春秋時代70 東周襄王(三十) 介国 前631年

今回は東周襄王二十二年です。
 
襄王二十二年
631年 庚寅
 
[] 春、介葛廬が魯に来朝しました。介は東夷の国といわれていますが、はっきりしません。葛廬は介君の名です。
魯は介葛廬を昌衍(昌平山)に住ませました。
魯釐公は温の会に参加した後、許国の包囲に参加していたため(前年)、介葛廬に会うことができませんでした。そこで食糧を届けました。
 
[] 魯釐公が許の包囲から帰国しました。
 
[] 周の王子・虎と魯釐公、晋狐偃、宋の公孫固、斉の国帰父、陳の轅濤塗、秦の小子憖および蔡人(蔡の参加者の名が残されていないのは、恐らく位が低かったためです)が翟泉(または「狄泉」。洛陽内)で会盟しました。踐土の盟約を再確認し、鄭討伐の相談をするためです。鄭は晋文公が亡命した時に礼を用いず、その後、楚と通じたため、討伐の対象になりました。
諸国の卿が公・侯の会見に参加することは非礼とされていました。卿が参加できるのは伯・子・男の会見までです。
 
[] 秋、魯で大雹が降り、被害がありました。
 
[] 冬、介葛廬が魯に来ました。春の来朝で釐公に会えなかったためです。
釐公は介葛廬を厚くもてなしました。
 
ある日、介葛廬が牛の鳴き声を聞いて言いました「この牛は三頭の牛を産み、全て犠牲に使われた。だからこのように鳴くのだ。」
牛飼いに確認するとその通りでした。
 
介国の人々は動物の言葉を理解できたといわれています。以下、『列子黄帝篇』の一部です。
「禽獣の智慧は生まれた時から人と同じ部分がある。禽獣も生きることを欲し、この方面の智力が人に劣ることはない。牝牡(雄雌)が一緒になり、母子が互いに親しみ、平地を避けて険阻な場所に住み、寒冷から離れて温暖に住む。居住したら群れになり、行動する時は列を作り、幼少は内に、壮者は外にいる。水を飲む時は共に支えあい、食を採る時は一緒に鳴く。太古の時代は禽獣も人と同じ所に住み、人と共に行動した。しかし帝王が人を治めるようになってから、禽獣は人を恐れて散乱し、末世になると(世が乱れると)、逃げて隠れるようになってしまった。患害から避けるためである。
今、東方に介氏の国があり、その国人は皆、六畜(馬・牛・羊・豚・犬・鶏)の語を聴くことができるという。これは普通ではない智慧をもっているからであろう。
太古に生きた神聖な人は、万物の状態を知り、異類の音声を理解することができたのである。」
 
 
 
次回に続きます。