春秋時代65 東周襄王(二十五) 斉魯の対立 前634年

今回は東周襄王十九年です。
 
襄王十九
634 丁亥
 
[] 春正月己未(初九日)、魯公(釐公)が莒子、衛甯速(甯荘子と向(莒地)で会盟しました。洮で結んだ盟約(前年十二月)を確認するためです。
莒子は「茲●公(●は「不」の下に「十」)」といい、楊伯峻の『春秋左伝注』によると、諡号ではなく生号(生前に名乗った称号)のようです。
資治通鑑外紀』は茲●公を茲輿期少皥の子孫。平王五十年、前721年参照)の十一世後の孫としています。
 
[] 斉孝公は覇者を自任していたため、魯が洮と向で主催した会盟に不満でした。
そこで魯の西境を侵します。
魯釐公は迎撃して斉師を(または「嶲」。斉地)まで追撃しましたが、追いつけませんでした
 
夏、斉孝公が魯の北境を攻めました。
洮の同盟があったため、衛が斉を攻めます。
 
魯の臧文仲(臧孫辰)は斉との交渉のために大夫・展喜(乙喜。展は氏、乙は字、喜が名)を派遣することにしました。展喜が出発する前に、臧文仲は交渉内容について展禽(名は獲。禽は字)に教えを請います。
展禽が言いました「大国は小国の模範となり、小国は大国に仕えるものです。だから乱を防ぐことができます。言辞で問題を解決するとは聞いたことがありません。小国が自国の立場を越えて尊大になり、大国を怒らせてしまったら、自分の罪悪をますます大きくします。問題は自分自身にあるのであって、言辞は役に立ちません。」
臧文仲が言いました「国の危急の時です。百物も惜しまず交渉に使おうと思います。子(先生。展禽)の言葉と一緒に礼物を贈れば、役に立つかもしれません。」
展禽は展喜に膏沐(髪を潤す油脂)を持たせて斉陣に派遣しました。膏沐は高価なものではありません。斉に礼物を贈るものの、高価な賄賂に頼るのではなく義によって交渉を行うという意味があります。
 
斉孝公が魯の国境に入る前に展喜は国境外に布陣した斉の陣に入り、こう言いました「寡君(自国の君。魯釐公)が不才のため、貴国の国境の官員をうまく遇することができず、貴君を怒らせて親挙玉趾(親征)させ、弊邑(我が国。魯国)の郊野で雨風にさらさせることになりました。そこで下臣に命じて貴軍を慰問させました。」
斉孝公が言いました「魯人は恐れているか?」
展喜が言いました「小人は恐れていますが、君子は恐れていません。」
斉孝公が言いました「室内は架けられた罄のように空洞で(国も家も窮乏しているという意味です)、四方の郊野には青草もないのに(防備がないのに)、なぜ恐れないのだ?」
展喜が言いました「先王の命があるから恐れないのです。昔、周公(魯の祖)と太公(斉の祖)は周室の股肱となり、成王を補佐しました。成王はこれを労い、盟約を下賜してこう言いました『汝等は王室の股肱として先王を輔けた。よって汝等に土地を下賜し、犠牲を殺して誓いを立てよう。子子孫孫、互いに害してはならない女股肱周室,以夾輔先王。賜女土地,質之以犧牲,世世子孫,無相害也)。』その盟書は盟府に保管され、大師(恐らく「太史」と同義)が管理しています。貴国の桓公は諸侯を糾合して協力しない者を討伐し、欠陥を補って災禍を救済し、旧職西周初期に定められた諸侯の職責)を明らかにしました。貴君が即位した時、諸侯は『桓公の功績を継承するだろう』と期待したものです。だから敝邑は兵を集めず、守りを置かないのです。寡君はこう言っています『斉君(孝公)が位を継いで九年しか経たないのに、王命を棄てて職責を廃したら先君桓公に会わせる顔がないだろう。そのようなことをするはずがない。』今、貴国は弊邑の罪を討ちました。その目的は我々に罪を知らせて先王の教えに従わせることでしょう。魯の社稷を滅ぼすはずがありません。まさか魯の壤地(土地)を求めて先王の命を棄てようというのですか。それでは諸侯を治めることはできません。これらの理由があるから恐れないのです。」
斉孝公は講和に同意して兵を還しました。
 
[] 魯は斉との交渉を進めるのと同時に、楚へも協力を求めました。魯の東門(上卿で軍を指揮する者。古代は国門で軍を統率して出征したため、軍の将は「東門」「桐門」等とよばれました)・襄仲(公子・遂。荘公の子。遂は名、仲は字で、襄は諡号と臧文仲が楚に入ります。
臧孫辰は楚の令尹・子玉に会い、楚に服従しない斉と宋を攻めるように勧めました。
 
[] 夔子が祝融と鬻熊を祀らなかったため、楚が譴責しました。夔は楚と同じ羋姓の国で、「隗」「帰」とも書きます。
祝融と鬻熊は楚の先祖で、夔も楚から分かれた国なので、祝融と鬻熊を祀る義務がありました。しかし夔子は楚にこう言いました「我々の先王・熊摯には病疾があり、鬼神に祈っても治らなかったため、自ら夔に逃れた摯は楚の先祖・熊勝の子です。摯には疾患があったため、弟の熊楊が後継者になったことは西周夷王七年に書きました。熊摯は楚を出て夔国の祖になったようです。但し、摯は熊渠の子または孫とする説もあります。熊渠は熊楊の子です。我が国はこうして楚との関係を失ったのだ。なぜその祖先を祀らなければならないのだ。」
秋、楚の令尹・成得臣、司馬・宜申(子西)が師を率いて夔を滅ぼし、夔子を連れて兵を還しました。
史記・楚世家』は夔の滅亡を楚成王三十九年としていますが、恐らく三十八年の誤りです。
 
[] 宋は亡命中の重耳(晋文公)を厚遇したため、文公即位後、楚から離れて晋と親しくしました。
冬、楚の令尹・子玉、司馬・子西が師を率いて宋を攻め、緡(閔)を包囲しました。
 
魯釐公も楚師を率いて斉を攻め、穀を占領して帰国しました。
 
魯は斉桓公の子・雍を穀に置きました。斉孝公を牽制するためです。易牙(斉桓公の寵臣)が公子・雍を奉じて魯の後援を受け、楚の申公・叔侯が兵を率いて穀を守りました。
この時、斉桓公の子七人が楚に出奔し、七人とも楚で大夫になりました。
史記・楚世家』はこの出来事も楚成王三十九年としていますが、恐らく三十八年の誤りです。
 
 
 
次回に続きます。