春秋時代55 東周襄王(十五) 盂の会 前640~639年

今回は東周襄王十三年からです。
 
襄王十三
640年 辛巳
 
[] 春、魯が南門を改築しました。南門は「稷門」といいましたが、釐公によって他の門よりも大きくなったため「高門」とよばれるようになりました。農時に影響を与えた工事でした。
 
[] 『春秋』によると夏、郜子が魯に来朝しました。
但し、郜の地は東周桓王七年713年)に魯が宋から奪いました(鄭が郜を占領して魯に譲りました)。つまり郜国は遅くとも七十年前以上前に滅んで宋の領土になっていたということになります。
「郜国は一度滅ぼされたが復国した」「郜国は南北二国あり、宋が領有していたのは南郜だった」といった諸説がありますが、詳細ははっきりしません(楊伯峻『春秋左伝注』参照)
 
[] 滑国が鄭に背いて衛に服しました。滑は姫姓で伯爵の国です。費に国都を置いたため、費滑ともいいます。
鄭の公子・士(文公の子)と大夫・洩堵寇が兵を率いて滑を攻めました。
 
[] 五月乙巳(二十三日)、魯の西宮で火災がありました。
 
[] 邢は前年、衛の攻撃を受け、その脅威にさらされていました。そこで斉・狄に援けを求めます。
秋、斉・狄・邢の三国が邢の地で盟を結びました。
翌年、邢と同盟した狄が衛を攻撃します。
 
[] 隨国が漢水東の諸侯を率いて楚に背きました。
冬、楚の穀於菟が兵を率いて隨を討ち、講和して還りました。
 
[] 宋襄公が諸侯を集めようとしました。それを聞いた魯の臧文仲が言いました「自分の欲を他者に従わせる(他者と同じ欲を持つ)のはいいだろう。しかし他者を自分の欲に従わせるのは、稀にしかできないことだ。」
 
[] この年、秦が芮国を滅ぼしました。
 
[] 『史記・周本紀』はこの年に「周襄王が出奔中の叔帯を周に呼び戻した」と書いていますが、『春秋左氏伝』は二年後(東周襄王十五年、前638年)のこととしています。後述します。
 
 
 
襄王十四年
639年 壬午
 
[] 春、狄が衛を侵しました。邢が衛の脅威を受けていたためです(前年参照)
 
[] 宋・斉・楚が鹿上(宋地)で会盟しました。
宋襄公は楚と関係が深い諸侯(斉桓公が死に覇者不在になったため、楚は二年前に魯・陳・蔡・鄭・斉の会盟に参加しました。これらの国において強国の楚は大きな影響力を持っていました)に宋の覇権を支持させるよう求めます。楚は同意しました。
宋の公子・目夷(子魚)が言いました「小国が盟を争ったら禍を招く。宋は滅ぶだろう。敗亡を遅くすることができれば、それだけでも幸いなことだ。」
 
[] 夏、魯を大旱が襲いました。
釐公は巫(雨乞いをする女巫)を焼こうとしました。雨乞いのために巫を焼くというのは古くからあった風習のようです。
臧文仲が諫めて言いました「旱の対策にはなりません。城郭を修築し(飢饉に乗じて攻撃してくる敵に備えるため)、飲食を節約し、農業に励み、施しを行うことこそ、今やるべきことです。巫に何ができるでしょう。天が巫を殺そうというのなら、始めから産み出していません。また、もしも巫の類に旱を起こす力があるのなら、焼き殺すことで被害を大きくするでしょう。」
釐公は諫言に従いました。
この年、魯は食糧難でしたが被害はありませんでした。
 
[] 秋、宋公(襄公)・楚子(成王)・陳侯(穆公)・蔡侯(荘公)・鄭伯(文公)・許男僖公)・曹伯(共公)が盂(宋地)で会しました。
子魚が言いました「禍はここにある。主君の欲は大きすぎる。堪えることができないだろう。」
 
史記・楚世家』は盂の会に臨む前の楚成王の言葉を書いています。
宋襄公が会盟を開こうとして楚を招くと、成王は怒ってこう言いました「わしを呼びだすつもりか。それならば友好を装って襲撃し、辱めてやろう。」
 
楚成王は盂の会に参加すると、宋襄公を捕えて宋を攻撃しました。
 
[] 任・宿・須句・顓臾は風姓の国で、太皥(太昊。伝説の帝王・伏羲氏。風姓の祖)と有済(済水)の祭祀を主管していました。諸夏(中原諸侯)に服しています。
この年、邾国が須句国を攻め、須句子は魯に奔りました。成風(魯釐公の母)が須句の産まれだったためです。
成風が釐公に言いました「明祀を尊び、寡弱を守ることが周礼です。蛮夷が諸夏を乱すのは周の禍です。須句に爵位を封じれば(復国させれば)太皥と済水の神を尊び、祭祀を修復して禍を軽くすることができます。」
冬、魯が邾を討ちました。翌年に続きます。
 
[] 楚が宜申を魯に送り、宋国から得た戦利品を献じました。
 
[] 十二月癸丑(初十日)、諸侯(楚・陳・蔡・鄭・許・曹)が薄(亳。宋地)で盟を結びました。盂の会には魯釐公は参加しませんでしたが、今回は参加しました。
この会で楚成王が宋襄公を釈放しました。
子魚が言いました「禍はまだ終わっていない。主君を懲らしめるには至っていない。」
 
『春秋公羊伝僖公二十一年)』は楚が宋襄公を捕えてから釈放するまでの経緯を詳しく書いています。
宋襄公は楚成王と「乗車の会」の約束をしました。武器を持たず礼服で行う会です。武装した会は「兵車の会」といいます。
公子・目夷が襄公を諫めて言いました「楚は夷の国です。武力に頼って強大ですが、義がありません。兵車の会として赴くべきです。」
しかし襄公はこう言いました「それはいけない。わしは乗車の会を約束したのだ。自ら約束したことを自ら破ってはならない。」
襄公は武装せず会(盂の会)に参加しました。しかし楚は兵車を隠しており、襄公を捕えて宋を攻撃しました。
襄公は捕えられる時、目夷にこう言いました「汝は国に帰って守れ。国はもともと汝のものだ(東周襄王元年、前652年参照)。わしは汝の言に従わなかったから、このようなことになってしまった。」
目夷が言いました「主君が国のことを敢えて言わなくても、国は元々臣(私)のものです。」
これは楚に襄公を殺させないために発した言葉です。
目夷は宋に帰って守備を固めました。
楚成王は宋の城下に迫ると宋人にこう伝えました「汝等が国を譲らなければ、わしは汝等の主を殺す。」
宋人が応えて言いました「我々は社稷の神霊のおかげで既に新しい国君を要することができた。」
楚成王は宋襄公を殺しても宋を領有することができず、益もないと判断して襄公を釈放しました。
襄公は目夷が宋の国君に立ったと思って衛に奔ります。目夷は襄公に「主君のために国を守ったのです。なぜ帰らないのですか」と伝えて襄公を迎え入れました。
 
この事件が原因で翌年、宋と楚が衝突します。
 
[] 『史記・周本紀』はこの年に鄭が滑国を攻撃し、それがきっかけで鄭と周が対立するようになったと書いています。しかし『春秋左氏伝』は三年後(東周襄王十七年、前636年)に書いています。後述します。
 
 
 
次回に続きます。