春秋時代60 東周襄王(二十) 帰国後の文公 前636年(2)

今回は東周襄王十七年の続きです。
 
[] 以前、晋公子・重耳の財物は豎(未成年の侍臣)・頭須が管理していました。重耳が出奔した時、頭須は財物を隠して逃走しましたが、暫くして晋国に戻り、重耳が帰国できるように財物を使って画策しました。
文公が即位すると、頭須が謁見を求めました。しかし文公は沐浴を理由に拒否します。頭須が僕人(謁者)に言いました「沐浴で頭を洗う時は頭を下にする。頭を下にすれば心が逆さになり、心が逆さになったら意志も反対になる。私が主公に会えないのは当然だろう。主公に従ったのは馬の縄を牽く僕であり、国内に残ったのは社稷を守る僕である。残った者に何の罪があるというのだ。国君になりながら匹夫を怨むようなら、主公を恐れる者は多いだろう(主公は人心を得ることができないだろう)。」
僕人がこれを文公に報告すると、文公はすぐに頭須を引見しました。
 
この内容は『春秋左氏伝僖公二十四年)』と『国語・晋語四』を元にしました。
 
『韓詩外伝(巻第十)』には少し異なる話が紹介されています。
重耳が亡命して曹に来た時、里鳧須頭須)が金銭物資を盗んで逃走しました。重耳は食糧がなくなり、飢えて動けなくなります。この時、介子推が自分の股の肉を割いて食料としたため、飢えをしのぐことができました。
重耳が帰国して即位した時、晋国内には文公に帰順しない者がまだ大勢いました。里鳧須が文公に謁見を求めて言いました「臣は晋国を安定させることができます。」
文公は人を送ってこう伝えました「汝はどの面目があって寡人(私)に会いに来たのだ!今更、晋を安定させたいというのか!」
里鳧須はこう言いました「主君は沐浴の最中でしょうか?」
使者が「違う」と答えると、里鳧須はこう言いました「沐浴をして頭を洗っている者は心が逆さになり、心が逆さになったら言う事も逆になるといいます。主君は沐浴中ではないのに、なぜ逆の事を言うのでしょう。」
使者がこれを文公に伝えると、文公は里鳧須を引見しました。里鳧須が文公を仰ぎ見て言いました「主公が国を離れて久しく、臣民の多くが主公と敵対する立場にいました。主公は帰国しましたが、臣民は恐れを抱いています。私も主公の財物を盗み、深山に隠れていました。そのため主公が飢えて介子推が股を割きましたが、天下でこれを知らない者はいません。臣の罪は最も大きく、刑が十族に及んでも足りません。しかし主公が私の罪を許して共に国内を巡遊すれば、それを見た百姓(国民)は主君が旧悪を憎むことがないと知って安心するでしょう。」
文公は喜んで里鳧須の言に従い、共に国中を巡遊しました。それを見た人々はこう言いました「里鳧須でも誅されず、主君と共に車に乗っている。我々が恐れることはない。」
この後、晋国の人心が大いに安定しました。
 
[] 晋文公の即位を知って狄(翟)が季隗(文公の妻)を晋に送りましたが、二人の子(伯儵・叔劉)は狄に留めるように請いました。
 
『列女伝・賢明』によると文公は斉で娶った姜氏(斉姜)も迎え入れて夫人に立てました。
 
明代に書かれた小説ですが、『東周列国志(第三十七回)』に文公と三夫人の再会の様子が描かれています。
翟君は文公が即位したと聞き、使者を送って祝賀しました。季隗が晋に入ります。
文公が季隗に歳を聞くと、季隗は「別れて八年が経ちます。今年三十二歳になります」と答えました。
文公は「幸い二十五年も経つことがなかった」と冗談を言いました。
斉孝公も晋に姜氏を送りました。
文公が「玉成之美(人を助けて成功させること。斉姜が重耳を斉から出させたため、重耳は即位できました)」を感謝すると、姜氏はこう言いました「妾(私)が夫婦の楽を貪らず、国を出るように勧めたのは、まさに今日のためです。」
文公は姜斉と翟姫(季隗)の賢徳を懐嬴(文嬴)に語りました。懐嬴は称賛してやまず、夫人の位を二人に譲りました。こうして宮中の地位が定まりました。斉姜が夫人になり、季隗が次、懐嬴が最期になります。
 
但し、文公夫人の実際の序列はよく分かっていません。東周襄王二十六年(前627年)に「文嬴」という女性が登場します。この「文嬴」が第一夫人といわれています。「嬴」とあるので秦の女性です。
襄王三十二年(前621年)には文公の後宮の序列が説明されます。二位は偪姞(文公を継ぐ襄公の母)、三位は季隗、四位は杜祁で、辰嬴(懐嬴)は九位となっています。斉姜には触れていませんが、恐らく五位です。秦からは五人の女性が嫁いだので、六位から八位も恐らく秦の女性です。
『東周列国志』は文公の妻妾を美談として描いていますが、史実とは異なるようです。
 
かつて晋文公(即位前のことです)が娘(趙姫。母は不明)を趙衰に嫁がせ、原同・屏括・樓嬰(趙同・趙括・趙嬰斉。原・屏・樓はそれぞれの食邑)が産まれました。趙姫は趙衰が狄で娶った叔隗と、叔隗が産んだ趙盾を晋に招くように勧めましたが、趙衰は拒否します。すると趙姫が言いました「新たに寵する者を得て旧を忘れるようでは、人を使うことができません。必ず迎え入れるべきです。」
趙姫が強く勧めたため、趙衰は同意しました。
趙盾が晋に来ると、趙姫はその才能を認めて嫡子に立てさせ、自分が産んだ三子を趙盾の下に置かせました。また、叔隗を趙衰の内子(正妻)とし、自らその下になりました。
 
[] 晋文公は亡命中に従った者を賞しました。以下、『説苑・復恩(巻第六)』の記述です。
陶叔狐も文公に従って帰国しましたが、三賞(三回の褒賞)が発表されても陶叔狐は入っていませんでした。陶叔狐が咎犯(狐偃)に言いました「私は主君の亡命に従って十三年におよび、顔は黒くなり、手足にも胼胝(たこ)ができました。今、主君は国に帰って三賞しましたが、私には及んでいません。主君は私を忘れたのではないでしょうか。もしくは私に大きな問題があるのでしょうか。あなたから私の言葉を伝えていただけないでしょうか。」
咎犯がこれを文公に話すと、文公は陶叔狐を招いてこう言いました「私が汝を忘れるはずがない。但し、高明で賢才を持ち、徳を行い全てが誠実で、わしを道に導き、わしに仁を語り、わしの行いから悪を除いて純潔にし、わしの名を昭明させ、わしを成人(立派な人物)にすることができる者を、わしは上賞とした。礼をもってわしの過ちを防ぎ、道理によってわしを諫め、わしを助けて非を招かず、わしを賢人の門に誘った者を次賞とした。勇敢な壮士や強壮な御者で、前に困難があれば前に進み、後ろに困難があれば後ろに留まり、わしを患難から免れさせた者を三賞とした。人のために自分の身を犠牲にして死ぬ者よりも、人の身を活かして存続させる者の方が優れており、人に従って亡命する者よりも、人を国と共に存続させる者の方が優れているという。三賞を行ってから労苦の士を賞する。労苦の士の中では汝が筆頭だ。わしがそれを忘れたことはない。」
周の内史・叔輿がこれを聞いて言いました「文公は霸を称えるだろう。昔の聖王は徳を優先して力を後にした。文公のやり方は理にかなっている。『詩経(商頌)』に『礼に順じて越えることがない(率履不越)』とあるが、まさにこのことだ。」

史記・晋世家』にもほぼ同じ話があります。
亡命に従った賎壺叔が言いました主公は三賞を行いましたが、まだに及びません。臣に罪があるのでしょうか。」
文公が答えました「仁義によって私を導き、徳恵によって私の過ちを防いできた者に上賞を与えた行動によって私を補佐し、事を成就させた者に次賞を与えた。矢石に臨み、汗馬の労を立ててきた者に三を与えた。力によって私に仕え、私が不足している事物を補ってきたには、次のを与える。三賞の後、(汝)に及ぶはずだ。」
は公正な論功行賞を聞いて皆喜びました

史記・魏世家』によると、帰国した晋文公は魏犨(魏武子魏氏万を祖にします)の祭祀を継がせ、大夫にしました。魏犨を治めます

[] 『資治通鑑外紀』はここで晋の大理(法の長官)・李離の故事を紹介しています。『説苑・節士』が元になっています。以下、『説苑』からです。
 
晋文公が帰国したばかりの頃、李離を大理に任命しました。
ある日、李離は誤った報告を聞いて無実の者を殺してしまいました。李離は自分を縛って言いました「臣の罪は死に当たります。」
文公が言いました「官には上下貴賎があり、罰には軽重がある。これは下吏(下級役人。部下)の罪だ。汝の罪ではない。」
李離が言いました「臣は官の長となってから、下の者に官位を譲ろうとしたことがなく、俸禄も多く受けながら、下の者と利を分けようとしませんでした。誤った報告を聞いて無辜の者を殺した時だけ、下に責任を押し付けて死を恐れるのは、義ではありません。臣の罪は死に値します。」
文公が言いました「汝に罪があるというのなら、汝を任命した寡人(私)にも過ちがあるのではないか。」
李離が言いました「主君は臣の能力を量って官を授け、臣は職を奉じて任務を行いました。臣が印綬を受けた日、主君はこう命じました『仁義によって政治を輔けよ。誤って生かすことがあっても(罪人を赦すことがあっても)、過失によって殺してはならない。』臣は命を受けながら全うできませんでした。これは主君の恩恵を損なうことです。臣の罪は死に値しますが、主君に何の過ちがあるというのでしょうか。法規には決まりがあり、過ちによって生かしたら自分も生き、過ちによって殺したら自分も死ぬものです。主君は臣が詳しく情報を聞いて決断できると信じたから臣を大理に任命しました。しかし今、臣は過酷になり、仁義を顧みることなく、文墨(文書)を信じて是非を審理することもなく、他者の言を聞いて事実を精査せず、無罪の者を刑に服させて百姓の怨みを買いました。天下がこれを聞いたら必ず我が君を非難し、諸侯がこれを聞いたら必ず我が国を軽視します。百姓の怨みを積もらせて天下に悪名を広め、諸侯に軽んじられるのは臣の罪です。死刑に処せられるべきです。」
文公が言いました「真直ぐすぎて曲がることができない者には大任を与えることができず、四角すぎて丸くなることができない者とは長く共存できない(直而不枉,不可与往(任)。方而不円,不可与長存)という。汝は寡人の言うことを聞け。」
李離が言いました「臣は自分の過失のせいで公法を害し、無罪の者を殺したのに生き永らえています。死刑に処されるべきです。この二つの罪を赦したら国の教えになりません。よって主君の命を聞くことはできません。」
文公が言いました「汝は管仲の臣下としての態度を知らないのか。管仲は自分の身を辱めることがあっても主君を満足させ、行動に問題があっても覇業を達成させた(身辱而君肆,行汚而霸成)。」
李離が言いました「臣は管仲の賢才がないのに辱汚の名を持ち、霸王の功もないのに射鉤の累(主君を傷つけること。管仲桓公の帯を矢で射た故事です)があります。官に臨むことはできません。主君は汚名によって人を治めようとしていますが、主君が臣に刑を下さなくても、臣は官を汚し政治を乱してまで生きようとは思いません。臣は命(天命)に従います。」
李離は自ら剣に伏して死にました。
 
 
 
次回に続きます。