春秋時代74 東周襄王(三十四) 秦の東進 前628年

今回は東周襄王二十五年です。
 
襄王二十五年
628年 癸巳
 
[] 春、楚が章を晋に派遣して和平を請いました。晋の陽処父は楚に答礼します。晋と楚の交流が再開しました。
 
[] 夏四月己丑(十五日)、鄭文公が在位四十五年で死に、太子・蘭が即位しました。これを穆公(繆公)といいます。
 
[] 狄で乱が起きたため、衛が狄を攻めました。前年の報復です。
狄は講和を求めました。
 
秋、衛と狄が盟を結びました。
 
[] 冬十二月己卯(初九日)、晋文公・重耳が在位九年で死にました。
庚辰(十日)、文公の殯(棺)を曲沃に運ぶため群臣が絳を出た時、霊柩の中から牛の声が聞こえました。
卜偃が大夫達に棺を拝させて言いました「国君(文公)が大事(軍事)の命を発した。西師(秦軍)が国境を越えて我が国を侵す。これを撃てば必ず大勝する。」
 
文公の子・襄公が即位しました。
襄公の名は『春秋』では「驩」、『春秋公羊伝』では「讙」、『史記・晋世家』では「歓」と書かれています。
 
[] 晋文公の末年、諸侯が晋を朝見しましたが、衛成公は朝見せず、孔達に鄭の緜、訾、匡を攻撃させました。
 
[] 鄭に駐軍している秦の杞子が使者を送って秦穆公にこう伝えました「鄭人が私に北門の鍵を任せました。秘かに兵を進めれば鄭国を得ることができます。」
穆公が蹇叔に意見を求めると、蹇叔は反対して言いました「師(軍)をわずらわせて遠い国を攻撃するとは、聞いたことがありません。師を疲労させて力を尽くしても、遠国の主には既に備えがあるはずなので、成功すると思えません。師の行動は必ず鄭に察知されます。努力しても得るものがなければ、士兵に不満が生まれます。千里の行軍を誰が知らないでいられるでしょう。」
穆公は諫言を聞かず、孟明百里孟明視。百里奚の子。百里は氏、孟明は字、視は名)、西乞、白乙(西乞は西乞術、白乙は白乙丙。術と丙が名ですが、西乞と白乙が氏なのか字なのかははっきりしません)を召して東門から出兵させました。
蹇叔が泣いて言いました「孟子(孟明視)よ、わしは師が出る姿を見ることはあっても、入る姿を見ることはないだろう。」
穆公が人を送って蹇叔に伝えました「汝に何が分かる。汝が中寿(七十歳前後で死ぬこと。諸説あります)なら、すでに汝の墓の木が拱すくらいまで育っているであろう(拱は両手を組み合わせることで、ここでは複数の木が抱き合うように大きく育つことを例えています。もし七十歳前後で死んでいたら、すでに墓の木が大きく育っていたはずだ、という意味です。この時、蹇叔は中寿の歳を過ぎても長く生きていたため、耄碌して何も分からないはずだ、という意味になります)。」
蹇叔の子が軍中にいたため、蹇叔は泣いて子に言いました「晋は必ず殽(崤)で守る。殽には二陵(山)がある。そのうちの南陵は夏后皋(夏帝・皋。桀の祖父)の墓であり、北陵(東崤山)は文王が風雨を避けた場所である。汝は必ずその間で死ぬ。わしが汝の骨を拾ってやろう。」
秦軍は東に向かいました。
 
以上は『春秋左氏伝僖公三十二年)』の記述です。『史記・秦本紀』は少し異なります。以下、『史記』からです。
ある鄭人(『史記・鄭世家』では司城繒賀が鄭を裏切って秦穆公にこう言いました「私は城門を管理しています。鄭を襲うべきです。」
穆公が蹇叔と百里奚に意見を求めると、二人はこう言いました「数国を経て千里も離れた人を襲っても、利を得るのは稀です。また、鄭を売る鄭人がいるのですから、我が国の者で我が国の状況を鄭に伝える者もいるでしょう。兵を出してはなりません。」
ところが穆公はこう言いました「子(あなた)は分かっていないのだ。わしの意思は決まっている。」
穆公は百里奚の子・孟明視と蹇叔の子・西乞術および白乙丙に兵を率いて鄭を攻撃させました。
出発の日、百里奚と蹇叔が軍に向かって泣きました。それを聞いた穆公が怒って言いました「わしが兵を発するというのに、なぜ我が軍を阻んで泣くのだ。」
二老が言いました「臣は国君の軍を阻もうというのではありません。臣の子も従軍しています。臣は年老いたので、軍が還るのが遅くなったら二度と会うことができなくなるでしょう。だから泣いたのです。」
二老は穆公の前から退いて自分の子に言いました「汝の軍が敗れるとしたら、殽の狭道においてだ。」
 
史記・秦本紀』は西乞術と白乙丙を蹇叔の子としていますが、恐らく誤りです。蹇叔の子も従軍していますが、帥ではありません。
また、史記・秦本紀』には百里奚が出てきますが、『春秋左氏伝』には出てきません。この時、百里奚は既に死んでいたのかもしれません(生きていたとしたら百歳前後のはずです)
 
 
 
次回は殽の戦いです。