春秋時代81 東周襄王(四十一) 西戎の覇・秦穆公 前623~622年

今回は東周襄王三十年、三十一年です。
 
襄王三十年
623年 戊戍
 
[] 春、魯文公が晋から帰国しました。
 
[] 晋襄公は衛から捕えた孔達(東周襄王二十八年、625年)を優秀な人材だと認め、帰国させました。
夏、衛成公が晋に入って謝礼しました。
 
[] 曹共公が晋に入って「会正」しました。
当時、小国の諸侯は覇者に対して貢納の義務がありました。「会正」というのは貢納の額を定めることのようです。
 
[] 魯文公が斉に入って婦人を迎えました。卿が行かなかったことが非礼とされました。
 
[] 狄が斉を攻めました。
 
[] 秋、晋襄公が秦を攻め、刓と新城(新里)を包囲しました。王官の役(前年)の報復です。
 
[] 前年、楚が江国を攻めましたが、周と晋が楚を攻撃したため、楚は兵を還しました。
本年、楚が再び出兵して江国を滅ぼしました。
 
秦穆公は江国のために降服(素服。喪服)を着ました。寝室に住まず、宴会や音楽を禁止します。その行いが礼を越えていたため大夫が諫めると、穆公が言いました「同盟した国が滅んだのだ(秦と江は同じ嬴姓の国で、同盟もしていたようです)。救うことはできなかったが、憐れまないわけにはいかない。また、自分を戒めるためでもある。」
 
[] 衛成公が甯武子(甯兪)を魯に送って聘問しました
魯文公は宴を開いて『湛露』と『彤弓』(どちらも『詩経・小雅』)を賦します。しかし甯武子は謝辞も述べず、賦に応えることもありませんでした。
魯文公が行人(賓客の対応をする官)を送って甯武子の意志を確認すると、甯武子はこう言いました「臣は魯君が練習のために賦したのだと思ったのです。昔、諸侯が王に正月の朝賀をする時、王は宴楽を設け、『湛露』を賦しました。天子を陽(太陽)に喩えて諸侯が王命を聞くことを歌っているのです。諸侯は王に敵対する者を自分の敵とみなし、功績を立てて王室に貢献しました。そこで王は彤弓一・彤矢百(彤は赤)弓矢千は黒。黒い弓十張りと黒い矢千本)を下賜し、宴を開いて報いました。今、陪臣甯武子)は貴国との旧好を継続させるために来ました。貴君は陪臣のために宴を設けましたが、陪臣は大礼(天子が諸侯をもてなす礼。『湛露』と『彤弓』の詩を受け入れるわけにはいきません。」
 
[] 冬十一月壬寅(初一日)、魯の夫人・風氏(釐公の母。成風)が死にました。
 
[] この年、秦穆公が由余の謀を用いて戎王を討ち、十二国(または「十四国」)を併合して千里の地を開きました。こうして秦は西戎に覇を称えます。
天子が召公・過を送って穆公を祝賀し、金鼓を下賜しました。
 
尚、秦穆公を春秋五覇の一人に数えることもありますが、穆公は西戎において覇を称えたものの、東方(中原)では覇者になっていません。晋の存在が秦の東進を阻んでいます。
 
 
 
襄王三十一年
622年 己亥
 
[] 春正月、周襄王が栄叔を魯に派遣し、成風のために含(死者の口に入れる玉)と賵(弔問の財物)を贈りました。
また、襄王は召伯(昭公)を送って葬儀に参加させました。召氏は代々周の卿を務めています。
 
三月辛亥(十二日)、魯が成風の葬儀を行いました。
 
[] 夏、魯の公孫敖が晋に行きました。
 
[] かつて鄀国は楚から離れて秦に附きましたが(東周襄王十八年、635年)、この頃、また秦に背いて楚に附きました。
秦が鄀を攻撃して都・商密を占領しました。
鄀人は東南に移動して楚の属国になりました。
 
[] 六が楚に背きました。六は東夷の国です。
秋、楚の成大心と仲帰(字は子家)が兵を率いて六を滅ぼしました(六国は二十五年近く前にも滅ぼされたという記述があります。東周襄王七年、646年参照)
 
冬、楚の公子・燮が蓼国を滅ぼしました。
 

魯の臧文仲は六と蓼が滅ぼされたと聞いてこう言いました「皋(少昊の子孫。六の祖。偃姓)と庭堅(顓頊の子孫。蓼の祖。姫姓)の祭祀が突然途絶えてしまった。徳を建てなければ民の援けを得ることはできない。悲しいことだ。」

[] 晋の陽処父が衛を聘問し、帰国する時に甯(晋邑)を通りました。陽処父は甯嬴氏の客舎に宿泊します。
甯嬴が妻に言いました「私は久しく君子を求めてきたが、今、やっと出会うことができた。」
甯嬴は陽処父に仕えることにしました。
しかし道中で陽処父と会話をした甯嬴は河内の温山で退き返し、家に帰りました。
妻が聞きました「あなたは求めていた人物と出会うことができたのに、なぜ従わないのですか。家を想って忘れられないのですか。」
甯嬴が言いました「彼は剛に過ぎる。『商書尚書・洪範)』にはこうある『乱臣は剛にたより、高明な者は柔にたよる(沈漸剛克,高明柔克)。』夫子(陽処父)(君子の性をもちながら)剛に頼っている。良い終わりを迎えることはできないだろう。天とは剛徳なものだが、(柔徳も備えているから)四季の秩序を乱すことがない。人ならなおさらどちらかに偏ってはならない。花が咲いても実らないようでは(花はできるが実はできない。一つに偏っているという意味です)、怨みを集めて自分の身を守ることができなくなる。わしは利がなく逆に難を受けるというようなことを避けるために彼から去ったのだ。」
以上、甯嬴の言葉は『春秋左氏伝文公五年)』を元にしました。
 
『国語・晋語五』は少し異なります。
甯嬴が言いました「私は彼の外貌を見て仕えたいと思ったが、その言辞を聞いて嫌になったのだ。外貌とは情(思想・感情・才能)の華(表れ)であり、言辞とは外貌の機(根本)である。情は自分自身から生まれ、心中で形成される。言辞は自分を文飾するためにある。言辞は文によって発せられ、情と一つになってから行動することができる。よって情・言(文)・貌の三者が分離していたら欠陥が生まれるものだ。陽子は外貌が立派だったが、その言辞は乏しかった。言が不足しているのに外貌を強く見せようとしても、結局、言の不足を大きくするだけだ。これは中(情。本質)と外(外貌)が乖離しているからだ。もしも中と外が同じなのに言がともなっていなければ、その人は信義を軽くみられることになる。言とは信義を明らかにするものなので、中と外が一致していてしかも熟考の末に言が発せられるようなら、軽んじられることはない。陽子の情は観察力に富んでいるので、これによって短所を隠し、立派な外貌を形成している。しかしその言は剛直すぎるし、自分の能力を大きく見せようとしている。また、陽子は仁義を重視せず、しばしば人の怒りを招いている。このままでは怨みを集めることになるだろう。私は彼に仕えても利を得ることがなく、逆に災難に巻き込まれることを恐れたから帰って来たのだ。」
 
翌年、陽処父は賈季の難に遭って殺されます。
 
[] この頃、晋の趙成子(趙衰。中軍の佐)、欒貞子(欒枝)、霍伯(先且居。霍は采邑。中軍の将)、臼季(胥臣)が死にました。
史記・趙世家』は趙衰の諡号を成季としており、「晋文公が国に帰ってを称えることができたのは、多くが趙衰計策による」と評価しています。
 
[] 十月甲申(十八日)、許男(僖公)が在位三十四年で死に、子の昭公・錫我が立ちました。
 
[] 『竹書紀年』(古本・今本)には、この年、洛水が●(さんずいに「向」。衛地)で途絶えたという記述があります。