春秋時代 重耳の帰国(1)

晋の公子・重耳が十九年の亡命生活を経て帰国し、国君の位に即きました。

春秋時代58 東周襄王(十八) 晋公子・重耳 前637年(2)

春秋時代59 東周襄王(十九) 晋文公即位 前636年(1)

 
本編では『春秋左氏伝(僖公二十四年)』の記述を主な資料として亡命中の様子を紹介しましたが、『国語・晋語四』には更に詳しい記述があります。
以下、『国語』から簡訳します。
 
東周襄王九年(前644年)、晋の公子・重耳は狄(翟)に亡命して十二年目になりました(東周恵王二十二年、655年参照)
韓原の戦い(前年。前645年)で秦に大敗した晋恵公は声望の高い重耳が国外にいることを脅威に感じ、暗殺を謀ります。そこで宦官・勃鞮(寺人・披)と壮士を狄に送りました
それを知った重耳は趙衰、狐偃等と相談しました。
狐偃(子犯)が言いました「我々がここに来たのは狄が安楽の地だからではなく、大事を成すためです。私はかつてこう言いました『狄の地は行きやすく、困窮した時に助けがあり、休整して時機を選ぶにふさわしく、居を定めるのに適しています。』しかし今、定住して既に久しくなります。定住が久しければ全てが停滞し、停滞したら堕落します。これでは大事を成すことができません。早くここを去るべきです。以前、斉や楚に行かなかったのはその地が遠かったからですが、今は一紀(十二年)の力を養ったので、遠くに行くことができます。斉侯(桓公)は老齢で、しかも最近、管仲が死んだため(前年)、讒言を述べる佞臣が周りを固め、策謀を正す者もいません。かつての盛時を懐かしみ、管仲による忠善の言を求め、終わりを良くしたいと願っていることでしょう。斉は近隣諸国との関係が安定しているので、遠方(晋等)との友好を考えているはずです。われわれ遠方の者が斉に入ったら、必ず厚遇します。斉侯が季年(老年。晩年)に入った今こそ、彼に近づく好機です。」
重耳始め皆が納得しました。
 
こうして重耳一行は狄を去り、衛国に入って五鹿(衛邑)を通りました。この時、重耳が野人(城外に住む民。農夫)に食糧を求めました。衛の国君(文公)は重耳を冷遇して食糧を提供しなかったようです。
野人は土の塊を重耳に与えました。怒った重耳は野人を鞭で打とうとしましたが、狐偃が言いました「これは天が下賜したものです。民が土を献上するのは服従を意味します。これ以上、何を求めるというのでしょうか。天が定めた事には必ず象(予兆)があります。十二年後にこの地を得ることができるでしょう。歳星が寿星と鶉尾に来た年(本年。前644年)、我々はこの地の土を手に入れました。天がその命を明らかにしたのです。再び歳星が寿星に至った時(十二年後。前632年)、必ず諸侯に擁戴されます。天の道は十二年で一巡するからです。天の命はこの塊から始まったので、この地を得るのは戊申の日でしょう。戊は土を象徴し、申は土地を拡大することを意味します(襄王二十一年、前632年の正月戊申、晋君となった重耳は衛を攻めて五鹿を占領し、同年、楚に大勝して覇者になります)。」
重耳は再拝稽首して土の塊を受け取ると、車に乗せて斉に向かいました。
 
斉に入った重耳を桓公は厚遇し、娘を嫁がせました。更に馬二十乗を与えます。乗は馬車の単位で一乗は四頭の馬が牽くので、二十乗は八十頭の馬という意味です。
重耳は斉に定住しようと考え、こう言いました「民()は安楽のために生きるものだ。誰が他のことを考えるものか。」
 
しかし一年程で斉桓公が死に(東周襄王十年、前643年)、孝公が即位しました(襄王十一年、前642年)。諸侯が斉から離れていきます。
狐偃はこのまま斉にいたら晋に帰国できない判断しましたが、重耳が斉の生活に満足しており、帰国に反対することを心配しました。そこで共に出奔した者(趙衰等)を集めて桑の木の下で相談しました。この時、蚕妾(蚕を採る女官)が桑の木の上にいたため、狐偃等の話は全て聞かれてしまいました。
蚕妾は宮中に帰ると姜氏(斉姜。重耳の妻)に報告しました。しかし姜氏は蚕妾を殺し、重耳が斉から逃げようとしていることを隠しました。その上で重耳に言いました「従者はあなたを連れてこの国を去ろうとしています。それを知った者は私が除きました。あなたは従者の意見に従うべきです。躊躇してはなりません。躊躇したら天命を成すことができなくなります。『詩経大雅・大明)』にこうあります『上帝が汝に臨んだら、迷いを持ってはならない(上帝臨女,無貳爾心。』先王西周武王)は天命を知っていたので大事を成すことができました。迷ってはなりません。あなたは晋で難を受けてここに来ましたが、あなたが去ってから晋は安寧であったことがなく、民も安定した国君をもっていません。それでも天が晋を滅ぼさないのは、公子がいるからです。晋国を得るのはあなたしかいません。あなたは努力するべきです。上帝があなたに臨んだのですから、躊躇したら咎を受けます。」
しかし重耳はこう言いました「わしの心が動かされることはない。わしはここで死ぬ。」
姜氏が言いました「いけません。『周詩詩経・小雅・皇皇者華)』にはこうあります『多くの道行く人々が、自分の行いが充分ではないことを恐れている莘莘征夫,毎懐靡及)。』朝から夜まで忙しくしている人でも、自分がやっていることがまだ足りないと思って恐れているのです。身に任せて欲のままに安逸を守ろうとすることが正しいと思いますか。人は時の変化に応じて功を成すことを考えなければ、成功することはありません。日も月も止まることはありません。人が安逸を守り続けることができると思いますか。西方の書西周時代から残された書)にはこうあります『享楽と安逸に満足したら、大事を損なう(懐與安,実疚大事)。』『鄭詩詩経・鄭風・将仲子)』にはこうあります『仲子のことは愛おしく想います。しかし人の口は多く、恐ろしいものです(「仲可懐也,人之多言,亦可畏也」。これは鄭女が仲子という男を想いながら、周りの目を恐れて会えないことを歌っています。姜氏は重耳との夫婦としての愛情よりも、天下が重耳を必要としていることを大切にするべきだ、という意味でこの詩を引用しました)。』昔、管敬仲管仲がこう言いました『病のように天を恐れることができる者は、上等な臣民だ。享楽を想って欲に流される者は、下等な臣民だ。享楽を想った時に天を恐れることができる者は、中等の臣民だ。病のように天を恐れる者は、威信を築いて民を治めることができ、天を恐れることがない者は、刑罰を受けることになる。欲に従って流される者は、威信を築くことができず、民に疎まれる。だから下等なのだ。私管仲は上等でも下等でもなく、中等でいたい。『鄭詩』が描く姿に従おう(多くの人の言葉を恐れて慎重に生きよう、という意味です)。』大夫・管仲はこのようであったから斉国の政治を正して先君を補佐し、霸者にすることができました。あなたが管仲の教えを棄てたら(人々の意見を聞かず、天命に背いて欲に流されたら)、大事を成せなくなります。今、斉国の政治は混乱しています。そして晋の無道も久しくなります。従者(趙衰等)の謀は忠によるものであり、既に時機も来ました。公子が国に帰る日は近いはずです。あなたが国の主になったら百姓を救うことができます。逆に大事を放棄するようなら、あなたは人ではありません。混乱した斉に留まって時を失ってはなりません。従者の忠を棄ててはなりません。安逸という欲に従ってはなりません。あなたは速やかに行くべきです。晋が諸侯に封じられた時、歳星は大火星にいました。大火星は閼伯(陶唐氏の火正官)の星であり、商人商王朝の人々)の命運を象徴してきました(閼伯は商丘に住んで大火星を祀りました。大火星は『商星』、『閼伯之星』とよばれ、商王朝を代表する星とされました)。その商は三十一王に渡って国を治めました。そのため、瞽史(盲人の史官)はこう記録しました『唐叔(晋国の祖。唐叔虞)の世は商の数(三十一世)に等しい。』今の晋君はまだその半分にも至りません(唐叔から恵公まで十四世です)。晋は乱れていますがこのまま滅亡することはなく、乱は間もなく終息するはずです。公子の中で残っているのはあなただけなので、晋を得て安定させるのはあなたしかいません。なぜ安逸に満足するのですか。」
重耳は聞き入れませんでした
 
そこで姜氏は狐偃と謀り、重耳を酔わせて車に乗せ、その間に斉から出国させました。姜氏は斉に留まります。
重耳は酔いから醒めると、怒って戈を持ち、狐偃を追って言いました「もしも成功しなかったら(国君の地位を得ることができなかったら)、わしは舅氏(舅は母の兄弟の意味。狐偃は重耳の母・狐姫の兄弟です)を殺してその肉を食っても満足できないだろう。」
舅犯(狐偃。子犯)が言いました「もし成功しなかったら我々はどこで死ぬかわかりません。誰が豺狼と肉を争うのですか。また、もしも成功したら、公子は晋の美食を全て手に入れることができます。私の生臭くてまずい肉を食べる必要はないでしょう。」
重耳は狐偃を連れて旅を続けることにしました。
 
『国語・晋語四』によると、斉を出た重耳一行は衛を通りました(重耳が衛を通ったのは斉に行く前のことで、斉を出てからは直接、曹に入ったと思われます。本編に書きました)
当時、衛文公は邢と狄の攻撃を受けており(恐らく菟圃の役を指します。東周襄王十一年、前642年参照)、重耳を厚遇することができませんでした。
衛文公が重耳を疎かにする様子を見て、正卿・荘子甯速)が文公に言いました「礼とは国の紀(綱紀)であり、親(親しむこと)とは民を結ぶものであり、善とは徳を建てるものです。国に綱紀がなければ良い結果がなく、民が結でなければ(団結できなければ)固まることができず、徳を建てなければ大事を成すことはできません。この三者は慎んで行うべきです。晋公子は善人(賢人)であり、衛の親族です。親族に対して礼を用いないというのは、三徳(紀・親・善)を棄てたことになります。康叔(衛国の祖)は文王の昭(子)であり、唐叔は武王の穆(子)にあたります。周の大功は武王によって成し遂げられたので、天祚(天の保護)は武族(武王の子孫)に与えられます。姫姓が周室を保つことができるのなら、天から与えられた財富を守るのは必ず武族です。武族の中では晋だけが栄えており、晋の子孫の中で、公子(重耳)には徳があります。今、晋国内には道がありません。天は徳がある者を守ります。晋の祭祀を受け継ぐことができるのは公子でしょう。公子が帰国して徳を修め、その民を鎮撫したら、諸侯を得て覇者になります。その時、晋は無礼な国を討伐します。主君が早く対応を考えなければ、衛は晋に討伐されるでしょう。小人(私)はそれを恐れるので、こうして意を尽くして進言いたします。」
文公は聞き入れませんでした



次回に続きます。