春秋時代 晋文公

資治通鑑外紀』は東周襄王二十四年(前629年)に晋文公に関する複数の記述を紹介しています。

春秋時代73 東周襄王(三十三) 趙衰の三譲 前629年

以下、まとめて書きます。
 
まずは『国語・晋語四』からです。
文公は臼季(胥臣)から書籍を学びました。三日後、文公が言いました「わしの能力では、書籍に書かれたことを少しも実行できない。しかし見聞は多くなった。」
臼季が言いました「読書によって見聞を増やし、能力がある者が現れたら実行させればいいでしょう。(たとえ自分で実行できないとしても)読書をしないよりもした方がいいのです。」
 
 
次も『国語・晋語四』からです。
文公が郭偃(卜偃)に言いました「始めは国を治めるのは容易だと思っていた。しかし今は難しいと思うようになった。」
郭偃が言いました「主公が簡単だと思ったら難しくなるものです。逆に難しいと思ったら、簡単になるものです。」
 
 
次は『新序・雑事第二』からです。
文公が碭山で狩りをして獣を逐い、大沢で道に迷いました。
暫くして漁夫を見つけたため、文公が言いました「わしは国君だ。この道をどこに向かえばいいか教えたら、厚く賞賜を与えよう。」
漁夫が言いました「臣が道を案内します。」
文公が言いました「大沢を出ることができたら賞しよう。」
文公は漁夫の後に従って大沢から出ました。
文公が言いました「汝から寡人(私)に諭すことはないか。ぜひ聞きたいものだ。」
漁夫が言いました「檻鵠(大鳥)は大河や海洋の上を飛べば命を守ることができますが、それに飽きて小沢に移ったら猟師の獲物になってしまいます。また、黿鼉(大亀)は深淵にいれば命を守ることができますが、それに飽きて浅瀬に出たら漁師の獲物になってしまいます。今、国君は獣を逐ってここまで来ましたが、遠くまで来すぎたのではありませんか。」
文公は漁夫の諫言を称賛し、従者にその名を記録させようとしました。後日、厚く賞するためです。
すると漁夫が言いました「国君とは何によって名を成すものでしょうか。国の主となる者は、天を尊び地に仕え、社稷を敬い四国(国境)を固め、万民を慈愛するものです。賦税が軽くなるのなら、臣にとっては充分です。逆に国君が社稷を敬わず、四国を固めず、外は諸侯に対して礼を失い、内は民の心に逆らい、その結果、国が滅ぶことになったら、厚く賞せられても身を守ることができません。」
漁夫は頑なに賞賜を断り、「国君は前に進んで国にお帰りください。臣はまた漁所に帰るだけです」と言って去りました。
 
 
次は『新序・雑事第四』からです。
文公が虢の地で狩猟をした時、一人の老夫に会いました。文公が虢国滅亡の理由を聞くと、老人はこう答えました「虢君は決断することができず、諫言を聞くこともできませんでした。決断力がなく人を用いることもできなかったのが、虢が滅んだ理由です。」
文公は狩猟を終えて帰ると、趙衰にこの話をしました。趙衰が言いました「その人は今どこにいますか?」
文公が言いました「彼と一緒に帰っては来なかった。」
趙衰が言いました「古の君子は立派な言を聞いたらその人を用いたものです。しかし今の君子は、言を聞いてもその身(人)を棄てるのですか。悲しいことです。これは晋国の憂いになるでしょう。」
文公は老人を召して賞しました。
この後、晋は善言を積極的に採用するようになり、文公は霸者になることができました。
 
趙衰の言葉は同じく『新序 雑事第四』に書かれている斉管仲の言葉(郭の古城から帰った桓公に言った内容)に似ています。

春秋時代 覇者 斉桓公(二)

 
 
最後は『国語・晋語四』からです。
文公が胥臣に問いました「わしは陽処父を讙(文公の子。後の襄公)の傅(教育係)に任命して教育させたいと思うが、うまくいくだろうか?」
胥臣が言いました「それは讙しだいです。蘧(体を曲げることができない障害)の者に体を屈めさせことはできません。戚施(ひどい猫背)の者に空を仰ぎ見させることはできません。(伝説上の小人の国。ここでは極端に小柄な人)に重い物を持ち挙げさせることはできません。侏儒(背が低い人)に物を高く挙げさせることはできません。矇瞍(目が見えない人)に物を見させることはできません。嚚瘖(声を出せない人)に話をさせることはできません。聾聵(耳が聞こえない人)に音を聞かせることはできません。童昏(無知蒙昧の者)に謀をさせることはできません。学ぶ者の本質が優れていて、しかも賢良の者が導けば、必ず成果があるでしょう。しかし学ぶ者の本質が邪悪では、教育しても身につけることができず、善良にすることもできません。昔、大任は文王を妊娠しても体が変わることなく、豕牢(厠)で小便をした時に文王を産み、全く苦痛がなかったといいます(または厠で小便をするように簡単に産んだため、苦痛がなかった。原文は「少溲於豕牢」。文王は胎児だった時も母の負担にならず、傅(教育係)に苦労をかけることもなく、師を煩わせることもなく、王(父・王季)を怒らせることもなく、二虢文王の弟・虢仲と虢叔)を友愛し、二蔡(文王の子・管叔と蔡叔)慈し、自ら大姒(文王の妻)の手本となり、諸弟同宗の弟)と親しみました。『詩経大雅・思斉)』にはこうあります『自分の妻に善を教え、兄弟にそれを及ぼし、家と国をうまく治めた(刑于寡妻,至于兄弟,以御于家邦)。』こうして四方の賢良を用いることができたのです。即位してからは『八虞周八士。八人の虞官。虞官は山沢を管理する官。伯達・伯括・仲突・仲忽・叔夜・叔夏・季隨・季騧)』に意見を求め、『二虢』と相談し、閎夭や南宮适と謀り、蔡公・原公・辛甲・尹佚(四人とも太史)を訪ね、周公(旦)・邵公(奭)・畢公(高)・栄公を重んじ、百神を安寧にし、万民を安楽にしました。だから『詩経大雅・思斉)』にこうあります『先公を敬って神霊が怨むことがない(恵于宗公,神罔時恫)。』このような文王の業績は、教育だけによるものではありません(本質が優れていたのです)。」
文公が言いました「それでは教育とは無益なのか。」
胥臣が答えました「文というのは本質を更に美しくするためにあるのです。だから人は生まれたら学問をしなければなりません。学ばなければ正道に入ることができないのです。」
文公が問いました「それでは八疾(前述の八種類の短所)の者はどうすればいいのだ。」
胥臣が言いました「官がその長所を使えばいいのです。戚施は体を曲げて鐘を敲くことができます。蘧は体を真っ直ぐにしたまま玉磬を持たせることができます。侏儒は矛戟を持たせて雑技をさせることができます。矇瞍は声を修めさせる(楽器を演奏させる)ことができます。聾聵には火を管理させることができます。童昏、嚚瘖、僥は官師にとっては役に立ちませんが、辺境に送って開拓を命じることができます。教育とは内在する能質(能力・本質)によって長所を育てるものです。川の源を海に導いて流れを大きくするのと同じことです。」