春秋時代68 東周襄王(二十八) 城濮の戦い 前632年(2)

今回は東周襄王二十一年の続きです。
 
[] 夏四月戊辰(初一日)、晋侯(文公)、宋公(成公)と斉の国帰父(大夫)、崔夭(大夫)および秦の小子憖(穆公の子)が城濮(衛地)に駐軍しました。
楚軍は険阻な地を背にして陣を構えます。
晋文公が戦の行方を心配している時、士兵の歌が聞こえてきました「原田(休耕中の田畑)は緑が茂る。古きを棄てて新しきを考えよう(「原田毎毎,舍其旧而新是謀」。休耕中の田に茂る緑の草は晋の徳が盛んなことを表します。旧恩にとらわれることなく、新しい功績を立てよう、という意味です)。」
狐偃(子犯)が文公に言いました「戦いましょう。戦って勝てば諸侯を得ることができます。もし勝てなくても、我が国の前後には山河があるので恐れることはありません。」
文公が言いました「楚の恩恵に対してはどうすればいい?」
欒貞子(欒枝)が言いました「漢陽漢水北)の姫姓諸国(周・晋と同姓の国)は全て楚に併吞されました。小さな恩恵を想って大きな恥辱を忘れてはなりません。」
 
この頃、晋文公は楚成王と争う夢を見ました。成王が文公を押し倒して脳に噛みつきます。文公が夢のことを話すと狐偃が言いました「吉夢です。我々は天を得ました。楚がその罪に服し、我々が楚を懐柔したのです。」
少し難しいので解説します。押し倒された文公は天を仰ぎ見ることになります。これが「天を得た」姿です。逆に上に乗った成王は下を向いて頭を下げることになります。「罪に服す」姿です。脳は髄・骨・脈等と同じく体内に隠れているので陰の物とされました。陰は「柔」、陽は「剛」です。また、脳は柔らかく、それを噛む歯は固い物です。柔軟な物で固い物を受け止めるというのは、「懐柔」を意味します。
 
一方、楚の子玉は大夫・勃を晋陣に送って決戦を請い、こう伝えました「貴君の勇士と力比べをしよう。貴君が車上で見物するなら、得臣(子玉)も伴をする。」
晋文公が欒枝を送って応えました「寡君(晋文公)は天の命に従うだけだ。我々は楚君の恩恵を忘れたことがなく、ここまで撤退した。一国の主が兵を退いたので、大夫(楚軍)もそれにならって既に退いたと思ったが、国君に逆らうつもりか。国君の命に従う気がないのなら、大夫勃)将兵にこう伝えてくれ『汝等の戦車を準備して国事に忠を尽くせ。明朝、再会しよう。』」
 
晋軍は車七百乗を整列させました。武装した兵馬は威風を放っています。文公は莘の墟(古莘国の廃墟)に登って軍容を確認し、こう言いました「我が将兵は若い者も年長の者も礼がある。きっと力になるはずだ。」
文公は木を伐って戟や矛の柄とし、武器を増強しました。
 
己巳(初二日)、晋軍が莘北(城濮)に駐軍しました。
晋の中軍(文公・先軫)は楚の中軍に当たり、晋の上軍(狐毛)は楚の左師に当たりました。下軍は将・欒枝と佐・胥臣がそれぞれ兵を率い、胥臣が陳・蔡の軍(楚の右師)と対峙します。欒枝は楚軍を誘い出すための別動隊となりました。
楚の子玉は若敖等の六卒(前述)を率いて中軍とし、「今日、必ず晋を滅ぼす」と宣言しました。子西宜申)が左師を、子上勃)が右師を率います。
 
まず晋の下軍の佐・胥臣が馬に虎皮を被せ、陳と蔡の陣を攻撃しました。陳・蔡両軍は奔走し、楚の右師が混乱します。それを見て狐毛が上軍から二隊を派遣して楚の右師を掃討させました。楚の右師は退却します。
晋の下軍の将・欒枝は車に柴を牽かせて撤退する姿を見せました。柴を牽かせたのは砂塵を舞いあがらせて軍が動いているように見せるためです。
欒枝の撤退を信じた楚の左師(子西)が追撃を始めました。すると晋の先軫と郤溱が中軍の公族大夫を率いて側面から楚軍を急襲し、上軍の狐毛と狐偃もそれぞれ兵を率いて子西を挟撃します。こうして楚の左師も壊滅しました。
楚の中軍を率いる子玉はすぐに兵をまとめて体制を整えたため、全滅を免れました。

城濮の会戦の経緯は『春秋左氏伝』に詳しく書かれていますが、解釈の違いによって異なる説が存在します。別の場所で紹介します。 

『中国歴代戦争史』を元に城濮の戦いの地図を作りました。
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晋軍は三日間駐留して楚軍の食糧を消費しました。
癸酉(初六日)、晋軍が兵を還します。
 
『韓詩外伝・第七巻』にはこの時の晋文公の様子が描かれています。
文公は兵を退いてから憂色を浮かべました。侍者が問いました「主君は楚に大勝したのに、何を憂いているのですか。」
文公が答えました「戦勝によって国を安定させることができるのは、聖人しかいなく、詐術によって勝った者は危険から逃れられないという。わしは勝ったからこそ憂いるのだ。」
文公は志を得た時に生まれる驕慢を恐れることができる人物でした。

史記・晋世家』にも同じような話があります。
晋軍が楚軍の陣を焼きました。は数日経っても消えません。
文公が嘆息したため、左右の者が「楚に勝ったのに主公はまだ憂いています。なぜですか?」と問いました。
が言いました戦に勝ってから心を安んじることができるのは聖人だけだという。だからわしは畏れるのだ。それに、子玉がまだいる。喜ぶことはできない。

[] 甲午(二十七日)、晋軍が衡雍(鄭地)に至り、周襄王のために踐土(衡雍の西南)に王宮を築きました。
 
[九] 城濮の戦役の三か月前、鄭文公が楚陣に入って援軍を送ることを約束しました。鄭は文公が亡命した時に礼を用いなかったため、晋の報復を恐れていました。楚に従ったのはそのためです。
城濮の戦において、鄭は実際には兵を送っていません。しかし楚軍の敗報を聞いた鄭は晋の報復を恐れました。そこで子人九(人名。鄭厲公の弟・語の子孫)を晋陣に送って講和を求めました。
晋文公は欒枝を鄭に送って盟を結びました。
五月丙午(初九日)、晋文公と鄭文公が衡雍で会盟しました。
 
[] 丁未(初十日。『資治通鑑外紀』は「丙午」としていますが誤りです)、晋文公が楚との戦いで得た捕虜や戦利品を周襄王に献上しました。駟介(甲冑をつけた戦馬)百乗(四百頭)と徒兵(歩兵)千人です。
この時、襄王は鄭文公に東周平王時代の礼を用いて王を補佐させました。平王時代、鄭の武公は周の卿士であり、相の任務を与えられました。平王の東遷を援けたのは鄭武公と晋文侯です。今回、鄭文公に平王時代の礼を恢復させたのは、「鄭と晋が協力して周王室を援けよ」という襄王の意志が込められています。
 
己酉(十二日)、周襄王が宴を設けて晋文公をもてなしました。
襄王は尹氏と王子・虎(太宰・文公)、内史・叔興父(内史・興)に命じ、策命によって晋文公を侯伯(諸侯の長)に任命させました。大輅の服と戎輅の服(大輅は天子の車。戎輅は兵車。服というのはそれぞれの車に見合った衣服や装飾)および彤弓一・彤矢百(彤は赤)弓矢千は黒。弓矢千は弓十張りと矢千本の意味。古代は矢百本に対して弓一張り配されたため、矢千の場合は弓十になります)、秬鬯一卣(秬鬯は祭祀で用いる酒。卣は酒器。史記・晋世家』の注におると、先に珪瓚が下賜され、その後、卣が与えられます、虎賁(勇猛な士)三百人が下賜されます。尹氏等が晋文公に言いました「王から叔父(同姓の諸侯)に対する言葉です。『恭しく王命に服し、四国を安んじさせ、王と敵対する者を遠ざけよ(敬服王命,以綏四国,糾逖王慝)。』」
晋文公は三回辞退してから侯伯になることを受け入れ、こう言いました「重耳は再拝稽首し、天子の賞賜と命令を受け入れます。」
文公は策書を拝受して退出し、その後、周襄王を三回朝覲しました。
こうして斉桓公に次ぐ二人目の覇者が誕生しました。

史記・晋世家』は周襄王が晋文公に与えた命をこう書いています「が言った。(同姓で年上の諸侯。ここでは晋文公)によって諸侯をし、王・王の功徳を大いに明らかにした。文王・武王は謹んで徳を明らかにすることができ、徳はに登り、に知れ渡った。よって上帝王・王に恩沢を施し、子孫に伝えさせた。を憂い、予一人(天子の自称)の位を長く保つように努力せよ。
但しこれは『尚書』に収録されている『晋文侯の命』という文書で、東周平王が晋文侯(文公ではありません)に与えたものなので、『史記』がここに載せているのは誤りです。

[十一] 衛成公は襄牛にいましたが、楚が敗れたと聞いて諸侯や国人の攻撃を恐れ、楚に出奔しました。その後、陳に遷ります。そこで諸侯が踐土に集まっていると知り、元咺に命じて叔武(成公の弟)と共に会盟に参加させました。成公自身は陳に留まりました。

以上は『春秋左氏伝(僖公二十八年)』の記述です。
史記・衛康叔世家』には「晋文公重耳が衛を討伐し、過去の無礼と宋の憂患を救わなかった罪を罰するために衛の地を宋に分けた。衛成公に奔った」とあります。『史記』をみると成公が陳に奔ったのは城濮の戦いの前のようにも思えます。
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
癸丑(十六日)、晋侯(文公)、斉侯(昭公)、魯公(釐公)、宋公(成公)、蔡侯(荘侯)、鄭伯(文公)、衛子(成公の弟・叔武)、莒子が踐土で会盟しました。
陳は楚と同盟を結んでいましたが、晋を恐れて陳侯(穆公)も会に参加しました。但し、会に参加したものの、諸侯と盟約を結ぶことはできなかったようです。
 
魯釐公が襄王の住む行宮(臨時の王宮)を朝見しました。
 
癸亥(二十六日)、王子・虎が踐土の王庭で諸侯と盟を結び、こう宣言しました「諸侯は皆、王室を援けよ。互いに害してはならない。この盟に裏切った者は明神が誅殺し、その師を滅ぼし、国を享受することはできず、禍は玄孫に至る。誅殺に老幼の区別はない。」
 
[十二] 以前、楚の子玉は瓊弁と玉纓(どちらも玉を使った馬の装飾品)を作りましたが、まだ使ったことがありませんでした。城濮の役の前に夢で河神が言いました「わしに譲れば汝に孟諸の麋(宋の水草の地)を与えよう。」
しかし子玉は拒否しました。
大心(孫伯。子玉の子)と子西が栄黄を送って諫言しましたが、子玉は聞きません。
栄季(栄黄。黄が名、季は字)が頑なに言いました「たとえ死んでも国を利することができるのなら、それを行うべきです。瓊玉の類は糞土に過ぎません。出師を成功させることができるなら、それらを惜しむことはありません。」
それでも子玉は同意しません。
栄黄は退出してから大心と子西に言いました「神が令尹を敗れさせるのではありません。令尹は民の事に勤めようとしない。自ら敗れるのです。」
 
子玉が敗戦すると、成王が譴責の使者を送ってこう伝えました「今回の戦で申と息の多くの兵が死んだ。大夫が帰国したら申と息の老人にどう対するつもりだ。」
子西と大心が使者に言いました「得臣は元々自殺するつもりでしたが、我々二臣が止めてこう言いました『自殺しなくても国君があなたを殺すでしょう(国君の裁きを待つべきです)。』だから自殺しなかったのです。」
子玉は連穀に至って自殺しました。

以前、楚の范邑に住む巫・矞似が成王と子玉、子西宜申)に言いました「三君は強死(健康な状態で死ぬこと。病死や老死ではなく、不遇な死を迎えるという意味)するでしょう。」
成王は子玉を譴責する使者を送ってからこの言葉を思い出し、改めて自殺を止めさせる使者を送りましたが、間に合いませんでした。
子西も首を吊って死のうとしましたが、縄が切れて失敗します。そこに成王の使者が到着して自殺を止めさせたため、子西は帰国することにしました。成王は子西を商公(商密の長)に任じました。

子玉の死を聞いた晋文公は喜んでこう言いました「これで私を害する者がいなくなった。蔿呂臣は令尹だが自分のためにいるだけだ。民のためではない(大志をもっていない)。」

以上は『春秋左氏伝』からです。『史記・晋世家』はこう書いています。
子玉自殺すると、晋文公わしは楚のを討ち、は自国の内をした。内を呼応させることができたと言って喜びました。
 

 
次回に続きます。