春秋時代62 東周襄王(二十二) 周の内争 前636年(4)

今回で東周襄王十七年が終わります。
 
[] 周襄王は鄭攻撃に協力した狄(翟)に感謝し、狄君の娘を王后に迎え入れることにしました。
富辰が諫めて言いました「いけません。『恩恵を施す者は報いを求めて限りないのに、恩恵に報いる者はすぐ嫌になる(報者倦矣,施者未厭)』といいます。狄は元々貪欲なのに、王は彼等に貪婪の道を開いてしまいました(狄は報いを求めていろいろと要求してくるという意味です)。また、女の徳は極(準則)がなく、婦人の怨みは終りがありません。そもそも、婚姻とは禍福の階段です。婚姻によって内を利することができたら福ですが、外を利するようなら禍です。今、王は外を利そうとしていますが、禍の階段を登るようなものです。昔、摯と疇の二国は大任(太任)によって福を受け摯と疇は商王朝時代の任姓の国で、夏王朝の車正・奚仲および商王朝建国時の賢臣・仲虺の子孫です。太任は周の王季の妻で文王を産みました。摯国出身です)、杞と繒の二国は大姒(太姒)によって福を受け(杞と繒は夏王朝の後裔で姒姓の国です。太姒は杞・繒と同じ姒姓で、文王に嫁いで武王を産みました)、斉・許・申・呂は大姜(太姜)によって福を受け(この四国は全て姜姓で、四岳の子孫です。太姜は四国と同じ姜姓で、太王・亶父に嫁いで王季を産みました)陳は大姫によって福を受けました陳は帝舜の子孫の国で嬀姓です。大姫は武王の娘、成王の姉です。胡公に嫁いだため胡公は周によって陳に封じられました)。これらの国は婚姻によって内を利し、親族と親しんだから福を得ることができたのです。逆に鄢は仲任氏の娘を娶って滅び鄢は鄔とも書かれ、姓の国です。鄭武公に滅ぼされました<東周平王六年、765年参照>。仲任氏が鄢夫人になったことと滅亡に何の関係があるのかはわかりません)密須は伯姞によって滅び(密須は密国ともいい、姞姓の国です。密の康公が西周共王と涇水で遊んだ時、三人の女性が密国に出奔しました。康公が三人の女性を独占したため、共王は密を滅ぼしました<西周共王四年参照>。伯姞は三人の女性の一人かもしれません)、鄶は叔によって滅び鄶は姓の国で、鄭武公に滅ぼされました<東周平王元年、770年参照>。鄶君は同姓の叔鄶夫人にしました。『春秋公羊伝(桓公十一年)』に「鄭伯はまず鄶公と親しく接し、その夫人を通じて国を奪った」とあります)聃は鄭姫によって滅び(聃は周文王の子・聃季の国です。鄭姫は鄭の出身で、聃夫人になりました。聃も鄭も姫姓なので、同姓不婚の決まりをやぶっています。聃国は周桓王から恵王初年までの間に滅んだようですが、詳細は分かりません)、息は陳嬀によって滅び(息は姫姓の国で、息嬀は陳出身です。息嬀の美貌を聞いて楚文王が息を滅ぼしました<東周釐王二年、680年参照>鄧は楚曼によって滅び鄧は曼姓で、楚曼は鄧出身です。楚武王に嫁いで文王を産みました。文王は母の国・鄧を滅ぼしました<東周釐王四年、678年参照>)羅は季姫によって滅び羅は熊姓の国で、季姫は姫姓です。楚に滅ぼされたはずですが、詳細は不明です)盧は荊嬀によって滅びました盧は嬀姓の国です。荊嬀は盧の出身で楚の夫人になりました。楚に滅ぼされたはずですが、詳細は不明です)。これらの禍は全て婚姻によって外を利し、親戚を遠ざけたことが原因です。
 
王が聞きました「内を利すとはどういうことだ?外を利すとはどういうことだ?」
富辰が答えました「尊貴(貴い者を敬うこと)、明賢(賢人を表彰すること)、庸勳(功臣を抜擢すること)、長老(老人を重んじること)、愛親(親族を愛すこと)、礼新(賓客を礼遇すること)、親旧(元老と親しむこと)、これらのことができれば民の心が安定し、力を合わせて命令に従うようになります。官府は政策を変える必要がなく、貢賦が規則通りに入り、無駄な出費もなくなるので、国庫が窮乏することもありません。求めたことは実現し、行動すれば全て成功するようになります。百姓(百官)兆民(民衆)が利を上(王室)にもたらすでしょう。これが内を利するということです。もしも七徳尊貴・明賢・庸勳・長老・愛親・礼新・親旧)から離れたら、民が二心を抱いて自分の利を求めるようになります。そうなったら上は何を求めても得るものがありません。これが外を利するということです。狄は王室に列せず(周王室の諸侯ではなく官位もありません)、鄭伯は男服(九服の一つ。王都がある地域の方千里を王畿といい、その周りを五百里ごとに、侯服・甸服・男服・采服・衛服・蛮服・夷服・鎮服・藩服とよびました)に属しています。王が鄭伯を軽んじたら、『尊貴』といえません。狄は豺狼の徳を持ちますが、鄭は周典(周の典礼、きまり)を棄てていません。王がこれを賤しめたら『明賢』とはいえません。平王・桓王・荘王・恵王は鄭の功労を受けてきました。王がこれを無視したら『庸勳』とはいえません。鄭伯・捷(文公)は年長者です。王がこれを侮ったら『長老』とはいえません。狄は隗姓(赤狄)ですが、鄭は宣王から産まれました。王がこれを虐げたら、『愛親』とはいえません。礼とは一定しており、新旧が変わることはありません。しかし王は姜氏や任氏(どちらも襄王の妃嬪)を疎かにして狄女に代えようとしています。これは礼に背き、旧を棄てることになります。王は一挙にして七徳を棄てようとしています。これは外を利することです。『尚書(君陳)』にはこうあります『忍耐すれば成功できる(必有忍也,若能有済)』。王は小怨を忍ぶことができず鄭を棄て、しかも叔隗を后に立てて狄の禍を招こうとしています。狄は大豚や豺狼のように満足を知らない国です。」
結局、襄王は諫言を聞き入れませんでした。
 
かつて甘昭公(襄王の弟。太叔・帯。王子・帯。甘は食邑で昭公は諡号は恵后(恵王の后。襄王と王子・帯の母)に寵愛されていました。恵后は昭公を後嗣に立てようと考えていましたが、その前に死んでしまいました。襄王が即位すると昭公は乱を起こしましたが、失敗して斉に奔りました(東周襄王五年、前648年参照)。しかし後に襄王は昭公の罪を赦して京師に呼び戻しました(東周襄王十五年、前638年参照)
襄王が狄后(隗氏)を娶ると、昭公は狄后と姦通しまました。
怒った襄王は隗氏を廃します。
叔と桃子が相談しました「我々が狄と王室の関係をとりもった。狄は我々を怨むだろう。」
二人は太叔・帯を奉じて襄王を攻撃しました。襄王の御士が抵抗しようとしましたが、襄王は「もしも弟と戦ったら先后(恵后)は何と言うだろう。諸侯と図るべきだ」と言って出奔し、坎欿に至りました。しかし周の国人は襄王を支持していたため、再び都に迎え入れました。
 
(『春秋左氏伝』は秋、『春秋』経文では冬)、頽叔と桃子が太叔・帯を奉じ、狄師を率いて再び襄王を攻撃しました。王師は大敗し、周公忌父、原伯、毛伯が捕虜になります。
『春秋左氏伝』は富辰も捕虜になったとしていますが、『国語・周語二』では殺されたと書いています。以下、『国語』からです。
狄人が譚伯(周の大夫。『国語』の注釈によると原伯と同一人物)を殺しました。
富辰は「わたしは王を何回も諫めてきたが、王は聞き入れることなく、今回の難を招いた。私が討って出なければ王は私が怨んでいると思うだろう」と言うと、徒属(自分の部衆)を率いて攻撃をしかけ、戦死しました。
 
襄王は鄭に奔って氾に住みました。氾は後に襄城とよばれるようになります。史記・鄭世家』はこれを冬の出来事としていますが、恐らく秋の事です。
周の人々は襄王を支持しているため、太叔・帯は隗氏と共に温に住みました。
 
[] 鄭の子華が殺された時(東周襄王九年。前644年参照)、弟・子臧が宋に出奔しました。
子臧は鷸冠を好みました。鷸は鳥の名で、鷸冠は天文を知る者が被るものでした。子臧が天文に通じていたかどうかはわかりません。
鄭文公は出奔した子臧が身の程をわきまえず、鷸冠を被っていることを嫌いました。
八月、文公が盗賊を使って子臧を陳と宋の間で殺しました。
 
[] 宋と楚が講和しました。
宋成公が楚に入り、帰国する時に鄭を通りました。鄭文公は宋成公をもてなすことにし、皇武子(鄭卿・皇戌)に礼について問います。皇武子が言いました「宋は先代商王朝の後裔であり、周の客です。天子が祭祀を行ったら宋に祭肉を贈り、王室で喪事があったら宋が弔問して天子(新王)が拝礼するものです(他の諸侯が弔問しても周王が拝礼する必要はありませんでした)。厚くもてなすべきです。」
鄭文公はこれに従い、厚い礼を用いて宋成公をもてなしました。
 
[十一] 『春秋』はこの年の冬に「晋侯・夷吾が死んだ」と書いています。前年の出来事です。晋文公が即位して国内が安定してから恵公の喪を発したため、翌年の冬の記述になったという説もありますが、実際は古代に文書が書かれた竹簡や木簡が位置を誤って置かれことが原因といわれています(楊伯峻『春秋左伝注』参照)
 
[十二] 冬、襄王の使者が魯に難を伝えて言いました「不穀(天子の自称)は不徳のため、母が寵愛した子帯の罪を得て鄭地の氾に居る。これを叔父(周王は同姓の諸侯を叔父・伯父とよびました)に伝える。」
魯の臧文仲が釐公に言いました「天子が外に出て蒙塵の苦しみを受けています。すぐに人を送って様子をうかがうべきです。」
 
襄王は大夫・簡師父を晋に送り、大夫・左鄢父を秦に送って同時に難を伝えました。
 
鄭文公が孔将鉏、石甲父、侯宣多と共に氾に入り、襄王やその官員を慰労して用具を確認しました。その後、鄭の政治について意見を交わしました。
元々、周と鄭の不和によって招いた狄の乱ですが、その乱のおかげで周と鄭の関係が改善されました。
 
[十三] 衛が邢を攻撃しようとすると、大夫・礼至が言いました「守(大官。ここでは邢の正卿・国子)と親しくならなければその国を得ることはできません。我々兄弟を邢に仕えさせてください。」
礼至の兄弟が邢に入りました。翌年、衛が邢を滅ぼします。
 
 
 
次回に続きます。