春秋時代59 東周襄王(十九) 晋文公即位 前636年(1)

今回から東周襄王十七年です。四回に分けます。
 
襄王十七年 叔帯元年
636年 乙酉
 
[] 春正月、秦穆公が重耳を晋に送りました。
韓非子・十過』によると、穆公は革車(兵車)五十乗、畴騎(精鋭騎兵)二千、歩卒五万を動員して重耳を護衛したそうです。
 
重耳が黄河に至った時、狐偃が重耳に璧玉を返して言いました「臣は公子を縛って天下を巡行させました。臣の罪は大きなものです。臣もそれを知っているのですから、主君はなおさらでしょう。ここで去らせてください。」
重耳が言いました「舅氏(狐偃)と同心であることを河に誓おう。」
重耳は璧玉を黄河に沈めて証としました。
 
これは『春秋左氏伝僖公二十四年)』の記述です。この出来事を『韓非子・外儲説左上』と『説苑・復恩』が少し詳しく書いています。以下、『韓非子』と『説苑』の内容を合わせて紹介します。
 
重耳が黄河に至ると、流亡中に使っていた食器や睡具等を全て棄てさせ、顔が日に焼けて黒くなっている者や手足に胼胝(たこ)がある者を後ろに退かせました。流亡中のことを思い出したくないからです。
夜、このことを聞いた咎犯(狐偃)が泣きました。
重耳が咎犯に問いました「わしは十九年も流亡して今やっと国に帰ることができる。しかし夫子(男に対する尊称)は喜ばずに泣いている。何故だ。わしが帰国することが嬉しくないのか?」
咎犯が答えました「食器は食事をするためにあり、睡具は寝るためにあります。どちらも生活に必要なのに、主公はそれを棄ててしまいました。顔が黒く手足に胼胝があるのは、労苦によって功績があるからです。しかし主公は彼等を後ろに退けました。国君が士を避けたら忠臣を得ることができず、大夫が游(共に遊んだ友)を避けたら忠友を得ることができないといいます。今、主公は国に帰ることになりましたが、大切なものを棄てています。臣はこれが悲しくて泣いたのです。また、流亡中の臣は帰国するために主公を騙すこともありました(重耳を酔わせて斉を去ったこと等)臣自身がそれを悪だと思っています。主公においてはなおさら臣を憎んでいることでしょう。」
咎犯が拝礼して去ろうとしました。
重耳が言いました「こういう諺がある『社(土地神の社)を建てる者は衣服を振り払って社を建て、礼服・礼冠を身につけて社を祀る(築社者撅而置之,端冕而祀之)。』汝はわしのために国を取った。しかしわしと共にそれを治めないというのなら、共に社を築きながら祀らないのと同じではないか。禍福利害を咎氏と共にすることを白水(河水)に誓おう。」
重耳は璧を黄河に沈めて誓いを立てました。
『春秋左氏伝』『国語・晋語四』『史記・晋世家』『説苑』は重耳が誓いのために璧玉を黄河に沈めたとしていますが(『史記』の記述は『春秋左氏伝』とほぼ同じです。『国語』の内容は別の場所で書きます)、『韓非子』では「左驂(馬車の左の馬)を解いて誓いの犠牲に使ったと書いています。
 
重耳と狐偃の誓いを見ていた介子推が不満を持ちました。『史記・晋世家』からです。
介子推が船中で笑って言いました「天が公子の道を開いたというのに、子犯(狐偃)は帰国を自分の功績と考えて主君に誓わせた。このような行為は恥とするべきだ。彼と同列でいるつもりはない。」
介子推は狐偃達を待たず、隠れて黄河を渡りました。
 
河曲から黄河を渡った重耳(秦軍)は令狐を包囲し、桑泉に入り、臼衰を取りました。三邑とも重耳に降ります。
晋懐公は恐れて高梁に奔りました。
 
二月甲午(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の二月は甲子の日がないようです。晋は夏暦をつかっており、周暦とはずれがあるため、月日に混乱がある可能性があります。但し、甲子の日があるのは正月か三月なので、夏暦と二カ月のずれがある周暦とも合いません。月日に疑問がありますが、『春秋左氏伝』の記述をそのまま用います)、晋懐公が派遣した晋師が廬柳に駐軍しました。
この時、晋軍を率いたのは、『国語・晋語四』では「呂甥と冀芮(郤芮)」、『竹書紀年(古本・今本)』では「狐毛と先軫」となっています。しかし狐毛は既に重耳に従っていたはずなので、『竹書紀年』は恐らく誤りです。
 
秦穆公は公子・縶を晋陣に送って利害を説きました。晋師は撤退して郇に駐軍します。
辛丑(上述の「甲子」と同じく、夏暦、周暦とも合いません。以下同じです)、狐偃と秦・晋の大夫が郇で盟しました。晋軍が重耳の受け入れを承諾します。
壬寅、重耳が晋軍の陣に入りました。
甲辰、秦穆公が秦に帰りました。
丙午、重耳一行が曲沃に入りました。
丁未、重耳が晋都・絳に入り、武宮(武公の廟)を朝しました。歴代の曲沃主君の廟は、元々曲沃にありましたが、武公が晋侯になってから絳に遷したようです。武宮の参拝は献公以降の歴代晋侯が即位する時の儀式でした。武宮を朝した重耳が晋君に即位します。これを文公といいます。
 
重耳の亡命生活は十九年に及びます。『国語・晋語四』は重耳出奔の歳を十七歳としているので、即位した時は三十六歳になります。史記・晋世家』は重耳が四十三歳で出奔し、六十二歳で即位したと書いています。
もしも重耳が蒲に奔った時恵王二十二年、655年)、既に四十三歳だったとしたら、前年に秦穆公が娶った穆姫(重耳と申生の姉)は若くても四十五歳前後になってしまいます。恐らく『史記』の記述が誤りです(楊伯峻『春秋左伝注(僖公二十八年)』参照)
 
戊申、文公が人を送って高梁で懐公を殺しました。
 
呂甥と郤芮はやむなく重耳の帰国を受け入れましたが、本来は恵公・懐公の一派です。二人は禍を恐れ、公宮を焼いて文公を殺そうとしました。
二人の陰謀を知った寺人・披が文公に謁見を求めましたが、文公は寺人・披を譴責し、謁見を拒否してこう言いました「蒲城の役(東周恵王二十二年、前655年)の際、国君は汝に一晩でわしを襲うように命じたが、汝はすぐわしを襲った。その後、わしが狄君に従って渭浜で狩りをした時、汝は恵公のためにわしを殺そうとした。恵公は三宿三泊して四日後)でわしを殺すように命じたが、汝は中宿(二泊して三日後)でわしを襲った。君命があったとはいえ、なぜそれほど速かったのだ。あの時に斬られた袖はまだ持っている。汝は去れ。」
寺人・披が言いました「臣は主君が国に入り、国君としての道を理解したと思っていました。もしも理解できていないようなら、再び禍難が訪れるでしょう。君命を受けたら二心を抱かない、これは古の決まりです。主君が嫌悪する者を除く時は全力を尽くすものです。蒲人や狄人は私にとって関係ありません。今、主君が即位しても、同じように蒲人や狄人は私にとって関係ないことです。斉桓公は鉤を射られたことを忘れて管仲を相としました。主君が態度を改めないのなら、私は去るだけです。但し、去っていく者は更に増えるでしょう。刑臣(宦官)の私だけではありません。」
 
以上は『春秋左氏伝』の記述です。『史記・晋世家』では、勃鞮が文公にこう言いました「刀鋸の余(肉刑を受けた者。宦官)であり、二心をもって国に仕えることはできませんでした。を裏切らなかったから、主公のを得ることになったのです。主公が既に国に戻った以上、もありません。それに、管仲桓公を射ましたが、桓公管仲によって者になりました。刑余の(私)が大事を告げに来たのに、国君が会おうとしないのなら、が及ぶことになるでしょう。
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
文公は寺人・披を引見しました。そこで寺人・披は呂氏と郤氏の陰謀を伝えました。
 
三月、文公が王城(秦の地名)で秘かに秦穆公と会いました。
己丑晦、公宮で火災が起きます。しかし呂甥と郤芮は文公を見つけることができません。二人が黄河まで行くと、秦穆公が誘い入れて二人を殺しました。
 
文公は夫人・嬴氏(辰嬴)と共に秦から晋に帰りました(『史記・晋世家』では夏に秦から夫人を迎え入れたとしています)。秦穆公は紀綱の士(指揮能力がある優秀な衛士)三千人を文公に贈りました。
こうして文公の国君としての地位が安定しました。文公は晋の政治を改め、民に恩恵を施します。
晋の覇業が始まります。
 
重耳の帰国から即位にわたる経緯は『国語・晋語四』に詳しい記述があります。別の場所で紹介します(本編は『春秋左氏伝』を主な資料としました)

春秋時代 重耳の帰国(1)

春秋時代 重耳の帰国(2)

春秋時代 重耳の帰国(3)

春秋時代 重耳の帰国(4)

史記・晋世家』は『春秋左氏伝』や『国語』の内容をまとめて書いています。


 

次回に続きます。