春秋時代 重耳の帰国(3)

重耳の亡命生活を書いています。
 
重耳が秦に入ると、秦穆公は五人の女性を重耳に娶らせました。晋の太子・圉の妻だった懐嬴もその一人です。
重耳が懐嬴に盥(たらい)を持たせて手を洗いました。新婦が盥を持って新郎に侍るのは婚姻の礼の一環です。
本来、手を洗い終えた新郎は新婦が準備した手巾を使うものですが、重耳は懐嬴を無視し、手を振って水をきりました。すると懐嬴が怒って言いました「秦と晋は同等の国です。なぜ私を軽視するのですか。」
重耳は秦の怒りを買うことを恐れ、上衣を脱いで自ら囚人の姿になって穆公の命を待ちました。
穆公が重耳に会って言いました「寡人(私)の適(嫡夫人。正妻)が産んだ娘の中で、これ(懐嬴)が最も賢才だった。だから子圉が人質として秦にいた時、嬪嬙(女官)とさせた(太子・圉の生活を助けさせた。妻妾にした)。公子(重耳)が彼女を娶ったら(重耳の弟・恵公の子である圉の妻だったため)悪名を得るかもしれない。しかしこうする以外に公子を優遇する方法もない。正式な婚姻の礼を用いなかったが(五女を共に嫁がせたことを指します)、汝に彼女を嫁がせたのは、わしが娘を愛しているからだ。公子が囚人としての辱めを受けることになったのは寡人の罪である。娘の進退に関しては公子の判断に任せよう。」
 
重耳は辞退しようとしましたが、季子(晋大夫・胥臣臼季。季子は字。重耳の帰国後、司空に任命されたため、司空・季子とよばれます)が言いました「同姓かつ同徳の者を本当の兄弟といいます。黄帝には二十五人の子がいましたが、同じ徳を持ったため同じ姓を与えられた者は二人しかいませんでした。黄帝の子で己姓を名乗った青陽金天氏・帝少皞)と夷鼓です。青陽は方雷氏西陵国)の甥黄帝は西陵の女・祖を娶って青陽を産みました。甥は姉妹の子という意味で、青陽は西陵国君の甥になります)で、夷鼓は彤魚氏の甥黄帝の次妃は彤魚国の娘で、夷鼓を産みました)です。同じく黄帝の子でありながら異姓になった者には、四人の母から産まれた十二姓がいます。黄帝は二十五宗(大宗・小宗合わせて二十五宗。二十五子の意味)があり、そのうち徳によって官を与えられ姓を得た者は十四人です。十四人の姓は十二種類になります。姫(二人)・酉・祁・己(上述の二人)・滕・箴・任・荀・僖・姞・儇・依です。青陽(前述の青陽とは別人の玄囂)と蒼林氏は黄帝と等しい徳をもったので黄帝の姫姓を継ぎました。徳を同じくするというのはこのように難しいものです(徳が同じでなければ同じ姓を持つことができず、黄帝の二十五人の子のうち、徳が同じで同姓だった者は、姫姓を継いだ玄囂と蒼林氏、および己姓を名乗った少皞と夷鼓しかいませんでした)。昔、少典は有蟜氏を娶って黄帝炎帝を産み、黄帝は姫水で成長し、炎帝は姜水で成長しました。二帝は成長して異なる徳を持ったので、黄帝は姫姓になり、炎帝は姜姓になり、師(軍)を用いて戦うことになりました。姓が異なれば徳も異なり、徳が異なれば類も異なります。類が異なれば近くにいても男女の結婚が許されます。これは民を産むためです。同姓なら同徳であり、同徳なら同心であり、同心なら同志(志向が同じ)です。同志ならたとえ遠くにいても、男女が婚姻してはなりません。同類の者をけがすことを恐れるからです。けがしたら怨みが生まれ、怨みは禍を招き、災は姓(性。人の本性)を滅ぼします。同姓との婚姻を避けるのは乱災を恐れるからです。だから徳が異なる者は姓を合わせ(結婚し)、徳が同じ者は義によって集まるのです。義によって集まれば利を導き、利は自分の姓を厚くし、姓と利が互いに持続すれば大事が成功して離散することなく、安定を保って土房(土地と住居)を守ることができます。今、公子と子圉は路上で出会った他人のような関係です(徳が異なります)。子圉が必要としなかったものを得て大事を成功させるのは、誤りではありません。
重耳が狐偃に聞くと、狐偃はこう答えました「その国を奪おうというのに、その妻を娶って何が悪いのですか。秦の命に従うべきです。」
重耳が趙衰子餘)に聞くと、趙衰はこう答えました「『礼志』(佚書)にこうあります『人に何かを請う時は、先に人の請いを受け入れるべきだ。人に愛してほしいのなら、先に人を愛するべきだ。人に従ってほしいのなら、先に人に従うべきだ。人に徳を施さないのに、人の徳を求めるのは罪である(将有請於人,必先有入焉。欲人之愛己也,必先愛人。欲人之従己也,必先従人。無徳於人,而求用於人,罪也)。』公子が秦との婚姻を受け入れて秦に従い、秦の好意を受け入れて秦と睦み合えば、秦から恩恵を受けることができます。公子は秦からの恩恵がないことを恐れるべきであり、婚姻を躊躇する必要はありません。」
重耳は懐嬴を妻にしました。
 
後日、秦穆公が重耳を宴に招きました。重耳が狐偃に従うよう命じましたが、狐偃はこう言いました「私の文才は趙衰に及びません。趙衰を従わせてください。」
重耳は趙衰と共に宴に参加します。
穆公は国君の礼で重耳をもてなしました。宴が終わると穆公が諸大夫に言いました「礼を用いながら良い終わりを迎えることができないのは恥である。内の感情と外貌が一致しないのも恥である。外見は華麗でも中身がないのも恥である。自分の力を顧みることなく施しを与えるのも恥である。施しを与えて成功しないのも恥である。以上五恥の門を閉じることができなければ国はなりたたない。逆に門を閉じることができれば、師(軍)を用いて勝てないはずがない。諸君はこの五恥に対して慎んで行動せよ。」
 
翌日も宴が開かれ、穆公が『采菽詩経・小雅)』を賦しました。「諸侯が来朝したら天子は何を下賜すればいいだろう。厚い賞賜はないが路車(天子や諸侯の車)と四頭の馬を与えよう(君子来朝,何賜予之,雖無予之,路車乗馬)」という天子が諸侯をもてなす内容です。
趙衰は重耳に席から下りて穆公を拝させました。穆公が拒否すると趙衰が言いました「貴君は天子の命によって重耳を遇しました(趙衰は詩の中の諸侯を重耳、天子もしくは天子の代弁者を秦穆公と解釈しました。穆公に厚く遇された重耳は天子に遇されて命を受けたことになります)。重耳が天子に対して礼を怠ることはありません。席を降りて拝するのは当然です。」
重耳は拝礼してから席に戻りました。
趙衰が重耳に『黍苗詩経・小雅)』を賦させました。「黍の苗がよく育つのは、雨がもたらす恵みのおかげ(芃芃黍苗,陰雨膏之)」という内容です。
趙衰が言いました「重耳が貴君を仰ぐのは、黍苗が雨を仰ぐのと同じです。貴君の庇護のおかげで苗が潤って嘉穀(立派な穀物に育ち、宗廟に献上することができたとしたら(帰国して宗廟を祀ることができたら)、全て貴君の力によるものです。貴君が先君(東周平王時代に西戎を討って封侯された秦襄公)の栄誉を発揚させて東の黄河を渡り、師(軍)を整えて周王室を復興させることができたとしたら、それは重耳が望むことです。重耳が貴君の徳を得て晋に帰り、宗廟を祀って晋民の主となり、その国を存続させることができるのなら、必ず貴君に従います。貴君が重耳を信任して用いれば、四方の諸侯がその命に従うでしょう。」
穆公が称賛して言いました「彼はやがて国を得ることができる。寡人一人によるものではない。」
穆公が『鳩飛』を賦すと、重耳は『河水』を賦しました。
『鳩飛』は『詩経小雅・小宛』の一部で「鳩が鳴いて空に飛ぶ。私は憂いて先人を想う。夜を通じて眠りにつけず、父母二人を懐かしむ(宛彼鳴鳩,翰飛戻天。我心憂傷,念昔先人。明発不寐,有懐二人)」という内容です。穆公は驪姫の乱に遭って亡命した重耳を同情し、晋の先君・献公との旧誼(秦穆公の妻は晋献公の娘です)を重んじて重耳を帰国させることを感慨してこの詩を詠みました。
『国語・晋語四』に出てくる『河水』という名の詩は『詩経』にありません。『詩経・小雅・沔水』の誤りであるといわれています。「河水は満ちて流れ、海に向かって行く(沔彼流水,朝宗于海)」という内容です。海は秦の比喩で、重耳が帰国したら河が海に流れるように秦に従うという意味です。
穆公が『六月詩経・小雅)』を賦しました。西周尹吉甫が宣王を補佐して北伐し、文王や武王の偉業を恢復させたことを称える詩です。「王命を受けて出征し、王国を正す(王于出征,以匡王国)。」「天子を助ける(以佐天子)。」「共に武を用いて王国を定める(共武之服,以定王国)」等の句があります。
趙衰は重耳に再び拝礼するように進言しました。重耳が席を降りると穆公が辞退します。趙衰が言いました「貴君は天子を補佐して王国を助ける使命を重耳に与えました(穆公が尹吉甫を称える詩を重耳に贈ったので、趙衰は重耳が尹吉甫のように周王を援けて功績を立てるという意味に解釈しました。周王を援けるのは覇者の任務であり、重耳が斉桓公を継いで覇者になることを暗示しています)。貴君の徳に対して怠ることはできません。拝礼は当然のことです。」
 
後日、重耳が筮で占い、「上の卦が出よ。晋国を得よう」と祈祷しました。
筮史(官名)が占いの結果を見て言いました「不吉です。」
しかし季子はこう言いました「吉です。」
不吉と言った筮史は『夏易』か『商易』を使い、季子は『周易』を使いました。占卜は易の解釈によって結論が変わることを物語っています。『国語・晋語四』は占いの内容を詳しく説明していますが、難しいので省略します。
季子は占いの結果を「利建侯」と読みました。封侯建国に利があるという意味で、占いを行った重耳が国君に立つと理解できます。


次回に続きます。

春秋時代 重耳の帰国(4)