春秋時代83 東周襄王(四十三) 晋霊公即位 前620年

今回は東周襄王三十三年です。
 
襄王三十三年
620年 辛丑
 
[] 春、魯文公が邾を攻撃しました。晋が国難(襄公死後、後継者が定まらないこと)に遭っていたため、その隙をついた出兵でした。
 
三月甲戌(十七日)、魯軍が須句を占領しました。
須句はかつて邾に滅ぼされましたが、魯によって復国された国です(東周襄王十五年、638年参照)。しかし復国後、再び邾に滅ぼされ、その領土になっていたようです。
 
当時、邾で政争があり、邾文公の子が魯に出奔していました。魯は邾文公の子を須句大夫にして須句を守らせました。
 
[] 魯が(魯邑)に築城しました。
 
[] 夏四月、宋成公が在位十七年で死に、子の杵臼が立ちました。これを昭公といいます。
 
史記・宋微子世家』によると、成公の死後、成公の弟・禦が太子と大司馬・固(公孫固。下述)を殺して自立しましたが、国人が新君・禦を殺して成公の少子・杵臼を立てたとあります。
また、『史記・十二諸侯年表』には公孫固が成公を殺したと書かれています。
『春秋左氏伝』にはこれらの記述がありません。
尚、『史記』の『宋微子世家』は杵臼を「成公の少子」としていますが、『十二諸侯年表』には「襄公の子」とあります。恐らく『十二諸侯年表』の誤りです。
 
当時、宋では公子・成(荘公の子)が右師を、公孫・友(目夷の子)が左師を、楽豫(戴公の玄孫)が司馬を、鱗桓公の孫)司徒を、公子・蕩桓公の子)が司城を、華御事(華督の孫)が司寇を務めていました。右師・左師・司馬・司徒・司城・司寇を六卿といいます。
 
即位したばかりの昭公は群公子を除こうとしました。
楽豫が諫めて言いました「いけません。公族は公室の枝葉です。もしも除いたら幹や根を守るものがなくなってしまいます。葛藟でも幹や根を守ることができるので、君子は詩を作りました(『詩経・王風』に『葛藟』があります)。国君ならなおさら重視しなければなりません。諺に『庇護してくれる物に、わざわざ斧を用いる(庇焉而縦尋斧焉)』とありますが、これはやってはならないことです。主公はよく考えるべきです。徳によって親しめば、皆、股肱となります。二心を抱く者はいません。どうして除こうというのですか。」
昭公は諫言を聞き入れませんでした。
 
昭公の考えを知った諸公子が先手を打ちました。
穆公と襄公の族人が国人を率いて昭公を攻め、公孫固と公孫鄭を公宮で殺します(これは『春秋左氏伝』の記述です。『史記・宋微子世家』では上述の通り、公孫固は成公の弟・禦に殺されたとあります
その後、六卿は公室(昭公)と和解し、楽豫は司馬の職を公子・卬(昭公の弟)に譲りました。
 
昭公は正式に即位してから(翌年正月)殺された者を埋葬しました。
 
[] 秦康公は晋の公子・雍を晋に送り返すことにしました。康公は「文公が国に帰る時には護衛がいなかった。そのために呂氏と郤氏の難を招いた」と言って多数の徒衛(歩兵の護衛)をつけました。
 
晋では穆贏(襄公の太子・夷皋の母)が毎日、太子(赤子)を抱いて朝廷で泣き、「先君に何の罪があるのですか。その後嗣に何の罪があるのですか。嫡嗣を棄てて外から国君を求めるとは、この子をどうするつもりですか」と訴えていました。
群臣が朝廷を出ると穆嬴は太子を抱いて趙氏の家に行き、趙盾に叩頭して言いました「先君はこの子を奉じ、あなたに託してこう言いました『この子に才があるようなら、汝の恩賜を受けたことになる。もしも不才なら(うまく教え導くことができなければ)、汝を怨むしかない。』今、先君は終わりを迎えましたが、その言は耳元にあります。それを棄てるのはなぜですか。」
 
趙盾が諸大夫と相談すると、皆、穆嬴を恐れ、太子が即位した時のことを心配し始めました。趙盾も晋の宗族と大夫による襲撃を恐れます。そこで趙盾と群臣は秦に送った先蔑等を放置して太子・夷皋を即位させました。これを霊公といいます。
趙盾がますます権力を大きくしました。

晋は秦軍を防ぐために兵を発し、箕鄭に晋都の守備を命じました。
中軍は趙盾が将に、先克が佐になります。荀林父が上軍の佐になりました。上軍の将は箕鄭ですが、国内に留まったため荀林父が上軍を指揮します。先蔑は先に晋に帰国し、下軍の将になりました。先都が佐になります。歩招が趙盾の御を、戎津が車右を務めました。
 
晋軍が(晋地)に来た時、趙盾が言いました「我が国が秦(公子・雍)を受け入れるなら、秦は賓客だ。しかし受け入れないのなら秦は寇(敵)だ。我が国は既に秦を受け入れないと決めた。しかもこうして師(軍)を進めている。秦には敵意が生まれているはずだ。人に先んじて敵の戦意を奪うのは軍の善謀というものだ。逃亡者を追うように寇を駆逐するのは、軍の善政というものだ。」
趙盾は兵を訓練し、武器を整え、兵馬に充分な食糧を与えて夜の間に兵を動かしました。
 
四月戊子(初一日)、晋軍が令狐で秦軍を破り、刳首まで追撃しました。
この後、公子・雍がどうなったのかは分かりません。
 
前年、先蔑が使者として秦に行くことになった時、荀林父が反対して言いました「国内に夫人も太子もいるのに外から新君を求めるべきではない。病と称して断ってはどうだ。そうしなければ禍が訪れるだろう。他の卿が行けば充分ではないか。なぜ汝が行く必要があるのだ。同じ官にいた者を『寮』という。我々はかつて同寮(同僚)だった(以前、荀林父が中行を、先蔑が左行を指揮しました)。だから心を尽くして忠告するのだ。」
先蔑が聞き入れないため、荀林父は『板詩経・大雅)』の第三章を賦しました。同僚のために忠告する姿が描かれています。
しかし先蔑は使者として秦に行きました。
 
晋に還った先蔑はやむなく下軍の将になりました。
己丑(初二日)、先蔑は秦に奔りました。士会も従って秦に行きます。
荀伯(荀林父)は先蔑の家族や財産を全て秦に送り、「同寮のためだ」と言いました。
士会は秦に入って三年経っても士伯(先蔑)に会いませんでした。従者が言いました「一緒に亡命したのに彼に会わないのはなぜですか。」
士会が言いました「私は彼と同罪だ。彼に義があるとは思っていない。なぜ会う必要があるのだ。」
士会は後に晋に帰りますが、一度も先蔑に会いませんでした。
 
[] 赤狄(潞氏)が魯の西境を侵しました。
魯文公が晋に報告すると、趙盾は賈季(狐射姑。狄にいます)に酆舒(狄の相)を訪ねさせ、狄を譴責しました。
酆舒が賈季に「趙衰と趙盾はどちらが賢いか?」と聞くと、賈季はこう答えました「趙衰は冬日の日(冬の太陽)です。趙盾は夏日の日(夏の太陽)です。」
 
[] 秋八月、斉侯(昭公)・魯公(文公)・宋公(成公)・衛侯(成公)・鄭伯(穆公)・許男(昭公)・曹伯(共公)と晋大夫(趙盾)が扈(鄭地)で会盟しました。晋で新君が即位したためです。
魯は会盟に遅れました。
 
[] 魯の穆伯公孫敖)莒の戴己を娶って文伯(穀)が産まれ、その妹・声己も恵叔(難)を産みました。戴己が死ぬと公孫敖は再び莒に夫人を求めました。しかし莒は声己が既に公孫敖に嫁いでいるため要求を拒否します。そこで公孫敖は襄仲(公子・遂)のために夫人を求めました。
 
冬、徐が莒を攻撃しました。莒は魯に盟を求めます。
公孫敖が莒に入って盟を結ぶことになりました。公子・遂の妻を迎えるという目的もあります。
公孫敖が鄢陵(莒邑)に至り、城壁に登って外を眺めた時、公子・遂のために迎え入れるはずの女性の美貌を知りました。公孫敖は莒女を自分の妻にしてしまいます。
怒った公子・遂が文公に公孫敖討伐を請い、文公は許可しようとしました。しかし叔仲恵伯(叔仲彭。叔牙の孫)が諫めて言いました「国内の戦いは乱といい、国外の戦いは寇といいます。寇は他者との戦いですが、乱は自分を傷つけることになります。臣が乱を成そうというのに主君が止めないようでは、寇讎(敵国)に道を開くことになります。」
文公は恵伯に調停を命じました。公子・遂は莒女をあきらめ、公孫敖も莒女を帰国させます。二人は再び以前の仲に戻りました。
 
[] 晋の郤缺が趙盾に言いました「かつて衛が不睦だったので、その地を取りました。しかし今、衛はすでに和したので、その地を返すべきです。叛しても討たなければ威信がなく、服しても懐柔しなければ懐(恩恵)を示すことができません。威も懐もなければ徳を示すことができません。徳がなければ盟主にはなれません。あなたは晋の正卿なので諸侯の主の立場にいます。徳に務める必要があります。『夏書尚書・大禹謨)』にはこう書かれています『美によって戒め、威によって督し、『九歌』によって勧めれば、悪くなることはない(戒之用休,董之用威,勧之以《九歌》,勿使壊)。』九功の徳は全て歌うことができ、これを九歌といいます。九功とは六府三事を指します。水・火・金・木・土・穀を六府といい、正徳・利用・厚生を三事といいます。義によって九功を行うことを徳といい礼といいます。礼(徳)がなければ楽(音楽。九歌)がなくなり、叛する者が生まれます。あなたの徳を歌う者がいなくなったら誰が心服しますか。あなたに和す者(衛・鄭等、服従した国)にその徳を歌わせるべきです。」
 
 
 
次回に続きます。