春秋時代56 東周襄王(十六) 泓水の戦い 前638年

今回は東周襄王十五年です。
 
襄王十五年
638年 癸未
 
[] 春、魯釐公が邾を攻めて須句を取り、須句の国君を帰らせました。
 
[] 三月、鄭文公が楚に入朝しました。
夏、宋公(襄公)が衛侯(文公)・許男・滕子と共に鄭を攻めました。鄭が楚に従っているためです。
子魚(目夷)が言いました「禍はここにある。」
 
[] 東周初期の大夫・辛有が伊川に行った時、髪を束ねないで祭祀を行う者がいました。髪を束ねないのは異民族の風習です。それを見て辛有が言いました「百年もせずにこの地は戎が住む地となるだろう。」
秋、秦と晋が陸渾の戎を伊川に遷しました。
 
[] 晋恵公の太子・圉は人質として秦にいました(東周襄王十年、前643年)
この頃、恵公が病に倒れました。それを知った太子・圉が言いました「梁は私の母の国だ子圉の母は梁伯の娘です)。しかし秦がそれを滅ぼしてしまったので(東周襄王十二年、前641年)、私には頼りとする勢力がない。私は兄弟が多い。国君(恵公)の百歳後(死後)、秦は梁国の母を持つ私を帰国させず、晋も私を軽んじて他の公子を国君に立てるだろう。」
太子・圉が嬴氏(嬴懐。妻)に言いました「汝と共に晋に還ろうと思う。」
嬴氏が言いました「あなたは晋の太子ですが、秦で人質になっています。帰るのは相応しくないでしょう。寡君(秦穆公)が婢子()をあなたにつかえさせ、巾や櫛を持たせているのは、あなたを安心させるためです。あなたに従って晋に帰ったら君命を捨てることになるので、従うわけにはいきません。しかしあなたが去るというのなら、そのことを公言もしません。」
太子・圉は晋に逃げ帰りました。
 
資治通鑑外紀』はここで亡命中の公子・重耳について書いていますが、重耳が晋に帰国するところでまとめて記述します。
 
[] 周の大夫・富辰が襄王に言いました「大叔(王子・帯。東周襄王五年、前648年に斉に奔りました)を呼び戻すべきです。『詩経』にはこうあります『隣の者と協力すれば、姻親が友好になる(協比其鄰,昬姻孔云)。』我が国の兄弟は協力していません。なぜ諸侯の不睦を責めることができるでしょう。」
進言に喜んだ襄王は王子・帯に帰国を命じ、王子・帯は京師に入りました。
この記述は『春秋左氏伝僖公二十二年)』を元にしています。史記・周本紀』は二年前のこととしています。
 
[] 魯が須句を復国させたため、邾が魯を攻撃しました。魯釐公は邾が小国のため備えを怠ります。
臧文仲が言いました「国の大小は重要ではないので、敵を軽視してはなりません。備えがなければ兵が多くても頼りにならないものです。『詩経』にはこうあります。『戦戦兢兢とすること、深淵に臨み、薄氷を踏むようだ(戦戦兢兢,如臨深淵,如履薄冰。『小雅・小旻』)。』また、こうもあります『何事も慎重に行動せよ。天は上にあって全てを照らす。天命を得るのは難しいことだ(敬之敬之,天惟顕思,命不易哉。『周頌・敬之』)。』先王の明徳があっても天命を得ることは難しく、恐れて慎重にしたものです。我々小国ならなおさらでしょう。邾が小さいといって軽視してはなりません。蠭(蜂)や蠆(さそり)のように小さな虫でも毒があります。一国が相手ならなお危険なことです。」
釐公は諫言を聞き入れませんでした。
 
八月丁未(初八日)、魯と邾が升陘(魯地)で戦いました。
その結果、油断した魯が大敗し、邾軍が釐公の冑を奪って魚門(邾の城門)に掲げました。
 
[] 夏から宋の鄭攻撃が続いていたため、楚が宋を攻めて鄭を援けました。
宋襄公が楚軍に応戦しようとすると、大司馬・固(公孫固。宋荘公の孫)が諫めて言いました「天が商を捨てて久しいのに(宋は商王朝の子孫の国です)、主君は復興させようとしています。これは天に背く赦されないことです。」
襄公は諫言を聞き入れませんでした。
 
冬十一月己巳朔、宋襄公が楚と泓水で戦いました。
宋軍が既に陣を構えた時、楚軍はまだ川を渡り終えていませんでした。多くの兵が川の上にいます。司馬が言いました「敵は数が多く、我が軍は少数です。敵が川を渡り終わる前に攻撃するべきです。」
この「司馬」が誰かははっきりしません。『春秋左氏伝僖公二十二年)』は上述の戦に反対した人物を大司馬・固(公孫固)としています。司馬が大司馬の簡称で同じ職を指すのだとしたら、ここで先制攻撃を進言したのも公孫固になります。しかし鄭には大司馬と司馬の二職があり、大司馬は公孫固を、司馬は子魚を指すとする説もあります。『春秋左氏伝』の「司馬」が誰を指すのかは、「司馬」を「大司馬と同じ」とみなすか、「大司馬とは異なる」とみなすかで変わってきます。
史記宋微子世家』は戦に反対したのも先制攻撃を主張したのも子魚(目夷)の言としています。
『春秋公羊伝僖公二十二年)』は先制攻撃を「司馬」ではなく「有司」の進言としています。「有司」は役人・官員という意味で、名は残されていません。
『春秋穀梁伝僖公二十二年)』には「司馬・子反」という人物が登場し、『春秋穀梁伝注疏』は「子反は恐らく子夷(目夷)」と注釈しています。「夷」と「反」が似ているため、書き間違えたという解釈です。
以下の内容は『春秋左氏伝』の記述を元にします。
 
司馬が川を渡っている楚軍への攻撃を勧めましたが、襄公は「まだだめだ」と答えました。
暫くして楚軍が川を渡り終えました。司馬が襄公に対して「敵が陣を構える前に攻撃するべきです」と進言しましたが、襄公はやはり「まだだめだ」と言いました。
楚軍が布陣を終えてから宋軍はやっと攻撃を開始しましたが、大軍にまともにぶつかって勝てるはずがありません。襄公は股を負傷し、門官は全滅します。
「門官」にも諸説があります。一つ目は「国君が国にいる時は宮門を守り、国外に出たら国君に仕える官」という説。二つ目は「軍の帥(指揮官)」という説。三つ目は「別名を門子といい、卿大夫の子弟を指す」という説です。
 
大敗した襄公を宋人が非難しました。しかし襄公はこう言いました「君子は重ねて相手を傷つけず(不重傷)、老人を捕えない(不禽二毛)ものだ。古の戦いでは険隘な地形を利用しなかった。寡人(私)は亡国商王朝の余りだが、列を成さない敵を相手に戦鼓を敲くことはできない(攻めることはできない)。」
それを聞いて子魚が言いました「国君は戦争を知らない。強大な敵が険隘な地で列を成さないのは、天が我々を助けようとしたからだ。敵が進軍を阻まれている時、戦鼓を敲いて悪いはずがない。強大な敵が相手なら、有利な地形を利用してもなお慎重にならなければならないものだ。そもそも、強大な者は全て我々の敵ではないか。たとえ胡耇(老人)でも捕えたら逃がしてはならず、二毛にこだわることはない。国が辱められていることを兵に教えて敵国と戦わせるのは、敵兵を殺すためではないか。負傷させてもまだ死んでいなければ、重ねて討つべきだ。重ねて傷つけてはならないのなら、始めから傷つけなければいい。敵の二毛(老人)を愛すのなら、戦わずに服従すればいい。三軍は利があるから用いるのだ。金鼓は士気を奮わせるために敲くのだ。利があるのなら、阻隘な地形を利用しても問題ない。声を盛んにして士気を高め、整っていない敵を討つことは間違いではない。」

以上は『春秋左氏伝公二十二年)』の記述です。『史記・宋微子世家』は子魚の言葉をこう書いています「兵(戦)とは勝利をとするものだ。空論を口にする必要はない。もしもが正しいのなら、奴事(奴隷として仕えること)すればいいではないか。なぜ敢えて戦う必要があるのだ。」

宋襄公の敗戦は「宋襄の仁」という成語を生みました。必要ない情けをかけて失敗することの例えです。
但し襄公に対する評価は様々です。『史記・宋微子世家』には、中国(中原)の礼が廃れたため、一部の君子(知識階級)は襄公の行為を「礼譲(礼によって譲ること)」と称賛している、と書かれています。
また、史記・十二諸侯年表』の「索隠」には「五覇者、斉桓公、晋文公、秦穆公、宋襄公、楚荘王也」とあり、宋襄公が春秋五覇の一人に数えられています。宋襄公は実際には覇者になっていませんが、その仁義が認められて五覇の一人に入ることもあります。
 
『中国歴代戦争史』を元に作った泓水の戦いの地図です。
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[] 丙子(初八日)の朝、鄭文公の夫人・(楚人)と姜氏(斉人)が柯沢(鄭地)で楚成王を慰労しました。
成王は師縉(恐らく楽師)を使って宋軍の捕虜と馘(古代の戦争では殺した敵兵の左耳を切りとって戦功の証拠としました。これを馘といいます)を二人に見せました。
君子がこれを非難して言いました「非礼だ。婦人は門(宮室の戸)から出てはならず、兄弟に会うにも閾(門)を越えてはならず、厳粛な戦の時には女が使う物すら近づけてはならないものだ(婦人が陣内にはいるなどもっての外である)。」
 
丁丑(初九日)、楚成王が鄭都に入ってもてなしをうけました。鄭文公は楚成王に九献(主人と賓客が交互に酒を九回勧めること。国君間の礼)し、庭に百件の礼物を並べ、更に籩・豆(祭祀で用いる器)六品を贈りました。
宴が終わり夜になって成王が退席しました。文羋が陣まで送ります。成王は鄭の二姫(鄭の二人の女性。姫は鄭の姓)を連れて帰りました。
叔詹(または「叔瞻」)が言いました「楚王は終わりを全うできない。礼を行いながら終わったら男女の別がなくなった。男女の別がなければ礼とはいえない。良い終わり方ができるはずがない。」
鄭における行為を知った諸侯は楚成王が霸を称えることはできないと知りました(『春秋左氏伝』は叔詹の言の後に「諸侯が楚成王は覇を称えることができないと知った」と書いていますが、『史記・宋微子世家』は叔瞻の言の最後に「ここから成王が覇を称えることができないとわかった」と加えています)

[] 『史記・宋微子世家』によると、この年、晋の公子重耳に来ました。
襄公に敗れて負傷してばかりで、晋の援けを必要としたため、重耳馬二十乗を贈って厚遇しました。重耳の亡命に関しては別の場所でまとめて書きます。


 
次回に続きます。