した大夫のために喪に服すというのは管仲から始まりました
 
管仲死後、桓公は遺言を守って易牙竪刁、開方を放逐しました。『管子』によるとこの時、「堂巫」という者も遠ざけられています。『管子』の『戒』も『小称』も堂巫に関して詳しく述べていませんが、『呂氏春秋・先識覧・知接』に「常之巫」という名で詳細が書かれています(『資治通鑑外紀』は「常巫」としています)
以下、『呂氏春秋』から抜粋します。
 
重病を患った管仲桓公に言いました「主公は易牙、竪刀竪刁)、常之巫、衛公子・啓方(開方)を遠ざけるべきです。」
桓公が言いました「易牙は自分の子を犠牲にしてまで、わしに美食を提供した。このような者を疑う必要があるか?」
管仲が答えました「人の情とは、我が子を愛さないというものではありません。自分の子を殺すことができる者が主公に対してどのような態度をとるでしょうか。」
桓公が言いました「竪刀は自宮(自分で去勢すること)して寡人に仕えた。このような者を疑う必要があるか?」
管仲が言いました「人の情とは、自分の身を愛さないというものではありません。自分の身を愛することもできない者が主公に対してどのような態度をとるでしょうか。」
桓公が言いました「常之巫(巫者)死生を察知し苛病(心身の疾病)を除くことができる。このような者を疑う必要があるか?」
管仲が言いました「死生とは命(天命)です。苛病とは失(心身の失調によるもの)です。主公が天の命を聞かず、本(道理)をわきまえず、巫者に頼るようでは、やがて彼ははばかるものがなくなるでしょう。」
桓公が言いました「衛の公子・啓方は寡人に仕えて十五年になり、その父が死んでも葬儀に帰らなかった。このような者を疑う必要があるか?」
管仲が言いました「人の情とは自分の父を愛さないというものではありません。父を愛することもできない者が主公に対してどのような態度をとるでしょうか。」
桓公は納得して「わかった」と言いました。
 
『管子』の『戒』と『小称』の記述に戻ります。
桓公堂巫(常之巫)を追放してから病にかかりましたが治すことができず、易牙を追放すると五味を感じなくなり(食事が進まなくなり)、竪刁を追放すると宮中が乱れ、公子・開方を追放すると甘言を述べる者がいなくなり、朝廷もうまく治まらなくなりました。
そこで桓公は「聖人管仲でも誤ることがあるのか」と言って四人を呼び戻しました
 
再び『呂氏春秋・先識覧・知接』から四人を呼び戻す場面です。上述の内容の続きです。
管仲が死ぬと桓公は四人を放逐しました。ところが食事を美味しいと感じず、宮内は混乱し、苛病を患い、朝廷も厳粛ではなくなりました。
三年後(実際は管仲が死んで二年後に桓公も死ぬので誤りです)桓公が言いました「仲父は度が過ぎるではないか。誰が仲父の言うことを全て聞かなければならないというのだ。」
桓公は四人を呼び戻しました。
その翌年、桓公が病に倒れると常之巫が宮中から出て言いました「公はもうすぐ薨じる(死ぬ)。」
易牙、竪刀、常之巫が乱を起こし、啓方は衛に逃げました。
 
桓公易牙等の政変によって悲惨な最期を迎えます。



次回に続きます。