春秋時代 重耳の帰国(2)

晋の公子・重耳の亡命生活を書いています。『国語・晋語四』を元にしています。
 
重耳一行が衛から曹に移りましたが、曹共公も礼を用いませんでした。
曹共公は重耳が骿脅(胼脅。肋骨が繋がっている異相)だと聞いていたため、その様子を見てみたいと思いました。そこで重耳を客舍に留め、重耳が沐浴する時に薄い帳を設けて覗き見ました。
大夫・僖負羈の妻が僖負羈に言いました「晋の公子は賢人だと聞いています。また、従者は皆、一国の相になることができる人材です。公子は必ず晋国を得ます。晋国を得たら無礼を討伐するはずです。曹国はその筆頭になってしまうでしょう。あなたは主君と異なる態度を示すべきです。」
僖負羈は食物を重耳に贈り、その中に璧玉を入れました。重耳は食物だけ受け取り、璧玉は返しました。
 
僖負羈が曹共公に言いました「晋の公子が我が国にいますが、一国の主が訪問してきたことに匹敵します。なぜ礼遇しないのですか。」
共公が言いました「諸侯には亡公子(亡命した公子)が大勢おり、誰もがここを通る。亡者(亡命者)に礼を用いる必要はない。なぜいちいち厚く遇しなければならないのだ。」
僖負羈が言いました「親族を愛して賢人を尊重するのは政治の幹(主幹)であり、礼によって賓客を遇し困窮した者を助けるのは礼の宗(根本)であるといいます。礼によって政治を正すのは国の常道です。常道を失ったら国は成り立ちません。これは国の主となる者なら知っていて当然のことです。国君は個人的な親しみを大切にせず、国と親しくするものです。先君の叔振(曹国の祖)は文王から出て(曹叔振は文王の子です)、晋祖・唐叔は武王から出ました(唐叔虞は武王の子です)。文王と武王の功績は諸姫(姫姓諸侯)によって立てられたものです。だから二王の子孫は代々親しみを棄ててはならないのです。しかし今、主公はこの教えを棄てて親族を愛そうとしません。晋公子は産まれて十七年で亡命し、本来、卿になる才能がある者が三人狐偃・趙衰・賈佗)も従っています。これは公子が賢人だからです。しかし主公は公子を亡者だからといって軽視しています。これでは賢人を尊重していないことになります。晋公子の亡命に同情し、賓客として礼を用いるべきです。二者(親族を愛すことと賢人を尊重すること)を失ったら、賓客を礼遇せず、困窮した者を憐れまないことになります。天が与えた財富を擁する者(国の主)は、義によって財富を施しに用いるべきです。義に背いて施しを行わなかったら、逆に財富を損なうことになります。玉帛も酒食も糞土のようなものです。糞土を愛して三常(政治の幹、礼の宗、国の常)を棄てたら、国君の地位を失って全ての財富を失うことになるでしょう。国に大きな問題(三常を棄てたこと)があるのにそれを国難とみなさないのは誤りです。主公は考えを改めるべきです。」
共公は聞き入れませんでした。
 
重耳一行は宋に行きました。
重耳は宋の司馬・公孫固(宋荘公の孫。大司馬)と仲が良かったため、公孫固が宋襄公に言いました「晋公子は若い頃に亡命して既に十数年が経ちましたが、善事を愛して厭うことなく、父につかえるように狐偃に仕え、師につかえるように趙衰に仕え、年長者につかえるように賈佗に仕えています。狐偃は公子の舅(母の兄弟)であり、恵(仁慈)にして有謀(策謀が多い)です。趙衰は先君(晋献公)の戎御(戦車の御者)・趙夙の弟で、文(文才に恵まれ)にして忠貞です。賈佗は公族(狐偃の子・狐射姑。太師・賈季。賈は食邑で字が季佗)で、多(見識が多い)かつ恭敬です。この三人が公子の左右におり、しかも公子は甘んじてその下にいます。公子は何かあれば三人に意見を求め、若い頃から今まで恭しい態度をくずしていません。これは礼というものです。礼を建てることができる者には報いがあります。『商頌詩経・商頌・長発)』にはこうあります『成湯商王朝の初代王)が下の者に対して怠ることがなかったため、聖賢を尊重する気風は日々向上した(湯降不遅,聖敬日躋)。』下の者を尊重するのは礼です。主公は晋公子の遇し方をよく考えるべきです。」
襄公はこれに従い、重耳を礼遇して馬二十乗(八十頭)を贈りました。
 
重耳が鄭に行きました。鄭文公も礼を用いようとしません。
大夫・叔詹が諫めて言いました「天と親しくして前訓(先人の教訓)を守り、兄弟を礼遇して窮困を援ければ、天の福を得ることができるといいます。今、晋公子は三祚(三つの天意)を持っています。同姓不婚は子孫繁栄のために作られた決まりです。しかし狐氏は唐叔の子孫であり(狐氏は重耳の母の家で、晋の祖・唐叔の子孫ですが犬戎に住んでいました)、狐姫(重耳の母)は伯行(狐突)の娘です。重耳はその狐姫から産まれました(狐姫も晋公族も唐叔の子孫で姫姓です。同姓不婚の決まりを破ったことになります)。しかし重耳は成人して才を持ち、禍を避けて亡命していますが行いは道に適っており、長く困窮にありながら誤りがありません(同姓不婚の決まりを破ったのに立派に成長して賢人になりました)。これが一つ目です。公子は九人兄弟でしたが、重耳だけが健在です。禍患を避けて外にいる今、晋国は安定していません(晋が安定しないのは重耳が帰国するのを待っているからです。晋は重耳を必要としています)。これが二つ目です。晋侯(恵公)は日々怨を招いて内外に見捨てられています。逆に重耳は日々徳を積み、しかも狐偃、趙衰の謀があります。これが三つめです。『周頌詩経・周頌・天作)』にはこうあります『天が高山(岐山)を造り、大王(太王。古公亶父)が大きく発展させた(天作高山,大王荒之)。』天が造った物を発展させるのは、天と親しくするということです。晋と鄭は兄弟です。我々の先君である武公は晋文侯と協力し、周室の股肱として平王を援けました。平王はその徳を労して盟書を作り、こう命じました『子孫代々助け合わなければならない(世相起也)。』天と親しくすれば三祚を得ることができます。これは天の意志を発展させることになります。文侯の功と武公の業は大切な前訓(二国が協力して大事を成したという教訓)です。晋と鄭の関係は王(平王)の遺命によって兄弟ということができます。晋公子は若い頃から諸侯の間を亡命して窮困しています。この四者(天と親しむこと。先人の教訓。兄弟の関係。窮困を援けること)を棄てたら天禍を招きます。主公はよく考えるべきです。」
文公が聞き入れないため、叔詹が再び言いました「もしも礼を用いないのなら殺すべきです。諺にこうあります『黍稷が成長しなければ実はならない。黍が黍にならなければ繁茂せず、稷が稷にならなければ繁殖しない。黍の種を植えたら黍が生え、稷の種を植えたら稷が生える。それが実を結ぶかどうかは、徳が基本になる(「黍稷無成,不能為栄。黍不為黍,不能蕃廡。稷不為稷,不能蕃殖。所生不疑,唯徳之基。」黍は黍にしかならず、稷は稷にしかならないが、それが繁茂するか枯れてしまうかは育て方、育てる人の徳によって決まる。禍福も黍や稷と同じで、どのような徳を用いるかによって禍福が大きくもなるし小さくもなる。徳を用いず福を棄てるくらいなら、禍を避けるために除いた方がいい、という意味です)。』」
結局、文公は態度を改めませんでした。
 
重耳一行は楚に入りました。楚成王は周礼にもとづいて重耳を遇し、宴を開いて九献(酒宴の主と客が互いに酒を九回献上する礼。諸侯の礼)しました。宮庭に百の礼物が並べられます。重耳が辞退すると狐偃が言いました「天命を受け入れるべきです。亡命者の身でありながら国君の礼(九献)を進められ、対等な立場ではないのに百の礼物を並べられました。天の意志がなければできないことです。
重耳は楚成王のもてなしを受け入れました。
成王が重耳に聞きました「汝が晋国に帰ることができたら、どうやって我が国に報いるつもりだ。」
重耳は再拝稽首して言いました「貴君は美女も玉帛も全て擁しています。羽(孔雀等の羽毛)・旄(牛等の尾)・歯象牙・革(犀の皮)は貴君の地で生まれる物であり、晋国に及ぼされるのは楚で余った物です。何をもって報いることができるでしょう。」
成王が言いました「そうだとしても、不穀(私。王の自称)は汝が何によって報いるかを知りたい。」
重耳が言いました「楚君の霊(神。威霊)のおかげで晋国に帰ることができたら、晋と楚が兵を治めて(訓練して)中原で遭遇した時(中原で戦うことになった時)、楚君のために三舍(一舎は軍が一日に行軍する距離で三十里。三舎は九十里)を避けます(戦わずに九十里撤退します)。但し、もし楚君の撤兵の命を聞くことができなかったら、私は左手に鞭弭(鞭と弓)を持ち、右手に櫜鞬(弓矢を入れる袋)を持って楚君の相手をします。
令尹・子玉成得臣)が怒って言いました「晋公子を殺すべきです。殺さなければ晋国に帰ってから楚師の憂いになります。」
成王が言いました「その必要はない。楚師の憂いは我々自身が徳を修めないことから生まれる。我々が徳を修めないようなら、公子を殺しても意味はない。また、もしも天が楚を援けるのなら、誰も楚の憂いにはならない。逆に天が楚を援けないのなら、冀州(晋)の地に明君が現れるはずだ(重耳を殺しても他の賢人が晋の国君になるだろう)。晋公子は聡明で文才に恵まれ、困窮しても他者に媚びることがない。しかも三材(三人の優秀な人材)が公子に仕えている。これは天祚(天の保護。天命)というものだ。天が興隆させようとしている者を廃することは誰にもできない。」
子玉が言いました「それなら狐偃を人質にするべきです。」
成王が言いました「それもいけない。『曹詩詩経・曹風・候人)』にこうある『彼のような小人は、長く厚遇を受けることはできない(彼己之子,不遂其媾)。』これは小人の過ちを責める詩だ。間違っていることと知りながら小人のようにそれを行ったら、過ちを更に大きくする。過ちにならうのは非礼だ。」
 
ちょうどこの頃、人質として秦にいた晋の太子・圉が晋に逃げ帰りました。秦穆公は楚に使者を送って重耳を呼びよせます。楚成王は厚幣(厚い礼物)を準備して重耳を秦に送り出しました。



次回に続きます。 

春秋時代 重耳の帰国(3)