春秋時代84 東周襄王(四十四) 魯・公孫敖の出奔 前619年

今回で東周襄王の時代が終わります。
 
襄王三十四年
619年 壬寅
 
[] 春、晋が解揚を使者にして匡と戚の地を衛に返しました。
また、公壻池(人名。詳細不明)が定めた国境を恢復し、申から虎牢にわたる地を鄭に返しました。
 
[] 夏、秦が晋を攻撃して武城を取りました。令狐の役(前年)の報復です。
 
[] 秋八月戊申(二十八日)、周襄王が在位三十四年で死にました。子の壬臣が即位します。これを頃王といいます。
 
[] 前年の扈の会盟で魯文公が遅れました。晋が魯を攻撃します。
 
冬十月壬午(初三日)、魯の公子・遂(襄仲)が晋の趙盾と会い、衡雍で盟しました。
 
[] 乙酉(初六日)、魯の公子・遂が雒戎(伊雒の戎)に会い、暴(暴隧。鄭地)で盟しました。
 
[] 魯の公孫敖(穆伯)が周襄王の弔問のため京師に向かいました。
丙戌(初七日)、公孫敖は京師に入らず、幣(弔問の財物)をもって莒に奔り、己氏(前年、魯に迎え入れられるはずだった莒女)と一緒になりました。
 
魯は公孫敖の子・文伯に孟孫氏を継がせました。文伯に関して『国語・魯語上』に記述があります。
ある日、魯文公が大夫・孟文子(文伯。伯穀)の宅(屋敷)を取り毀して宮殿を拡大しようとしました。そこで使者を送って孟文子にこう伝えました「汝のためにもっと広い場所に家を建てて与えようと思う。」
孟文子が文公に答えました「爵位とは政事の基礎になるものです。署(官職)とは爵位の表れです。車服(車や衣服のきまり)とは貴賎を明らかにするものです。宅とは車服を擁する者が住む場所です。禄とは宅に住む者が食すものです。国君はこの五者爵位・官職・車服・宅・禄)に基づいて政事を行うべきであり、簡単に変えてはなりません。今、有司(官員)が臣の官職と車服を変えるように命じ、こう言いました『広く便利な場所に宅を改める。』官職があるから朝から夜まで恭しく君命を聴くことができるのです。臣は先臣(祖父や父)の官職と車服を受け継ぎました。これらを受け継ぎながら、利のために住む場所を変えたら君命を辱めることになります。よって命を聞くわけにはいきません。命に背くことが罪になるというのなら、臣の禄(田邑)と車服を取り上げ、官職を解くべきです。その後、里宰(里の長。二十五家で一里)に命じて臣の住居を定めさせてください。」
文公は他の方法を考えることにしました。
この話を聞いた臧文仲が言いました「孟孫(孟文子)は自分の職を全うすることができる人物だ。彼自身は穆伯を越え(穆伯は孟文子の父・公孫敖です。公孫敖が官職を棄てて出奔したことを謗っています)、その子孫は魯で高位を保つことができるだろう。」
 
一方、宮殿拡張をあきらめきれない文公は郈敬子の宅を取り壊そうとしました。郈敬子は文公にこう言いました「先臣の恵伯(郈敬子の先祖)は司里(里宰)に命じられてここに住むようになり、嘗(秋祭)・禘(夏祭)・蒸(冬祭)・享(春祭)の胙(祭祀で使う肉)をこの家で国君から下賜されてきました。また、礼物を持って使者として諸国を往来し、君命を伝える時にもこの家が起点になりました。これらは何代も続けてきたことです。今、臣の住む場所を移そうとしていますが、今後、有司(官員)が臣の官爵に応じた任務を与えようとしても、家が遠いため不便になるでしょう。それでも臣の居を移そうというのなら、司徒里宰を管理する官)に命じて臣の職責にあった場所に居を改めさせてください。
文公はあきらめました。
 
[] 魯で螽の害がありました。
 
[] 宋襄公の夫人(継室。後妻)は周襄王の姉でした。
即位したばかりの宋昭公が襄公夫人に礼を用いなかったため、夫人は戴氏の族(戴公の子孫。華・楽・皇三氏)を使って襄公の孫・孔叔、公孫鍾離および大司馬・公子卬を殺しました。全て昭公の党です。
この時、司馬(名は不明)は苻節を握って死に、司城・蕩意諸は符節を府人に返却して魯に出奔しました。魯文公は蕩意諸に元の官職を与えて厚遇し、蕩意諸に従って魯に来た者も全て元の官に任命しました。
 
[] 夷の蒐(襄公三十二年 前621年)の際、晋襄公は箕鄭父と先都を抜擢し、士縠と梁益耳に中軍を指揮させようとしました。
しかし先克が言いました「狐氏と趙氏の勲功を廃してはなりません。」
襄公はこれに従い、狐射姑を中軍の将に、趙盾を佐にしました。
箕鄭父、先都、士縠、梁益耳が不満を持ちます。
 
後に先克が陰にある蒯得の田(土地)を奪いました蒯得は箕鄭父等と結びます。
 
この年、箕鄭父、先都、士縠、梁益耳と蒯得が謀反しました。翌年に続きます。
 
 
 
次回から東周頃王の時代です。

春秋時代85 東周頃王(一) 楚・宋の講和 前618~617年