春秋時代73 東周襄王(三十三) 趙衰の三譲 前629年

今回は東周襄王二十四年です。
 
襄王二十四年
629年 壬辰
 
[] 三年前、晋が曹共公を捕え、曹国の領土を占領しました(東周襄王二十一年、632年)
曹共公は釈放されて国に戻りましたが、曹国の国境が定められていません。そこで晋文公は曹国から得た一部の地を分割して諸侯に与えることにしました。
春、魯釐公は曹地を得るために臧文仲を晋に派遣しました。臧文仲は重(魯地)の賓館に宿泊します。すると重館の者(館を守る僕役)が言いました「晋は覇者になったばかりなので、諸侯の信望を得るために、罪のある国(曹)の地を諸侯に分けようとしています。諸侯は多くの土地を得たいと思い、また晋と親しくしようと思っているので、先を争って晋に赴くはずです。晋は古くからある諸侯の序列を重視するのではなく、真っ先に駆けつけた恭敬な国と親しくするはずです。あなたは速く晋に行くべきです。魯は本来の序列でも高位にあります。その上、晋に入るのも先んじれば、諸侯でかなう者はいません。あなたがここでゆっくりしていたら、間に合わなくなります。」
臧文仲は納得して晋に急行し、広大な地を与えられました。洮水以南で東は済水に至る地が曹から魯に割譲されます。
 
帰国した臧文仲が釐公に言いました「多くの地を与えられたのは、重館の者のおかげです。『ある人の善行が明らかになったら、たとえ身分が低くても賞しなければならない。ある人の悪行が発覚したら、たとえ身分が高くても罰しなければならない(善有章,雖賤賞也。悪有覚,雖貴罰也)』といいます。彼の一言で領土を拡大することができました。その功績はとても大きなものなので、厚く賞するべきです。」
釐公は館の者を僕役から抜擢し、大夫に任命しました。
 
後日、襄仲(公子・遂)が晋に行き、正式に曹の地を受領しました。
 
[] 夏四月、魯釐公が郊祭について四回卜いましたが、全て不吉と出たため、郊祭を行わず犠牲も殺しませんでした。
しかし三望は行いました。三望とは泰山・淮水・東海の祭祀です。
『春秋左氏伝僖公三十一年)』はこれを非礼なこととして非難しています。まず、郊祭は天を祭る通常の祭祀なので、これを行うかどうかを卜うのは誤りです。卜の内容は祭祀で用いる犠牲や祭祀の日時を対象にするべきであり、郊祭そのものの実施について卜うべきではありませんでした。また、三望は郊祭の一環なので、郊祭をしないのに望祭だけをするのも礼に背くことでした。
 
[] 晋の上軍の将・狐毛が死んだため、文公は趙衰を代わりにしようとしました。上軍の将は正卿となり、国政を担うことになります。しかし趙衰はこう言いました「城濮の役では先且居が軍を補佐して功を立てました。軍功を立てた者、主君を正しく導いた者、自分の職責を全うした者には賞を与えるべきです。且居にはこの三賞が当てはまるので、用いないわけにはいきません。そもそも、臣と同等の者には箕鄭、胥嬰、先都(三人とも大夫)がいます。」
文公は先且居を上軍の将に任命しました。
文公が言いました「趙衰は三讓した(卿の地位を三回辞退したこと。東周襄王二十年、633年の二回と今回)。しかも彼が譲った人材は全て社稷の衛(守り)となった。謙譲を称賛しなかったら徳を廃れさせることになる。」
 
秋、晋が清原で蒐(狩猟。閲兵。軍事訓練)し、五軍を設けて狄の備えとしました。
晋は元々三軍(車兵)と三行(歩兵)がありましたが、今回、三行を解散して全て車兵としたようです。新上軍と新下軍が新設されました。新たに軍を置いたのは、趙衰を卿(将)に任命するためです。
文公は趙衰を新上軍の将に、箕鄭を佐に任命し(下述)、胥嬰を新下軍の将に、先都を佐に任命しました。
 
暫くして上軍の佐・狐偃が死にました。
蒲城伯先且居。霍を食邑としたため霍伯ともいいます)は上軍の将から佐に位を落とすことを請います。しかし文公はこう言いました「趙衰は三讓して義を失わなかった。譲とは賢人を推すことであり、義とは徳を広めることである。徳が広くなれば賢人も集まるだろう。趙衰を上軍の佐に任命して汝に従わせることにする。」
趙衰は新上軍の将から上軍の佐になりました。上軍の方が新上軍よりも上位にあるため、趙衰は一等昇格したことになります。
 
かつて晋を飢饉が襲った時、文公が大夫・箕鄭(箕鄭父)に聞きました「どうすれば救済できるか?」
箕鄭が答えました「信を守るべきです。」
文公が「どうすれば信を守ることができるか?」と問うと、箕鄭が言いました「国君の心に信を用い(国君の私情で臣下の善悪を判断しないという意味です)、名分(君臣・百官の尊卑・等級)に信を用い、政令に信を用い、民事(農務・労役)に信を用いれば、信を守ることができます。」
文公が問いました「それらを実行したらどうなる?」
箕鄭が言いました「君心が信を用いれば善悪が入り乱れることなく、名分に信を用いれば上下が立場を侵すことなく、政令に信を用いれば農事が影響を受けることなく収穫が約束され、民事に信を用いれば民が事業に従事して成果を納めることができます。その結果、民は君心を理解し、貧しくても憂いとせず、富貴の者は自分の家のために金銭を使うように、余った財産を救済に使うようになります。これなら国が困窮することありません。」
文公は箕鄭を箕大夫(箕地の守官)に任命し、清原の蒐で新上軍の佐に抜擢しました。
 
[] 『資治通鑑外紀』はここで晋文公の鄴討伐について書いています。『呂氏春秋・不苟論』と『新序・雑事第四』の一部が元になっています。以下、『呂氏春秋』からです。
晋文公が鄴を攻撃しようとした時、趙衰が策を献じました。文公は趙衰の策を用いて鄴を破ります。
凱旋した文公が論功行賞を行おうとすると、趙衰が言いました「国君は戦勝の本(根本)を賞するつもりですか、末(末端)を賞するつもりですか。末を賞するつもりなら、車に乗って戦った戦士がいます。本を賞するつもりなら、臣は郤子虎の言に従っただけのことです。」
文公は郤子虎を召して言いました「趙衰の進言によって鄴に勝つことができたから彼を賞そうとしたら、彼は『子虎の言を聞いただけなので、子虎を賞するべき』と言った。」
郤子虎が言いました「言うは易く、行うのは難しいものです(言之易,行之難)。臣は言うだけの者です。」
しかし文公が「汝は賞を辞退してはならない」と言ったため、郤子虎は拝受しました。
呂氏春秋』はこの一件をこう論評しています。
「賞を与える時は対象を広くするべきである。対象が広ければより多くの助けを得ることができる。郤子虎は彼自身が進言したわけではないが、賞を得ることができた。こうすることで国君との関係が疎遠な者でも才智を尽くすようになる。晋文公は久しく亡命しており、帰国してからも大乱の余波が残っていた。それでも覇を称えることができたのは、このおかげであろう。」
 
資治通鑑外紀』はこれ以外にも晋文公に関して複数の記述を紹介していますが、別の場所で書きます。

春秋時代 晋文公

 
[] 冬、杞伯姫(杞国に嫁いだ魯荘公の娘。東周恵王八年、669年参照が魯に来て、自分の子の婚姻相手を求めました。
 
[] 冬十二月、狄が衛を包囲しました。衛は楚丘から帝丘に遷ります。衛成公が卜を行うと「三百年」と出ました。
 
衛成公が夢で康叔(衛の祖)に会いました。康叔がこう言いました「相(夏帝・啓の孫。中康の子。帝丘に住みました)がわしの祭祀を奪う。」
成公は相に康叔の祭祀を奪わせないために、相の祭祀を行うことにしました。すると甯武子が反対して言いました「鬼神は同族でなければ祭祀を受けないものです。杞とはなぜ祭祀をしないのでしょうか(両国は夏の子孫なのに相の祭祀をしていません。同族ではない衛が祀る必要はない、という意味です)。相は祀られなくなって久しくなりますが、これは衛の罪ではありません。成王と周公が定めた祭祀を変えてはなりません(諸侯の祭祀は周王によって決められました。衛も建国時に成王と周公・旦から祭祀の対象を指示されました)。相の祀に関する命を撤回するべきです。」
成公は命令を撤回しました。
 
[] 鄭の大夫・洩駕は公子・瑕を嫌い、鄭文公も公子・瑕を嫌っていました。そのため公子・瑕は楚に奔りました。
 
 
 
次回に続きます。