春秋時代79 東周襄王(三十九) 秦の由余 前625年(2)

今回は東周襄王二十八年の続きです。
 
[] ある日、「爰居」という海鳥が魯に飛んで来て、東門の外に三日間留まりました。臧文仲はこれを神鳥だと思い、国人に祭らせます。
それを知った展禽が言いました「臧孫の政は間違っている。祭祀とは国の大節(大切な制度)であり、節(制度)があるから政治が成功する。だから慎重に祭祀の制度を作り、国典(国法)としなければならない。今、理由もないのに祭典を増やしたが、これは政治を行う正しい方法ではない。
聖王が祭祀を制定した時は、民に法を施した者五帝、商王朝の祖・契および周文王です。人々が暮らしやすくなるために様々な制度を作りました)を祀り、命をかけて国事に勤めた者商王朝の先祖・冥と周王朝の祖・弃です。冥は夏王朝の水官を務め、治水に従事して死んだといわれており、弃は百穀を播くために山に入って死んだといわれています)を祀り、功労によって国を安定させた者(虞幕、王杼、上甲微、高圉、太王です。虞幕は聖人・舜の先祖といわれています。王杼は夏王朝を復興させ、上甲微は商族を、高圉と太王亶父は周族を発展させました)を祀り、大災を防いだ者夏王朝の初代王・禹です。治水に成功しました)を祀り、大患に抵抗した者商王朝初代王・成湯と商王朝を滅ぼした周の武王です。暴君・桀と紂による禍を除きました)を祀った。このような功績がないものが祀(祭祀の対象)に入ることはない。昔、烈山氏炎帝が天下を治めた時、その子・柱が百穀を播き、百蔬(草や実)を育てた。夏王朝が興ると周の始祖・弃がその業を継いだ。そのため柱も弃も稷(五穀の神)として祀られるようになった。共工氏が九州の伯(覇)となった時、その子・后土句龍。黄帝の土官を務めたといわれています)は九土(九州全土)を安定させた。そのため后土は社(土地神)として祀られるようになった。黄帝は百物に名を与え、民の迷いを除き、民と財を共にした。その業は顓頊によって継承された。帝嚳は三辰日・月・星)の規律に基づいて農事を定め、民の生活を安定させた。堯は刑法を公平にして民の規範とした。舜は民事に勤めて野で死んだ(舜は有苗氏を討伐して蒼梧の野で死んだといわれています)鯀は洪水を治めることができず誅殺され、その子・禹は徳によって鯀の事業を完成させた。契は堯の司徒になって民を和睦させ、冥は水官を務めて水死し、成湯は寛容な政治で民を治めて邪(夏桀)を除き、稷は百穀を播いて山で死に、文王は文徳を輝かし、武王は民の穢(殷紂)を除いた。そのため、有虞氏(舜の子孫)黄帝の禘祭、顓頊の祖祭、堯の郊祭、舜の宗祭を行い、夏后氏夏王朝黄帝の禘祭、顓頊の祖祭、鯀の郊祭、禹の宗祭を行い、商人商王朝の禘祭、契の祖祭、冥の郊祭、湯の宗祭を行い、周人周王朝嚳の禘祭、稷の郊祭、文王の祖祭、武王の宗祭を行ってきた。幕(虞幕。虞思。舜の先祖。顓頊の子ともいわれています)は顓頊の功績を守り、有虞氏によってその徳が称えられ、報祭を行われた。杼は禹の功績を守り、夏后氏によってその徳が称えられ、報祭が行われた。上甲微は契の功績を守り、商人によってその徳が称えられ、報祭が行われた。高圉と太王は稷の功績を守り、周人によってその徳が称えられ、報祭が行われた。これら禘(最も古い血脈の祖に対する祀り)・郊(功績がある先祖の祀り。郊外で天と共に祀られました)・祖(開国の祖、始祖に対する祀り)・宗(宗廟で始祖に次ぐ地位にある先祖の祀り)・報(功績ある先祖を称えて行う祀り)の五者こそが国の典祀(祭祀の対象。決まり)である。
これらに加えて社稷(土地と五穀)や山川の神を祭るのは、民に対して功徳をもたらすからだ。また、先人の中で聖哲や美徳をもった者を祭るのは、民に崇拝され、信じられているからだ。天の三辰(日・月・星)を祭るのは、民が仰ぎ見るものだからだ。大地の五行を祭るのは、生殖(事物の誕生と成長)に関係があるからだ。九州の名山・川沢を祭るのは、民の財を生みだすからだ。これらに当てはまらないものは、祀典(典祀と同じ)に入らない。
今、海鳥が我が国に来たが、その理由を知らずに祀って国典(国が祀る対象)とした。これは仁・明(明智)なこととはいえない。仁の人は物事の功罪を検証し、明の人は物事の本質を明らかにするものだ。功がないものを祀るのは仁ではなく、本質を知らず問うこともしないのは明ではない。海鳥が飛んで来たのは、海に災異が発生するからではないか。広川(海)の鳥獣は災異を予知してそれを避けることができるものだ。」
 
この年、海で頻繁に大風が吹いたり、冬になっても暖かい日が続きました。海鳥は自然の異変を察知して魯国に逃げて来たようです。
臧文仲は柳下季(展禽。柳下は展禽の邑。季は字)言を聞いて言いました「確かに私の誤りだ。季子の言は記録して教訓にするべきだ。」
展禽の言葉は三筴(三部の簡書。司馬・司徒・司空の三卿がそれぞれ一部を保管しました)に書き記されました
 

[] 冬、晋の先且居、宋の公子・成(荘公の子)、陳の轅選、鄭の公子・帰生(字は子家)が秦を攻撃し、汪と彭衙を占領して兵を還しました。彭衙の役の報復です。

[] 秦穆公が賢人を得ました。以下、『史記・秦本紀』と『韓詩外伝・巻第九』からです。
戎王は秦穆公が優秀な国君だと聞き、由余を使者にして秦の様子を探りました。由余の先祖は晋人でしたが戎に亡命していました。由余も晋の言葉が話せます。
穆公が宮室や豊富な物資を見せると由余が言いました「これらを鬼神に作らせたのなら、鬼神を煩わせたことでしょう。もし人に作らせたのなら、民を苦しめたことでしょう。古から国を保った者は恭倹でなかったことがなく、国を失った者は驕奢でなかったためしがありません。」
穆公は少し不快になり、こう聞きました「中国(中原)は詩・書・礼楽・法度によって政を行っているが、それでも乱れることがある。戎夷にはこういったものがないから、治めるのは困難であろう。」
由余が笑って言いました「これらがあるから中国は乱れるのです。上古は聖人である黄帝が礼楽・法度を作り、率先して行ったためわずかに小治を得ることができました。しかし後世に及ぶと人々は日々驕淫になり、上の者は法度の威を借りて下の者を逼迫し、下の者は困窮が極まると仁義の政治を求めて上を怨むようになりました。こうして上下が互いに怨み争い、殺し合うようになったのです。宗族を滅ぼすような事件もここから起きています。しかし戎夷は異なります。上は淳朴な徳をもって下を遇し、下は忠信を抱いて上に仕えているので、一国の政治は一身を治めるように自然に行われています。治世の道理など必要ありません。これが真の聖人の治というものです。」
穆公は退出してから内史・廖に問いました「隣国に聖人がいるのは、その敵国にとって憂いになるという。由余は賢人であり、寡人(私)の害になるだろう。」
内史・廖が言いました「戎王は僻地に住み、中国の声色(音楽と女色)を知りません。女楽を送ってその志を奪えば、政治を乱して臣下を疎遠にするでしょう。一方で我々は由余を留めて厚遇し、帰る機会を失わせます。そうすれば戎王は彼を疑うようになります。君臣に間隙が生まれたら、由余を虜にすることができます。」
穆公は由余と曲席(並んで座ること)し、食事の時は食器を交換しあうほど親密に接しました。また、由余から戎の地形や兵力等の情報を聞き出します。同時に内史・廖に命じて女楽二八(十六人)を戎王に贈らせ、由余を暫く秦に滞在させるように請いました。戎王は喜んで女楽を受け入れ、秦の要求に同意しました。
この後、戎王は昼夜宴を開き、音楽を奏でて酒を飲むようになりました。年が暮れても政事を行おうとせず、多くの牛馬が死にました。
それを見届けて穆公は由余を帰国させます。由余は頽廃した戎王をしばしば諫めましたが、戎王が諫言を聴くことはありませんでした。
逆に穆公は頻繁に使者を送って由余の帰順を求めます。由余はついに戎を去り、秦に降りました。
穆公は賓客の礼で由余を遇し、上卿に任命しました。
由余は戎討伐について策謀を授け、穆公の覇業西戎の覇)を助けました。
 
[] 魯の公子・遂が斉に入り幣(玉帛)を納めました。魯と斉は代々婚姻を結んでいます。幣を納めるというのは婚姻による友好関係を強化する意味があります。
 
 
 
次回に続きます。