春秋時代61 東周襄王(二十一) 鄭と周の対立 前636年(3)

今回も東周襄王十七年の続きです。
 
[] 周襄王が晋文公の即位を認めて太宰・文公(周王の卿士・王子虎)と内史・興叔興父)を派遣し、文公に国君としての命を下しました。晋は上卿が国境まで出迎え、文公自ら郊外で慰労し、宗廟に館を設け、九牢(牛・羊・馬各一頭が一牢)を献上しました。殿庭に大燭を点してもてなします。
吉日、武宮(武公廟)で文公が王命を受けました。献公の主(位牌)が置かれ、席を設けて太宰が儀式を進めます。献公の主を置いたのは恵公と懐公の跡を継いだのではないことを示すためです。文公は祭服を着て中に入り、太宰が王命を奉じて冕服(礼冠と礼服。諸侯の冠服)を文公に与えました。内史・興が文公を称揚します。文公は三回辞退してから冕服を受け取りました
儀式が終わると、王子・虎と内史・興をもてなして宴を開き、礼物を贈り、郊外まで見送りました。文公は天子の命を受けた諸侯としての礼を守り、終始、王室を尊重する態度をくずしませんでした。
 
史・興が周都に帰ってこう報告しました「晋との関係を悪化させてはなりません。晋の君は必ず霸者となります。王命を迎え入れる態度は恭敬で、行動は礼にかない義に則っています。王命を敬うのは順(秩序)の道(道理)であり、礼と義にかなうのは徳の則(基本)です。徳によって諸侯を導けば、諸侯は必ず帰順します。礼のあり方からその人物の忠・信・仁・義を知ることができます。忠は内心が偏ることなく、仁は行動に恩恵があり、信は裏切りを知らず、義は行いに節度を持たせます。忠が行き届けば平等になり、仁を行えば報われ、信を守れば堅固になり、義節があれば分別をわきまえることができます。平等なら怨みを買わず、報いがあれば困窮せず、信が固くなれば私心に動かされることなく、節度があれば離心することがなくなります。民が怨むことなく、窮乏もせず、私心に流されず、離心もしなければ、必ず大事を成功できます。内心が正直でそれを行動によって表現できるのは忠の表れです。三服(三回辞退してから受け入れること)は義の表れです。節を守って乱れないのは信の表れです。礼を行って過ちがないのは義の表れです。臣が晋にいた間、晋侯がこの四者忠・信・仁・義)を失うことはありませんでした。晋侯は礼を行うことができる人物です。王は晋侯との善い関係を保つべきです。礼を知る者を立てれば、必ず厚い報いを得ることができます。
襄王はこの進言に従いました。
この後、周から晋に絶え間なく使者が送られ、関係が強化されました。
 
[] 以前、滑国が鄭に背いて衛に附いたため、鄭軍が滑国を攻めました。この時は滑が鄭の命に従ったため鄭は兵を還しました(東王襄王十三年、前640年)
しかし後に滑国が再び衛に帰順したため、鄭の公子・士(鄭文公の子)と洩堵兪彌(恐らく襄王十三年に滑を攻めた洩堵寇と同一人物)が改めて滑を攻撃しました。
史記・周本紀』はこの事件を三年前のこととしていますが、ここでは『春秋左氏伝僖公二十四年)』の記述に従います。
また、『史記・鄭世家』は本年秋の事としていますが、恐らく鄭が滑を攻めたのは春か夏のことです。

周襄王は大夫の伯服(または「伯●」。●は左が「牛」、右は「葡」の「甫」が「用」になったもの)と游孫伯を鄭に送って滑国への攻撃を停止するように要求しました。
鄭文公はかつて周恵王が成周に帰った時、周王(恵王)が鄭厲公に爵を贈らなかったことを怨んでおり(東周恵王四年、前673年参照)、しかも今回は襄王が衛と滑をかばったため、怒って伯服と游孫伯を捕えました。
それを聞いた襄王も怒って狄(翟)と共に鄭を討つことにしました。大夫・富辰が襄王を諫めて言いました「いけません。大上(最も上にいる者)は徳によって全ての民を按撫し、次の地位にいる者はまず親しい者と親しくして、その関係を近くから遠くに及ぼすものです。昔、周公は二叔が終わりを全うできないことを嘆き(弟の管叔と蔡叔が謀反したことを指します。西周成王元年参照)、親戚を封建して周の藩屏としました(実際は西周武王の時代に封侯が始まりました)。管・蔡・郕・霍・魯・衛・毛・聃・郜・雍・曹・滕・畢・原・酆・郇の各国は文王の昭(子)です。邘・晋・応・韓は武王の穆(子)です。凡・蒋・邢・茅・胙・祭は周公の胤(後裔)です。召穆公は周の徳が衰えることを心配し、宗族を成周に集めて詩を作りました(『詩経・小雅・常棣』周公・旦が作ったともいわれています)。そこにはこうあります『常棣は花と弁が共に艶麗で美しく、今の人の親しみは兄弟に勝るものはない(常棣之華,鄂不韡韡,凡今之人,莫如兄弟)。』その第四章はこうです『兄弟は壁の中で争っても、外に出たら共に敵と戦う(兄弟鬩于牆,外禦其侮)。』このようであるからこそ兄弟の間に小さな怨みがあったとしても、素晴らしい親族を廃することはできないのです。今、天子は小さな怨みを忍ぶことができず、親族の鄭を捨てようとしていますが、その結果どうなるでしょう。勲功に報い、親族と親しくし、近い者を大切にし、賢人を尊ぶ、これは最も大きな徳です。聾昧に従い、頑(頑迷)に与し、嚚(奸詐)を用いる、これは最も大きな姦です。徳を棄てて姦を尊ぶ、これは最も大きな禍となります。平王によって東遷した時、周は晋と鄭の力に頼り、子頽の乱が起きた時は鄭が恵王を助けて王位を安定させました。鄭にはこうした勲功があり、しかも厲王と宣王に親しい血縁にあります(鄭の祖・桓公西周厲王の子で宣王の弟です)。また、鄭君は嬖寵(申侯と太子・華)を遠ざけて三良(叔詹・堵叔・師叔)を用いました。諸姫姓の諸侯の中でも王室に近い関係にあり(鄭の桓公・武公・荘公とも周王室に仕えました)、四徳を備えています。耳が五声を聞かないことを聾といい、目が五色を識別しないことを昧といい、心が徳義の経(教え)に則らないことを頑といい、口が忠信の言を述べないことを嚚といいます。狄はこれらに則っており、四姦を備えています。周に懿徳(美徳)があった時でも『兄弟に勝る者はない(莫如兄弟)』と言って封建しました。天下を懐柔する時には外敵を心配し、外敵に備えるには親しい者を用いるものです。だから親族が周の藩屏になったのであり、召穆公の言葉はこれを語っています。今、周の徳は既に衰えてしまいました。そのうえ更に周公と召公の教えを変えて諸姦に従おうというのですか。そもそも、兄弟間の対立に他人を巻き込むべきではありません。他人を巻き込んだら利が外に漏れてしまいます。内怨を暴露して外の者を利するのは不義です。親族を疎遠にして狄と往来するのは不祥です。怨みによって徳に報いるのは不仁です。義によって利が生まれ、祥によって神に仕え、仁によって民を保つものです。不義であれば利は厚くならず、不祥であれば福が降りず、不仁であれば民が集まりません。古の明王はこの三徳(義・祥・仁)を失わなかったので天下を広くし、百姓を安定させて、名声を残すことができました。王は三徳を棄ててはなりません。民が禍(子頽の乱と子帯の乱)を忘れていないのに、王はまた禍を起こして文王や武王の業を棄てるつもりですか。」
襄王は諫言を聞かず、大夫の頽叔と桃子に狄師を率いさせました。
 
夏、狄が鄭を攻めて櫟を奪いました。
 
 
 
次回に続きます。