春秋時代71 東周襄王(三十一) 衛成公復位 前630年(1)

今回は東周襄王二十三年です。二回に分けます。
 
襄王二十二年
630年 辛卯
 
[] 春、晋が鄭に兵を進め、攻撃するべきかどうかを探りました。鄭が亡命中の晋文公に対して無礼を働き、しかも楚に附いたからです。
夏、晋が鄭に兵を動かしている隙を利用して、狄が斉(晋の同盟国)を侵しました。
 
[] 二年前の温の会で晋が衛成公を捕え、周に送りました。
晋文公が衛成公を殺すように請いましたが、周襄王は拒否して言いました「政令とは上から下に出されるものであり、上が定めた政令を下は逆らわずに実行するものだ。だから君臣の間に怨みが生まれない。今、叔父(同姓の諸侯。ここでは晋文公)が侯伯として政令を定めているが、徳を行わないようでは政令は守られないであろう。本来、君臣の間に獄(訴訟)があってはならない。元咺の行動は直(実直。正義)だが、それを聴いてはならない。君臣が互いに訴えあうようになったら、父子も訴訟しあうようになる。その結果、上下の秩序がなくなってしまう。叔父が臣下である元咺の訴えを聴いたのは一つ目の逆(礼に背いたこと)である。更に臣下のためにその主君を殺したら、刑の意味がなくなってしまう。刑を設けながら用いないのは二つ目の逆である。諸侯を集合させながら逆政を行うようでは、二度と諸侯を従わせることができなくなる。このような心配がなければ、余が私情によって衛侯をかばうことはない(衛侯を殺さないのは晋侯のためである)。」
 
晋文公は医者・衍を送って衛成公を酖殺(毒殺)しようとしました。しかし衛の甯兪が医者に賄賂を贈って酖の量を減らすように請い、そのおかげで成公は死にませんでした。
毒をもった医者・衍も罪を問われませんでした。
 
魯の臧文仲が釐公に言いました「衛君は無罪といえます。刑には五種類がありますが、毒をもって暗殺するという刑はありません。暗殺とは忌避されるべきことです。大刑(大逆等の大罪)は甲兵を使い(死刑)、その次は斧鉞を使い(死刑)、中刑は刀鋸を使い宮刑や脚を切断する刑)、その次は鑽笮(錐等、切削用の工具)を使い(刺青の刑)、薄刑は鞭扑(鞭や棒)を使うものです。この五刑によって民に威信を示すことができます。罪悪が大きい者は死体を原野に晒され、小さい者は市朝(市場や朝廷)に晒されます。これら五刑三次(五刑と三つの場所)はどれも隠すことがありません。しかし今、晋は鴆によって衛侯を暗殺しようとしましたが失敗し、その使者(医者)を裁くこともありませんでした。暗殺の悪名を恐れるからです。今、もしも諸侯が衛侯の釈放を求めたら、晋は聞き入れるでしょう。地位が均しい者は互いに関心をもつといいます。関心をもつから親しくできるのです。諸侯を禍患が襲ったら、他の諸侯はそれを憐れむべきです。こうすることで民を教化できます。主公は衛君の釈放を請い、諸侯に親しみを示して晋を動かすべきです。晋は諸侯を得たばかりなので『魯は親近の諸侯を棄てなかった。魯との関係を悪化させてはならない』と思うことでしょう。」
釐公は納得し、衛成公を釈放するように請いました。周襄玉と晋文公にそれぞれ十(双玉)を贈ります。
晋文公は衛成公の釈放に同意しました。
 
この後、晋は魯を聘問する時、他の諸侯より一等上の礼を用い、礼物も同等の諸侯より厚くしました。
 
後に帰国した衛成公は臧文仲のおかげで釈放されたと知って礼物を贈りました。しかし臧文仲は受け取らずこう言いました「外臣(他国の臣)の言は国境を越えないといいます。衛君と直接関係をもつつもりはありません。」
 
[] 秋、周襄王が衛成公を釈放しました。
衛成公は衛国の周治厪に財物を贈ってこう伝えました「わしを国に入れたら汝等を卿に立てよう。」
二人は元咺と衛君・瑕および子儀(瑕の同母弟)を殺して成公を迎え入れました。
 
成公が国都に入り、太廟で先君の祭祀を行いました。卿の任命は太廟で行われるため、周治厪は礼服を着て太廟に向かいます。ところが先に太廟に入ろうとした周門に至って突然発病し、死んでしまいました。冶厪は恐れて卿を辞退しました。

以上は『春秋左氏伝(僖公三十年)』の記述です。『史記・衛康叔世家』は大きく異なります。
『衛康叔世家』では、城濮の戦い(二年前)の前に晋に逆らった成公は、大夫元咺に攻撃されて陳に出奔しました。
二年後、成公は陳からに入って帰国の協力を求めます。その後、成公は晋の赦しを請うために晋文公と会見することにしました。しかし晋はを送って毒で衛成公を殺そうとします。それを知った成公毒を扱う者に賄賂を贈って毒を薄めさせました。そのおかげで成公は死にませんでした。
王室が晋文公に衛成公を赦すよう求めたため、成公はやっと衛に帰国できました。
元咺は誅殺され、衛は出奔しました
史記』の注隠)公子(衛君)は殺されたのであり、出奔は誤りとしています
 
[] 九月甲午(初十日)、晋と秦が鄭を包囲しました。晋は函陵に、秦は氾水南に駐軍します。
 
晋軍が鄭城を攻め、陴女垣。城壁の低くなっている部分)を破壊しました。鄭が名宝を賄賂にして講和を求めましたが、文公は拒否してこう言いました「叔詹を引き渡せば兵を還す。」
叔詹は亡命中の晋文公(重耳)が鄭を通った時、鄭文公に「重耳を礼遇するべきですが、それができないのなら殺した方がいい」と進言しました。晋文公はこれを怨んでいます。
詹が晋陣に行こうとしましたが、鄭文公は許可しませんでした。叔詹が言いました「一臣によって百姓が赦され、社稷を安定させることができるのです。主公はなぜ臣を惜しむのですか。」
叔詹の意志が変わらないため、鄭文公は叔詹を晋陣に送りました。
 
晋文公は叔詹を煮殺そうとしました。すると叔詹が言いました「死ぬ前に臣の話を聞いていただきたい。」
晋文公が許すと、叔詹が言いました「天が禍を鄭に降らせ、曹国のように無礼を働かせました。これは礼を棄てて親族に背くことです。そこで臣は国君にこう諫言しました『晋公子は賢明で、その左右に仕える者も皆、卿の才をもっています。もしも国に帰ったら諸侯の間で志を得るでしょう。禍から逃れることはできません。』今、その禍が来ました。公子の賢を尊んで禍患を予知したのは智です。自分の身を殺して国を助けるのは忠です。」
叔詹は自ら鼎に向かい、鼎の耳を握って大声で言いました「今後、忠によって主君に仕える者は、皆、私と同じ最期をむかえることになるであろう!」
晋文公は叔詹を殺さず、厚く遇して鄭に送り返しました。
鄭文公は叔詹を将軍に任命しました。

以上は『春秋左氏伝』の記述です。『史記』の『晋世家』『鄭世家』では、叔瞻自殺しています。以下、『鄭世家』からです。
晋は叔詹を得て処刑しようとしていました。鄭文公は恐れて叔に話しませんでしたが、叔はそれを知って鄭君にこう言いました「臣が主公に進言したのに、主公が聞かなかったので、ついに晋がになってしまいました。しかし晋がを包囲しているのはのためです。が死んで国が助かるのなら、それはの願いです。
自殺しました
鄭人は叔の死体を晋に送ります
ところが晋文公「鄭君に一目会って辱めることができたら去る(『晋世家』では「鄭君を得なければ満足できない」と伝えました。
鄭人は恐れて秦軍に使者を送ることにしました。



次回に続きます。

春秋時代72 東周襄王(三十二) 晋秦の不和 前630年(2)