春秋時代77 東周襄王(三十七) 楚成王の死 前626年

今回は東周襄王二十七年です。
 
襄王二十七年
626年 乙未
 
[] 春正月、魯の文公が即位しました。
古代の中国では、国君が死んだらすぐに後継者を決めましたが、正式に即位をするのは年が改まってからのことでした。前君が死んだ翌年が新君の元年になります(魯釐公は前年十二月十一日に死にましたが、十二月末日まで釐公三十三年で、本年正月朔日から文公元年になります)
 
[] 二月癸亥(二月晦、もしくは三月朔)、日食がありました。
 
[] 天王(周襄王)が内史・叔服を魯に送って釐公の葬儀に参加させました。
 
魯の公孫敖(慶父の子。孟孫氏)叔服が人相を看る能力があると聞いて二人の子を会わせました。叔服が言いました「穀(文伯)はあなたの代わりに祭祀を行い(孟孫氏を継ぐという意味です。公孫敖は後に出奔し、文伯が孟孫氏を継ぎました)、難(恵叔)はあなたの葬儀を行うでしょう。穀は下(あご)が豊かです。子孫は魯国で大きくなります。」
 
『春秋左氏伝(文公元年)』にはこの年に「閏三月」があったと書いていますが、恐らく誤りで、三月の後は四月になります(楊伯峻『春秋左伝注』参照)
 
夏四月丁巳(二十六日)、魯が僖公を埋葬しました。
 
[] 周襄王が毛伯・衛を魯に送って文公に命を与えました。文公が正式に諸侯に認められます。
魯の叔孫得臣が答礼のため周都に向かいました。
 
[] 晋文公の末年(東周襄王二十五年、前628年)、諸侯が晋を朝見しましたが、衛成公は朝見せず、孔達に鄭の緜、訾、匡を攻撃させました。
晋文公が死に、襄公が小祥の祭祀を終わらせると、晋は諸侯に衛討伐を宣言しました。小祥は葬礼の一つで、父母の死後十三カ月目に行われます。晋文公は東周襄王二十五年(前628年)十二月に死んだので、翌年(前627年。前年)十二月が小祥になります。
 
衛に向かった晋軍が南陽に至ると、先且居が襄公に言いました「他者の誤り(衛成公が晋文公に朝見しなかったこと)にならったら禍を招きます。主公は王を朝見するべきです。臣が師(軍)を指揮します。」
先且居と胥臣が衛に進軍し、襄公は温で周襄王に朝見しました。
 
五月辛酉朔(初一日)、晋軍が衛の戚を包囲しました。
六月戊戌(初八日)、晋軍が戚を占領して孫昭子(孫荘子・級)を捕えました(戚は孫子の采邑です)
 
[] 魯の叔孫得臣が京師に入りました。
 
[] 衛が晋に攻撃されていることを陳に伝えました。
陳共公はこう言いました「晋に反撃するべきです。その間に我が国が晋との講和を調停しましょう。」
衛の孔達が晋を攻撃しました。
 
[] 秋、晋が衛から戚田を占領したため、諸侯と国境を定めました。魯の公孫敖も会に参加し、戚で晋襄公に会いました。
 
[] 以前、楚成王が商臣を世子(太子)に立てようとした時、令尹・子上が言いました「主公はまだ老いていません。しかも多数の寵妃がいます。太子を立てながら後日廃することになったら、乱を招きます。楚国は通常、年少者を太子に立ててきました。そもそも商臣は蜂のような目をもち、豺狼のような声をした残忍な人物です。太子に立ててはなりません。」
成王は諫言を聞かず、商臣を太子に立てました。
 
しかし後に成王は王子・職(成王の庶弟)を後継者に立てたいと思うようになりました。
それを聞いた太子・商臣は、師・潘崇に言いました「どうすれば王の考えを確認できるだろう。」
潘崇が言いました「江羋を宴に招いてわざと不敬な態度をとればわかります。」
江羋は江国(嬴姓)に嫁いだ女性で、成王(羋姓)の妹にあたります。
商臣は潘崇の言に従って江羋を宴に誘い、わざと不遜な態度をとりました。江羋が怒って言いました「役夫(賤しい者)!君王が汝を殺して職を立てようとするのは当然だ!」
 
商臣が潘崇にいました「私を廃そうというのは本当だ。」
潘崇が言いました「公子・職に仕えることができますか?」
商臣が答えました「できない。」
潘崇が聞きました「国を去ることができますか?」
商臣が答えました「できない。」
潘崇が聞きました「大事を成すことができますか?」
商臣が答えました「できる。」
 
冬十月丁未(十八日)、商臣が宮甲(太子宮の兵)を率いて成王を包囲しました。
成王は死ぬ前に「熊蹯(熊掌)を食べたい」と言いました。熊蹯の料理は時間がかかるので、時間稼ぎの意味があります。しかし商臣は拒否しました。
成王は首を吊って死にました。在位四十六年のことです。
 
商臣が即位しました。これを穆王といいます。
穆王は成王の諡号を「霊」としましたが、死体が瞑目しないため「成」に改めました。成王はやっと瞑目しました。「霊」は国を乱した国君に与えられる悪諡で、「成」は国を安定させた国君に与えられる美諡です。
 
尚、成王の名は『史記・楚世家』では「熊惲」ですが、『春秋』は「頵」、『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』は「髠」としています。
 
穆王は太子だった時の財物や僕妾を全て潘崇に与え、大師(太師)に任命して環列之尹(宮廷を警護する官)を任せました。
 
[] 魯の穆伯(公孫敖)が斉に入りました。文公が即位したばかりだったため、斉との旧交を温めることが目的です。
 
[十一] 殽の役(東周襄王二十六年、前627年)の後、晋は秦軍の将帥(孟明視等)を帰国させました。
秦の大夫や穆公の近臣が言いました「敗戦は孟明の罪です。処刑するべきです。」
しかし穆公はこう言いました「敗戦は孤(私)の罪だ。周の芮良夫西周厲王の卿士)の詩詩経・大雅・桑柔)にこうある『大風が吹き荒れ、貪婪が自分の善を損なう。貪悪の者は人の言葉に口をはさみ、『詩』『書』の教えを見たら眠くなる。善を用いることなく、逆に自分を誤らせる(大風有隧,貪人敗類,聴言則対,誦言如醉,匪用其良,覆俾我悖)。』敗戦は孤の貪婪が原因であり、この詩は孤のことを歌っている。孤の貪婪が夫子(孟明)に禍をもたらしたのだ。夫子に罪はない。」
穆公は変わることなく孟明視を信任しました。
 
 
 
次回に続きます。