春秋時代76 東周襄王(三十六) 箕の戦い 前627年(2)

今回は東周襄王二十六年の続きです。
 
[] 晋の喪に乗じて狄が斉(晋の同盟国)を侵しました。
 
[] 魯釐公が邾を攻め、訾婁(または「訾楼」「叢」)を取りました。升陘の役(東周襄王十五年、前638年)の報復です。
秋、邾が備えをしなかったため、魯の襄仲(公子・遂)が再び邾を攻めました。
 
[] 白狄(狄の一種。隗姓とも釐姓とも姮姓ともいわれています)が晋を攻めて箕に至りました。
八月戊子(二十二日)、晋襄公が狄を箕で破り、郤缺が白狄子(白狄の主)を捕えました。
戦闘が始まった時、先軫が言いました「匹夫は主君の前で横暴な振る舞いをしたが(無礼な発言をして唾を吐いたこと。前回)、誅されなかった。自分で罰を受けなければならない。」
先軫は冑を脱いで狄軍に突撃し、戦死しました。
狄人から晋に返された先軫の死体はまるで生きているようでした。
 
以前、臼季(胥臣)が冀を通った時、ある男が田を耕していました。その妻が食物を運び、恭しく夫に渡します。その恭敬な姿は賓客を遇するように礼儀正しいものでした。
臼季が名を聞くと、かつて文公を殺そうとした冀芮(郤芮。東周襄王十七年、636年参照の子・冀缺だとわかりました。臼季は冀缺と共に帰国し、文公に「臣は賢人を得ることができました」と言って冀缺を紹介しました。
文公が問いました「なぜ彼が賢人だと分かるのだ?」
臼季が答えました「敬とは徳が集まったものです。敬があれば必ず徳があり、徳があれば民を治めることができます。また、門を出たら賓客のように礼儀正しく、事を行う時は祭祀のように厳かであること、これが仁の準則です。主公は彼を用いるべきです。」
文公が言いました「彼の父は罪を犯したが、用いても問題ないか?」
臼季が答えました「彼は国の良才です。前悪にこだわるべきではありません。昔、舜は鯀を罰して放逐しましたが、その子の禹を推挙しました。管敬仲は桓公を害しようとしましたが、相に任命して成功しました。『康誥尚書』にはこうあります『父が慈しまなければ子が敬うことはなく、兄が友愛でなければ弟は恭順にならない。このような場合は父子も兄弟も互いに関係することはない(父不慈,子不祗,兄不友,弟不共,不相及也)。』また『詩経(邶風・谷風)』にはこうあります『蕪を採れ。大根を採れ。根だからといって棄ててはならない(葑采菲,無以下礼)。』主君はその節(長所)を選んで用いればいいのです。」
文公は冀缺を引見し、下軍大夫に任命しました。
 
晋軍が箕から還ると、襄公は三命(諸侯の命には一命、再命、三命があり、数が大きいほど重要な内容になります)によって上軍の将・先且居(先軫の子)を中軍の将に任命しました。これ以前は先軫が中軍の将を勤めていましたが、箕で戦死したためです。
また、襄公は胥臣に「郤缺(冀缺)を推挙したのは汝の功である」と言って称賛し、再命によって大夫・先茅の県を与えました。先茅は後継者がいなかったため、その地が胥臣に譲られたようです。
最後に一命によって冀缺を卿に任命し、冀の地を与えました。但し軍職はありません。
 
[] 冬十月、魯釐公が斉に入朝し、狄による侵攻を慰労しました。
十二月、釐公が魯に帰りました。
乙巳(十一日)、釐公が小寝(寝室)で死にました。在位三十三年になります。子の興が即位しました。これを文公といいます。
 
[] 魯で霜が降りましたが草が枯れることなく、李梅が実をつけました。
 
[] 晋・陳・鄭が許を攻めました。許が楚に近づいたためです。
 
[] 楚の令尹・子上が陳と蔡を攻めました。陳と蔡は楚と講和します。
楚は鄭を攻めて公子・瑕(二年前に鄭から楚に出奔しました)を鄭に入れようとしました。
楚軍が桔(鄭の遠郊の門)を攻めましたが、公子・瑕は戦車が周氏の汪(池)で横転し、鄭の外僕・に捕えられてしまいました。
鄭穆公は公子・瑕を処刑し、文公夫人(恐らく公子・瑕の母)が死体を鄶城の下に埋葬しました。
 
[十一] 晋の陽処父が蔡を攻めました。
楚の子上が蔡を援け、晋軍と泜水を挟んで駐軍します。
陽処父は楚軍との衝突を憂慮し、子上にこう伝えました「文は順(秩序)を犯さず、武は敵を避けない(文不犯順,武不違敵)という。汝が戦いを欲するのなら、我が軍は一舍(三十里)を退こう。汝が川を渡って陣を構えた後、いつ戦うかは汝次第だ。そうしないのなら兵を還せ。師を疲労させて財を費やすのは無益だ。」
陽処父は車に乗って楚軍の前進を待ちました。
子上が川を渡ろうとすると大孫伯(成大心。子玉の子)が言いました「いけません。晋人は信用できません。もしも川を途中まで渡った時に攻撃されたら、敗れて後悔することになります。兵を退くべきです。」
子上は進言に同意し、晋軍を誘うために一舍撤退しました。
すると陽処父が言いました「楚師が逃走した!」
陽処父は晋軍の勝利を宣言して兵を引き上げました。楚軍も撤兵します。
 
かつて楚成王が商臣を太子に立てようとした時、子上が反対しました(翌年に書きます)。そのため、太子・商臣が子上を讒言して言いました「子上は晋の賄賂を得て戦いを避けました。これは楚の恥であり、これ以上の罪はありません。」
楚成王は子上を殺しました。
 
[十二] 魯が釐公(僖公)の葬儀を準備しましたが、神主(位牌)の作成が遅くなりました(二年後に再述します)。これは非礼なことでした。



次回に続きます。