春秋時代69 東周襄王(二十九) 温の会 前632年(3)

今回で東周襄王二十一年が終わります。
 
[十三] ある人が亡命中の衛成公の前で元咺を讒言して言いました「元咺は既に叔武を国君に立てました。」
元咺の子・元角は成公に従っていましたが、讒言を信じた成公に殺されました。
しかし元咺は成公の命に逆らわず、衛に帰国してからも夷叔(叔武。夷叔は諡号を助けて国外の成公の代わりに政治を行いました。
 
六月、衛の叔武と会盟した晋文公は、叔武の願いを聞いて衛成公を帰国させることにしました。
衛成公は甯武子(甯兪)を衛に派遣して国人と宛濮で盟を結ばせました。甯武子が衛人に言いました「天が禍を衛国に降し、君臣が協力しなかったため、このような憂いを招くことになった。しかし今、天が我が国を憐れみ、皆の心を一つにさせた。国内に留まる者がいなければ社稷を守ることはできず、国外に出る者がいなければ牧圉(牛馬を養牧する者。ここでは国君・成公)を守ることはできなかった。今まで人々が協力できなかったので、大神の前で誓って天の哀れみを求めたのである。今日、この盟を交わしてからは、国外に出た者(成公に従った者)はその功を誇ってはならず、国内に留まった者(成公を亡命させた者)はその罪を恐れる必要はない。この盟に背いたら禍が訪れ、明神・先君によって糾弾誅殺されるであろう。」
衛国内の人々は盟約を聞いて安心し、成公の帰国に賛成しました。
 
衛成公は叔武を信じていなかったため、予定よりも早く国都に入りました。甯武子が先行します。門を守っていた長牂は成公の近臣である甯武子を尊重し、共に車に乗って中に導きました。守る者がいなくなった城門を公子・犬と華仲が兵を率いて通過します。
この時、叔孫(叔武)は沐浴をしていましたが、成公が帰ったと聞いて喜んで沐浴を終え、手で髪を束ねて出迎えました。しかし先に入った犬と華仲が叔孫を射殺しました。
後から来た成公は叔武の無罪を知り、膝の上に死体を乗せて泣きました。
犬は逃走しましたが成公が人を送って殺しました。
叔武が殺されたと知った元咺は晋に出奔しました。
 
[十四] 城濮の戦いにおいて、晋の中軍が沢で大風に遭い、前軍の左旃(左の大旗)を失いました。
司馬(軍法を掌る官)は祁瞞を軍命に反した罪(軍旗を失った罪)で処刑し、諸侯への見せしめとしました。茅筏(人名)が祁瞞の代わりになります。
 
戦が終わって晋軍が帰還しました。
壬午(十六日)、晋軍が黄河を渡った時、文公の戎右(車右)・舟之僑が命を無視して先に帰国しました。士会(士蔿の孫)が代わりに戎右を務めます。
 
秋七月丙申(七月に丙申はないので、恐らく六月の誤り。六月なら三十日)、晋軍が国都に凱旋しました。文公は太廟に戦勝を報告してから宴を開き、論功行賞を行います。

以上は『春秋左氏伝』です。『史記・晋世家』は論功行賞について書いています。

晋文公は狐偃の功績を第一としました。ある人が言いました「城濮先軫によって成功しました。」
文公はこう言いました「城濮の戦において、はわしにを失うなと勧めた。先軫『軍事とはつことが大切だ』と言った。わしは先軫の言を用いて勝ったが、これは一時の言葉だ。の言葉は万となる。一時が万に勝ることはない。だから狐偃が先なのだ。」
 
『春秋左氏伝』に戻ります。
日、文公が諸侯を集めて
(温の会)二心のある国(盟約に背いた国)を討伐することを宣言しました。
 
文公が先に帰った舟之僑を処刑して規律を正したため、民が心服しました。
 
[十五] 陳穆公が在位十六年で死に、子の共公・朔が継ぎました。
 
[十六] 秋、杞に嫁いだ伯姫(杞成公夫人。魯荘公の娘。東周恵王八年、669年参照が魯に来ました。
 
[十七] 魯の公子・遂が斉に行きました。
 
[十八] 冬、晋侯(文公)・魯公(釐公)・斉侯(昭公)・宋公(成公)・蔡侯(荘侯)・鄭伯(文公)・陳子(共公。穆公死後、年を越えていないため、正式に即位したとはみなさず、陳子と書きます)・莒子・邾子・秦人(恐らく穆公)が温で会見しました。秦が諸侯の会盟に参加するのは初めてです。
諸侯間で結ばれた盟約に服従しない国を討伐することが約束されました。
 
晋に出奔した衛の元咺が叔武殺害の件を文公に訴えたため、温の会で衛成公と元咺が討論することになりました。甯武子が輔(衛成公の補佐)を、鍼荘子が坐(衛成公のために曲直を訴える者)を、士栄が大士(衛成公に代わって答弁する者)を務めます。討論の結果、衛成公が負けました。晋文公は士栄を殺し、鍼荘子を刖(脚を切断する刑)としましたが、甯兪忠臣と認めて赦しました。
衛成公は晋文公に捕えられ、京師(周都・洛邑の深室(囚室)に入れられます。甯武子が成公に衣食を送りました。
元咺は衛に帰って公子・瑕(または「適」。恐らく成公の庶弟)を国君に立てました。
 
温の会で晋文公は襄王を招き、諸侯を率いて謁見することにしました。
史記・晋世家』によると、晋文公は諸侯を率いて周に入朝しようと考えましたが、従わない者がいることを心配したため、襄王を河陽(温)の狩りに招きました。
後に孔子は「臣下が天子を呼び招くべきではない」と考え、『春秋』には「天王が河陽黄河の北。温邑)で狩りをした(天王狩于河陽)」と書きました。晋文公に呼ばれたのではなく、襄王自ら狩りのために外出したという意味です。
 
十月壬申(初七日)、晋文公、魯釐公、斉昭公、秦穆公、衛君・瑕、陳共公、蔡荘侯が河陽で襄王を朝見しました。
史記・晋世家』は践土で周王に朝見したと書いていますが、践土の盟は五月の事なので、恐らく誤りです。
 
[十九] 丁丑(十二日)、晋が諸侯を率いて許を包囲しました。
元々楚に従っていたのは鄭、衛、許、陳ですが、許だけが会盟に参加せず、襄王にも朝見しませんでした。そこで晋文公は河陽から近い許を攻撃しました。
 
この頃、晋文公が病に倒れました。曹共公の豎(未成年の侍従)・侯が晋の筮史に賄賂を贈り、「晋君の病の原因は曹を滅ぼしたことにある」と言うように請いました。
筮史が文公に言いました「斉桓公は諸侯と会して異姓(邢・衛)を封じましたが、今、主君は諸侯と会して同姓を滅ぼしました。曹叔振鐸は文王の昭(子)であり、晋の先君・唐叔は武王の穆(子)です。諸侯を集めて兄弟を滅ぼすのは礼ではありません。また、曹も衛と同じように復国を約束したのに、衛は復位し、曹は滅ぼされたままです。これでは信がありません。罪が同じでも罰が異なるようでは、刑とはいえません。礼は義を行い、信は礼を守り、刑は邪を正すものです。この三者を棄てて主君はどうするつもりですか?」
文公は諫言を喜び、曹共公を復位させました。
曹も諸侯の軍と合流して許攻撃に参加しました。
 
[二十] 晋文公が三行を作って(「行」は歩兵部隊です。晋には元々「二行」があったので、「一行」を増加したことになります)狄に備えました。荀林父が中行を、屠撃(『史記・晋世家』では「先縠」)が右行を、先蔑が左行を指揮します。
 
 
 
次回に続きます。