春秋時代67 東周襄王(二十七) 晋楚の対立 前632年(1)

今回は東周襄王二十一年です。三回に分けます。
 
襄王二十一年
632年 己丑
 
[] 前年、楚が宋を包囲しました。
春正月、晋文公は宋を援けるため、楚の同盟国・曹を攻めることにしました。曹は衛の東にあるため、文公は衛に道を貸すように要求します。しかし衛は拒否しました。
晋軍は兵を還して南河(南津)から黄河を渡り、衛を攻撃しました。
戊申(初九日)、晋軍が衛の五鹿を占領しました。かつて農夫が土の塊を文公(重耳)に与えた場所です(東周襄王十六年、637年参照)

史記・衛康叔世家』によると、晋が衛に宋救援の兵を出すように要求しました。
衛の大夫は晋に協力しようとしましたが、成公が同意しなかったため、晋と決裂しました。
 
[] 二月、晋の中軍の元帥・郤縠が死にました。下軍を補佐していた原軫(先軫。原は食邑の名)が抜擢され、中軍を指揮することになります。胥臣が下軍の補佐になりました。原軫の抜擢はその徳(能力)が認められたためです。
 
[] 晋侯(文公)と斉侯(昭公)が斂盂(衛地)で盟を結びました。衛侯(成公)も盟に参加しようとしましたが、晋文公が拒否します。
そこで衛成公は楚に帰順しようとしましたが、国人が望まず、成公を放逐して晋の歓心を買いました。成公は国都を出て東郊の襄牛に住みます。

『春秋左氏伝』は明記していませんが、『史記・衛康叔世家』は「大夫元咺が衛成公を攻めたため、成公が出奔した」としています。
 
衛は楚と婚姻関係を結んでおり、魯も楚と同盟していました。そのため、魯の公子・買(字は子叢)が兵を率いて衛を守り、楚も衛に援軍を出します。
しかし楚の援軍が晋軍に敗れました。
晋を恐れた魯釐公は、晋を喜ばせるために公子・買を殺し、同時に楚には偽ってこう報告しました「子叢は任期が満ちていないのに帰国しようとしたので処刑しました。」
 
[] 晋文公が曹を包囲しました。城門を攻めましたが多くの兵が犠牲になります。曹人は晋軍の死体を城壁の上に積上げました。
晋文公は将兵の士気の低下を心配して衆人と謀り、こう宣言しました「郊外にある曹人の墓地に営を遷す。」
晋軍が兵を動かすと、曹人は墓地が荒らされることを恐れ、晋軍の死体を棺に入れて城から出しました。晋軍は動揺した曹軍に総攻撃をかけます。
三月丙午(初八日)、晋軍が曹に入城しました。
晋文公が曹国の罪状を読みあげます。賢臣・僖負羈を用いないのに、軒車に乗る者(大夫以上の高官)が三百人もいることが大きな罪とされました(これは『春秋左氏伝』の記述です。『史記・晋世家』は「美女軒者三百人」としており、軒車に乗る美女が三百人もいたという意味になります。恐らく『史記』が誤りです)。また、文公の沐浴を覗いた曹共公の無礼(東周襄王十六年、637年参照)を譴責しました。
 
文公は亡命中に曹の僖負羈釐負から恩を受けました。
曹城攻撃前、文公は僖負羈にこう伝えました「我が大軍が城に迫ったが、わしは汝が抵抗しないことを知っている。汝の閭(巷の大門。二十五家で一閭が形成され、門が造られました)に標を設けよ。我が軍が汝の閭を侵さないように命じよう。」
これを聞いて七百余家の曹の人々が僖負羈の閭に庇護を求めて集まりました(『韓非子・十過』)
 
文公は将兵に僖負羈の閭を侵さないよう命じました。しかし魏犨と顛頡が怒って言いました「功労・労苦のある者を考慮せず、何に報いようというのだ!」
魏犨と顛頡は亡命中の文公に従って十数年を過ごしました。しかし三軍の指揮官になった七人のうち、亡命に従ったのは狐毛・狐偃・趙衰だけで、郤縠・郤溱・欒枝・先軫は国内に留まった者でした。魏犨は文公の車右に過ぎず、顛頡に至っては重職を与えられていません。そのため二人は不満を抱いていました。
魏犨と顛頡は僖負羈の屋敷に火を放ちます。魏犨は胸を負傷しました。
怒った文公は二人を処刑しようとしましたが、魏犨の能力を惜しんだため人を送って慰問させました。重症で助かる見込みがないようなら処刑するつもりです。しかし魏犨は胸に包帯をまいたまま使者に会ってこう言いました「主君の霊威がある以上、わしは安寧を貪るわけにはいかない(負傷したといって休んでいるわけにはいかない)!」
魏犨はその場で何度も跳びはねて健在を示しました。
文公は魏犨の死刑を免じましたが、任務を解いて舟之僑を戎右(車右)に任命しました。
『春秋左氏伝(僖公二十八年)』によると顛頡は見せしめとして処刑されました。
 
『商君書・賞刑』と『韓非子・外儲説右上』は顛頡の処刑に関して異なる記述をしています。以下、二書の内容をまとめて書きます。
晋文公は即位すると刑罰を明らかにして百姓(臣民)を帰服させようとしました。そこで諸卿大夫を侍千宮に召集します。この時、文公の寵臣・顛頡が遅れて来ました。刑吏が顛頡を罰するように請いましたが、文公は躊躇します。しかし刑吏が重ねて要求したため、文公は「刑を行え」と命じました。
顛頡は処刑されました。
晋の人々が言いました「寵をうけた顛頡でも処刑されたのだから、我々はもっと慎重にならなければならない。」
『商君書』では顛頡の処刑後、晋が規律を正して強国となり、曹を討ち、衛の五鹿を取り、城濮で楚軍を破ることができたとしています。
 
[] 楚軍の攻撃を受けている宋が門尹般(または「般」。門尹は氏、または門を管理する官の名)を晋軍に送って危急を告げました。
晋文公が言いました「宋が急を告げている。援けなければ宋との関係が絶たれてしまう。しかし楚に攻撃を止めるように要求しても拒否するだろう。わしは楚と戦おうと思うが、斉と秦が同意しないはずだ。どうすればいいか。」
先軫が言いました「斉と秦が楚と敵対するようにしむけましょう。」
文公がその方法を聞くと、先軫が答えました「まず、宋には我が国の援軍をあきらめさせます。その後、宋から斉と秦に賄賂を贈らせ、二国を通して楚に講和を求めさせます。その間に我々は曹君を捕えて曹と衛の地を宋に与えます(一つは楚を怒らせるため、一つは宋が斉と秦に贈った賄賂の償いとするためです)。楚は曹・衛と同盟しているので、これに怒って斉・秦が要求する講和を拒否するでしょう。斉と秦は宋の賄賂を喜び、講和を拒否した楚を怨みます。こうすれば、斉・秦も楚と戦うことになります。」
文公は進言に喜び、曹伯(共公)を捕えて曹と衛の田を宋に与えました。

以上は『春秋左氏伝(僖公二十八年)』の記述です。『史記・晋世家』はこう書いています。
楚がを包囲したため、が晋にを告げました。文公は亡命中に楚からも宋からも恩を受けていたため、どちらを援けるべきか悩みました。
先軫が言いました「曹伯を捕え、と衛のを分けてに与えれば、と衛の急を援けるためにの包囲を解くでしょう。」
文公はこれに従いました。
成王は宋からを引き上げました
 
[] 楚成王は晋との衝突を避けるため、中原から兵を退いて申城に入りました。穀(斉地)に駐軍していた申叔(申公・叔侯。東周襄王十九年、前634年参照)を穀から、宋を攻めていた子玉を宋から撤兵させます。

史記・晋世家』によると、この時、子玉は成王にこう言いました「は晋を非常に厚遇しています。しかし、晋は・衛の関係が密接であると知りながら攻撃しました。王を軽んじているからです。」
 
以下、『春秋左氏伝』からです。
成王が子玉に言いました「晋師を追撃してはならない。晋侯は国外に十九年もいたのに晋を得ることができた。険苦も艱難も全て経験しており、民情の虚実もよく理解している。天が晋侯に天寿を与え、その害を除いたのだ。天が置いた者を廃することはできない。『軍志
(古代の兵書)』にはこうある『適切なところで切り上げよ(允当則帰)。』『難を知ったら退け(知難而退)。』『徳がある者を敵としない(有徳不可敵)。』この三者は晋に当てはまる。」
しかし交戦を望む子玉は伯棼椒の字。別の字は子越。伯比の孫。伯比は東周桓王十四年、706年参照)を送って成王に伝えました「功績を挙げることができるとは限りませんが、讒慝の口(讒言、悪口。前年、蔿賈が「子玉は三百乗以上の兵を率いたら帰還できない」と言ったことを指します)を塞ぎたいと思います。」
成王は怒って子玉への増援軍を少なくしました。西広(楚王の親兵の一部)東宮(太子宮)と若敖(若敖は楚王の祖。恐らく若敖が作った宗族の軍)の六卒(戦車百八十乗)だけを送ります。子玉は宋を包囲していた兵に六卒が加えられました。
 
子玉が大夫・宛春を送って晋軍に伝えました「衛侯を復位させて曹の地を返せば、臣も宋の包囲を解きましょう。」
晋の狐偃が怒って文公に言いました「子玉は無礼です。国君(晋文公)の利益は一つしかないのに臣下の身分にある者(子玉)が二つも取ろうとしています。従ってはなりません。」
先軫が言いました「要求に応じるべきです。人を安定させることを礼といいます。楚は一言で三国を安定させ(宋の包囲を解き、曹と衛を援ける)、我々は一言でそれらを妨害することができます。しかしそうなったら我々が無礼になり、戦いに不利になります。また、楚の言を拒否したら宋を棄てることになります。救いに来たのに棄てたら、諸侯にどう説明できるでしょう。宋が楚に降ったら、楚をますます強くしてしまいます。その結果、楚は三施(三つの施し)を行い、我々は三怨を招きます。怨讎が多ければ敵を撃つことはできません。ここは曹・衛との間で秘かに復旧を約束して兵を退き、二国を楚と離間させるべきです。楚に対しては宛春を捕えてわざと怒らせ、一戦してから後の事を図りましょう。」
納得した文公は衛で宛春を捕え、秘かに曹・衛と約束しました。二国は楚との関係を絶ちました。
 
怒った子玉は宋の包囲を解き、晋軍への攻撃を開始しました。
楚軍が陣を構えると、晋軍は退却を始めます。晋の軍吏が言いました「国君(晋文公)が臣下(楚子玉)を避けて逃げるのは恥辱というものです。しかも楚師は既に疲労しています(楚は昨年冬から宋を包囲しており、既に約半年が経っています)。なぜ退却するのですか。」
狐偃が言いました「師とは直ならば(理があれば)壮となり、曲ならば(理がなければ)老する(衰える)。遠征の時間が長いかどうかは問題ではない。楚の恩恵がなければ我々はここにいることができなかった。三舍(九十里)を避けて恩に報いるのだ。恩を棄て、約束(東周襄王十六年、637年参照)を破って敵に対したら、我々に曲があり楚に直がある。その結果、敵に気が満ちて老になることはない。もし我々が兵を退くことで楚が撤兵したら、我々にはそれ以上望むことはない。もし楚が兵を還さなければ、国君が退いたのに臣下がそれを犯すのであり、曲は彼等にある。」
晋軍は三舍を撤退しました。
楚の将兵は追撃に反対しましたが、子玉は拒否しました。
 
 
 
次回は城濮の戦いです。

春秋時代68 東周襄王(二十八) 城濮の戦い 前632年(2)