春秋時代57 東周襄王(十七) 晋恵公の死 前637年(1)

今回から東周襄王十六年です。二回に分けます。
 
襄王十六年
637 甲申
 
[] 春、斉孝公が宋を攻め、緡(閔)を包囲しました。
宋が斉の盟(東周襄王十二年、641年)に参加しなかったことを討伐の理由とし、宋が楚に大敗(前年)した混乱を狙って攻撃しました。
 
[] 夏五月庚寅(二十五日)、宋襄公が在位十四年で死にました。前年の泓の戦いで負った怪我が原因です。
子の王臣が継ぎました。これを成公といいます。
 
[] 秋、楚の成得臣(字は子玉)が陳を攻めました。陳が宋と通じたことが原因です。
楚軍は焦と夷の二邑を占領し、頓(姫姓の国)に城を築いて兵を還しました。
 
楚の令尹・子文は成得臣の功績を称えて令尹の職を譲りました。
叔伯(大夫・蔿呂臣)が反対して「あなたは国をどうするつもりですか」と言うと、子文はこう言いました「わしは靖国(国を安定させる)のためにこうするのだ。大功を立てたのに高い位に就かないようでは、国を安定させることができない(優秀な人材が高位に就いて国を治めなければならない)。」
成得臣が令尹になりました。
 
[] 九月(恐らく晋が使っていた夏暦の九月。周暦では冬十一月)、晋の恵公が在位十四年で死に、太子・圉が即位しました。これを懐公といいます。
 
懐公は諸臣が国外に亡命した公子(重耳)に従うことを禁じ、期日内に帰国しなければ罰することにしました。

史記・晋世家』にこう書かれています。
子圉(懐公)が秦から逃走したため(前年)は怒って公子重耳を招き、晋に帰らせる機会を伺いました。子圉は即位してから、が重耳を擁して討伐してくることを畏れたため、重耳に従って亡命している者に帰国を命じました

以下、『春秋左氏伝』の記述です。
狐突の子・狐毛と狐偃は重耳に従って秦にいましたが、帰国しませんでした。
冬、懐公が狐突を捕えて言いました「汝の子が帰ってきたら釈放しよう。」
狐突が言いました「子が官に就いたら父は忠を教える。これは古からの決まりです。すでに策名・委贄したのなら(策に名を書き主人に礼物を贈ったのなら。「策」は名刺で、臣下が主君に仕える時に提出しました。これを「策名」といいます。「委質」は「置質」ともいい、「質」は「贄」、つまり礼物を指します。臣下が主君に仕える時は、まず「贄」を贈って忠誠を示しました。これを「委質」といいます。委質をしたら主君のために死ぬことが古代の礼とされていました)、二心を抱かせるべきではありません。今、臣の子は名を重耳の傍に留めて数年が経ちます。もしも呼び戻したら二心を抱かせることになります。父が子に二心を教えて、主君に仕えることができるでしょうか。また、刑が妄りに行われないのは主君の明であり、臣の願いでもあります。淫刑(乱刑)が盛んに用いられるようになったら、誰が無罪でいられるでしょう。臣は主君の命を聞くだけです。」
懐公は狐突を殺しました。
 
卜偃は病と称して出仕せず、こう言いました「『周書尚書・康誥)』にこうある『国君が大明であれば臣民が服す(乃大明,服)。』国君自身が不明でありながら殺人を盛んに行うようでは、禍難が訪れないはずがない。民は徳を見ることができず、殺戮だけを聞くことになる。子孫は存続できないだろう。」
 
[] 冬十一月、杞成公が在位十八年で死にました。
杞国は恐らく侯爵の国ですが、『春秋』は「杞成公」を「杞子」と書いています。『春秋左氏伝僖公二十三年)』の解説によると、「子」と書かれているのは、杞国が夷の礼を用いていたからです(東周襄王二十年、前633年に書きます)
また、孔子が編纂した『春秋』は諸侯の国君が死ぬとその名を記録するものでした。例えば本年五月の宋襄公の死は、『春秋』には「宋公茲父卒」と書かれています。「茲父」は「茲甫」とも書き、宋襄公の名です。「卒」は「死ぬ」という意味です。
杞成公の名が書かれていないのは、杞国が魯の同盟国ではなく、しかも杞国から届いた訃告に国君の名が書かれていなかったためです。同盟国の主君が死んだ場合は訃告に名が書かれていなくても国君の名が記録され、同盟国ではない場合は、訃告に名が書かれていれば記録し、書かれていなければ記録しないというきまりがありました。
 
成公の弟・姑容が立ちました。これを桓公といいます。
尚、『史記・陳杞世家』をみると「共公が死んで子の徳公(または「恵公」)が継ぎ、徳公が死んで弟の桓公・姑容が即位した」とあります。しかし、徳公(恵公)の死後は子の成公が即位したので(東周恵王二十二年、655年)、成公が抜けている『史記』の記述は誤りで、正しくは「徳公(恵公)が死んで子の成公が継ぎ、成公が死んで弟桓公が継いだ」となります。桓公は徳公の弟ではなく成公の弟(徳公の子)です。
 
[] 『史記・周本紀』はこの年、周襄王が翟と共に鄭を攻め、翟君の娘を娶って王后に立てたとしています。しかし『春秋左氏伝』は翌年に書いているので、私の通史も翌年に詳述します。
 
 
 
次回に続きます。