春秋時代85 東周頃王(一) 楚・宋の講和 前618~617年

今回から東周頃王の時代です。

頃王
東周襄王が死に、子の壬臣(『十八史略』では壬匡)が即位しました。これを頃王といいます。

頃王元年
618年 癸卯
 
[] 春正月己酉(初二日。「正月己酉」というのは『春秋左氏伝』の記述で、『春秋』経文では二月。恐らく魯と晋の暦の違いによるずれ)、晋で乱を起こした箕鄭父、先都、士縠、梁益耳、蒯得が人を送って大夫・先都を殺しました。
乙丑(十八日)、晋が先都と梁益耳を殺しました。
 
[] 周の毛伯・衛が魯に来て襄王の葬儀の資金を求めました。
前年、魯の公孫敖(穆伯)が周襄王の弔問のため京師に向かいましたが、京師に入る前に幣(弔問の財物)をもって莒に奔ったため、周王室が魯に使者を送って財物を要求したようです。
王が私事のために諸侯から財物を要求することは非礼とされました。
 
[] 魯文公の夫人・姜氏(恐らく斉昭公の娘)が斉に行きました。父母へのあいさつのためです。
 
[] 二月、魯の叔孫得臣(荘叔)が周の京師に入りました。
辛丑(二十四日)、周襄王の葬儀・埋葬が行われました。
 
[] 三月、魯文公の夫人・姜氏が斉から還りました。
 
[] 三月甲戌(二十八日)、晋が大夫・士縠、箕鄭父、蒯得を殺しました。前年に起きた乱が鎮圧されます。
 
[] 楚の大夫・范山が楚穆王に言いました「晋の国君は幼く、その志は諸侯を向いていません。今なら北方を図ることができます。」
楚穆王は狼淵(または「狼溝」「狼陂」)に駐軍して鄭を攻撃し、公子・堅、公子・尨および楽耳(三人とも鄭の大夫)を捕えました。
鄭は楚と講和しました。
 
[] 魯の公子・遂が晋の趙盾、宋の華耦、衛の孔達および許の大夫と会しました。楚に攻められた鄭を救うためです。しかし連合軍の動きが遅かったため、楚軍は既に撤兵し、追いつくことができませんでした。
 
[] 夏、狄が斉を侵しました。
 
[] 楚が陳(晋の同盟国)を攻めて壺丘(または「狐邱」)を占領しました。
 
秋、楚の息公・子朱も東夷から陳を攻めましたが、陳が反撃して楚軍を敗り、楚の公子・茷を捕えました。
しかし陳は大国・楚を恐れて講和しました。
 
[十一] 八月、曹共公が在位三十五年で死に、子の文公・寿が立ちました。
 
[十二] 九月癸酉(楊伯峻『春秋左伝注』によるとこの年九月に癸酉の日はありません)、魯で地震がありました。
 
[十三] 冬、楚の子越椒椒。子越は字)が魯を聘問しました。子越は幣(礼物)を持っていましたが、その態度は驕慢でした。
魯の叔仲恵伯が言いました「彼は若敖氏の宗族を滅ぼすだろう。先君に対して驕慢では(使者は帰国後に宗廟に報告する必要がありました。使者としての態度が驕慢なら、宗廟への報告も驕慢な内容になってしまうため、「先君に対して驕慢」ということになります)、神が福をもたらすことはない。」
若敖は楚王の先祖です。若敖が伯比を産み、伯比が令尹・子文と司馬・子良を産み、子良が子越を産みました。この家系を若敖氏といいます。
 
[十四] 秦が魯の釐公(僖公)と成風(釐公の母)のために襚(死者に着せる服)を贈りました。
釐公は東周襄王二十六年(前627年)に死に、成風は襄王三十年(前623年)に死にました。すでに長い時間が経っていますが、『春秋左氏伝(文公九年)』は秦の行為を「礼がある」と評価しています。
 
[十五] 曹が共公を埋葬しました。
 
[十六] この年、燕襄公が在位四十年で死に、桓公が立ちました。
 
 
 
頃王二年
617年 甲辰
 
[] 春三月辛卯(二十一日)、魯の臧孫辰(臧文仲)が死にました。子の臧孫許が卿を継ぎます。これを宣叔といいます。
 
[] 晋が秦を攻めて少梁を取りました。
 
夏、秦康公が晋を攻めて北徴(『史記・晋世家』は「」としていますが、恐らく誤りです。『十二諸侯年表』は「北徴」としていますを取りました。
 
[] 『資治通鑑外紀』はここで『韓非子・説林上』の故事を紹介しています。
秦康公が三年かけて楼台を築きました。
この頃、楚が斉討伐を宣言して兵を動かしました。
それを知った秦の任妄(『資治通鑑外紀』では「任望」)が康公に言いました「飢饉は敵兵を招き、疾病は敵兵を招き、労苦(民を労役で疲弊させること)は敵兵を招き、内乱は敵兵を招きます。主公は楼台を築くために三年を費やしました(国財を費やし民を疲弊させました)。今、(楚)が斉を攻めるために兵を起こしましたが、斉討伐は仮の名目で、秦を急襲することが実際の計略ではないでしょうか。備えを置くべきです。」
康公は進言に従って東境の守備を固めました。
楚は出兵を中止しました
 
[] 以前、楚の范邑に住む巫・矞似が楚成王と子玉、子西宜申)に言いました「三君は強死(健康な状態で死ぬこと。病死や老死ではなく、不遇な死を迎えるという意味)するでしょう。」
城濮の役で楚軍が大敗した時、成王はこの言葉を思い出し、子玉の自殺を止めるために使者を送りましたが間に合いませんでした。
子西も首を吊って死のうとしましたが、縄が切れて失敗します。そこに成王の使者が到着して自殺を止めさせたため、子西は楚に帰りました。成王は子西を商公(商密の長)に任じました(東周襄王二十一年、632年参照)
 
後に子西は漢水を溯り、長江に入って楚都・郢に向かいました。乱を謀ったようです。しかしこの時、渚宮(別宮)にいた楚王(恐らく成王)が宮殿を出て子西に会いました。子西は突然現れたた楚王に恐れてこう言いました「臣は死を逃れることができましたが、讒言によって臣が逃走しようとしていると噂されています。臣は司敗(司寇。刑獄を掌る官)の裁きを受けて死にたいと思います。」
楚王は子西を工尹(百工の長官)に任命しました。
 
その後、子西は子家と共に穆王を殺そうとしました。
五月、穆王は子西と子家の陰謀を知り、二人を殺しました。
 
[] この年正月から秋七月まで魯で雨が降りませんでした。
 
[] 周の卿士・蘇子が女栗(詳細位置不明)で魯文公と会盟しました。周で頃王が即位したため、以前の盟約を確認し直したようです。
 
[] 陳侯(共公)と鄭伯(穆公)が楚子(穆王)と息で会見しました。
 
[] 冬、狄が宋を侵しました。
 
[] 楚子(穆王)と陳侯(共公)・鄭伯(穆公)・蔡侯(荘侯)が厥貉(または「屈貉」「厥憖」「屈銀」)に駐軍しました。宋討伐のためです。
宋の司寇・華御事が言いました「楚は我が国を服従させようとしているが、我が国が自主的に帰順の意志を示せばいいのだろうか。なぜこのように武力で脅かすのだろう。我々が無能なため楚の出兵を招いてしまったが、民には何の罪もない。」
華御事は楚穆王を迎え入れて慰労し、命を聴くことにしました。
 
講和が成り立つと華御事は楚穆王を誘って孟諸で狩りをしました。宋昭公が右盂(盂は円陣。狩猟の陣)を、鄭穆公が左盂を指揮し、期思公・復遂(期思は楚の邑。楚の公は県尹の意味。復遂は県尹の名)が右司馬(司馬は軍政・軍令を掌る官)に、子朱(楚の息公。前年、陳を攻めました)と文之無畏(申舟。申は食邑、舟は字、無畏は名。文は恐らく氏で、楚文王の子孫)が左司馬になります。
楚穆王は火を起こす道具を車に乗せて早朝から出発するように命じました。しかし宋昭公が命に背きます。無畏が宋昭公の僕を鞭打って全軍の見せしめとしました。
ある人が子舟(無畏)に言いました「あなたは剛直すぎます。国君を辱めてはなりません(宋昭公の僕を鞭打ったことは宋昭公を辱めたことになります)。」
子舟が言いました「官を与えられたら任務を実行するだけだ。これは剛直とは言わない。『詩経』にはこうある『固い物を吐き捨てず、柔らかい物を飲みこまない(『大雅・烝民』「剛亦不吐,柔亦不茹」。剛強の者に負けず、柔弱な者を虐げないという意味です)。』またこういう句もある。『狡猾な者を自由にさせず、無法の者を取り締まる(『大雅・民労』「毋従詭隨,以謹罔極」)。』これらは強い者から逃げないという意味だ。命を惜しんで官(職責)を乱すようなことがあってはならない!」
 
楚穆王を始めとする諸侯が厥貉に会した時、麇子(麇国の主。「麇」は「圏」とも書きます)が逃げ帰りました。原因はわかりません。
 
 
 
次回に続きます。