春秋時代54 東周襄王(十四) 宋襄公 前642~641年

今回は東周襄王十年からです。
 
襄王十一年
642年 己卯
 
[] 春正月、宋公(襄公)が曹伯(共公)や衛・邾と共に斉を攻めました。斉の太子・昭を擁立するためです。
三月、斉人は宋を恐れて前年即位した無虧(武孟)を殺しました。無虧には諡号がありません。
 
[] 鄭文公が始めて楚に朝見しました。斉桓公が死んだためです。
楚成王は鄭に銅を与えました。しかし成王は後悔して盟を結び、「兵器を鋳造してはならない」と命じました。
鄭は三つの鐘を鋳ました。
 
[] 夏、魯が斉の内乱を収めるために兵を出しました。
 
[] 斉人が太子・昭を国君に立てました。これを孝公といいます。
しかし四公子(公子・潘、公子・商人、公子・元、公子・雍)の勢力が激しく抵抗したため、孝公は宋に奔りました
五月戊寅(十四日)、宋師が斉師と甗(斉地)で戦い、斉(四公子軍)が敗れました。孝公が斉に帰ります。
 
[] 狄が斉孝公の即位に反対して兵を出しました。
 
[] 秋八月丁亥(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年八月に丁亥の日はありません)、斉孝公が前年十月に死んだ桓公をやっと埋葬しました。
 
[] 冬、邢と狄が衛を攻めて菟圃を包囲しました。
衛文公は国を父兄子弟や朝臣に譲ると言ってこう宣言しました「国を統治する能力がある者に燬(衛文公の名)は従う。」
群臣がこれに反対すると、文公は将兵を指揮して訾婁に陣を構えました。
狄が兵を退いたため、邢も撤兵しました。
 
[] 梁伯が国を拡大して新しい邑を「新里」と命名しました。しかし民を移住させなかったため新領土を充実させることができず、新里は秦に奪われました。
 
[] 『資治通鑑外紀』はここで亡命中の晋公子・重耳の動向を書いていますが、私の通史では重耳が帰国する時にまとめて書きます。
 
 
 
襄王十二年
641年 庚辰
 
[] 春、秦が梁から奪った新里に城を築いて民を住ませました。
梁国は年末に滅ぼされます。
 
[] 三月、宋襄公が滕子(宣公)・嬰斉を捕えました。嬰斉は『資治通鑑外紀』によると滕叔繍西周武王の弟)から数え十七世後の子孫です。宋がなぜ滕宣公を捕えたのかははっきりしません。
 
夏六月、宋襄公と曹・邾が曹南(曹国の南)で盟しました。
 
子が邾で会盟しました。(または「繒」。夏禹の子孫が封じられた国。姒姓)は曹南の会盟に参加しなかったか、遅れたため、単独で邾で会盟したようです。
己酉(二十一日)、邾が鄶子を捕えました。
 
宋襄公が邾文公に命じて子を殺し、次睢の社(淮水沿いにある土地神の祠で、東夷に祀られていたようです)の祭祀で用いる犠牲として捧げました。子をみせしめにして武威を示し、東夷を宋に帰順させることが目的です。
司馬・子魚(目夷)が言いました「古の祭祀では六畜(馬・牛・羊・豚・犬・鶏)を共に用いることなく、小事(小さい祭祀や行事)に大牲(大きな犠牲)を使うこともなかった。人を捧げるなどもっての外だ。祭祀は人のために行うものであり、民は神の主だ。人を犠牲にして何の神を祀るというのだ。斉桓公は三つの亡国(慶父によって内乱が起きた魯および狄に滅ぼされた邢と衛。もしくは魯を入れずに杞・邢・衛とすることもあります。杞は淮夷の脅威を受けて国を遷しました)を諸侯に復したのに、義士はまだその徳が薄いと言って非難した。ところが今、主公は一回の会盟で二国の君(滕子と子)を虐げ、淫昏の鬼(次睢の社。妖神とされていたようです)を祀る犠牲に使った。霸を求めても実現は難しいだろう。普通に死を得ることができたとしたら、それだけでも幸せなことだ。」
 
[] 秋、宋が曹を包囲しました。夏に会盟をしたばかりですが、曹は宋に対して無礼があったか、恭順ではなかったようです。
宋の子魚が襄公に言いました「かつて文王は崇国(崇侯・虎)の徳が乱れていると聞いて討伐しましたが、三旬(三十日)攻撃しても降すことができませんでした。そこで兵を還して教化を行い、徳を修めて再び討伐すると、文王が営塁を拠点にしただけで崇国は投降しました(因塁而降)。『詩経(大雅・思斉)』にこうあります『妻の前で范を示し、兄弟達の模範となる。こうすれば家と国を治めることができる(刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦)。』今、主君の徳は完全ではありません。それなのに人を討伐してどうするのですか。まずは自分の徳を反省し、欠陥がなくなってから動くべきです。」
 
[] 衛が邢を攻めました。菟圃の役(前年)の報復です。
当時、衛は大旱に襲われていました。衛文公が山川の祭祀を卜いましたが「不吉」と出ます。
荘子が言いました「昔、周を飢饉が襲った時、殷商王朝に勝って豊作になりました。今、邢は無道で諸侯には伯(覇者)がいません。天は衛に邢を討伐させようとしているのではありませんか。」
衛文公がこれに従って兵を集めると雨が降りました。
 
[] 陳穆公が諸侯との関係を改善し、斉桓公の徳を忘れていないことを示すために会盟を望みました。斉桓公の後を継いで覇者になろうとしている宋襄公が暴虐だったため、諸侯の反発も大きかったようです。
冬、魯・陳・蔡・楚・鄭・斉が斉の地で盟し、斉桓公時代の友好関係を修復しました。宋は参加しませんでした。
 
[] 梁伯は土功(建設)を好み、度々城を建てましたが民を遷しませんでした。
民衆は度重なる築城に疲弊して「もうすぐ寇(敵)が攻めて来る」と噂するようになります。
梁伯の宮殿に堀を造った時、ある人が叫びました「秦が襲いに来た!」
梁の民は恐れて逃げ出し、秦は混乱に乗じて梁を滅ぼしました。
 
史記・秦本紀』は秦繆公(穆公)二十年(翌年)に梁国を滅ぼしたとしています。冬に攻撃を開始して、年が明けてから占領したのかもしれません。
但し同じ『史記』でも『晋世家』と『十二諸侯年表』は本年(晋穆公十九年・晋恵公十年)に梁国を滅ぼしたと書いています。
 
 
 
次回に続きます。