春秋時代87 東周頃王(三) 士会の帰国 前614年

今回は東周頃王五年です。
 
頃王五年
614年 丁未
 
[] 春、晋霊公が大夫・詹嘉に食邑・瑕を与え、桃林の塞(険阻な地)を守らせました。秦の東進に備えるためです。
詹嘉は食邑を氏としたため、瑕嘉ともいいます。
 
[] 晋は士会が秦にいることを恐れました。
夏、晋の六卿(中軍の将・趙盾、佐・荀林父、上軍の将・郤缺、佐・臾駢、下軍の将・欒盾、佐・胥甲)が諸浮(恐らく郊外)で会いました。六卿は朝廷で毎日会うものですが、わざわざ外で会ったのは密謀のためです。

趙宣子(趙盾)が言いました「隨会(士会)が秦におり、賈季(狐射姑。東周襄王三十二年、前621年に出奔しました)が狄にいるため、日々禍が生まれている。どうするべきだろうか。」
中行桓子(荀林父。かつて中行の将だったため、中行を氏としました)が言いました「賈季は国外の事に明るいので(狄人です)、彼を呼び戻すべきです。しかも彼には旧勳があります(賈季の父は狐偃で、文公の亡命に従い即位を助けました)。」
郤成子(郤缺)が言いました「賈季は乱を起こしました。その罪は大きいので、賈季ではなく隨会を呼び戻すべきです。随会は人に対して身を屈することができますが、恥辱を受けることはなく、柔軟ですが人から侵されることもありません。このような態度から彼の智謀を知ることができます。しかも彼には罪がありません。」
趙盾は郤缺の意見に同意し、大夫・魏寿余(または「魏讎余」「魏余」「魏州余」。恐らく畢万の子孫での親族)を秦に送って士会を誘うことにしました。
趙盾はまず魏寿余の家族を逮捕し、夜の間に魏寿余を秦に奔らせます。
秦に入った魏寿余は秦康公に会うと、魏邑を挙げて帰順することを請いました。康公はこれに同意します。
 
魏寿余は朝廷で士会に会った時、足を踏んで合図を送りました。士会はその意図を覚りました。
後日、秦康公が魏邑を占領するため河西に駐軍しました。魏邑の人々が河東にいます。魏寿余が康公に言いました「東人(晋出身の者)で魏邑の官員と対等に話ができる者を選んで、臣と共に先行させてください。」
康公が士会を派遣しようとしましたが、士会は辞退して言いました「晋人は虎狼と同じです。もしも約束を破ったら、臣は晋で殺され、臣の妻子は秦で殺されるでしょう。主君にとっても益はなく、後悔しても間に合いません。」
康公が言いました「もし晋が約束を破ったとしても、汝の家族を晋に帰らせることを黄河に誓おう。」
士会は魏寿余と共に東に向かいました。
黄河を渡ろうとした時、秦の大夫・繞朝が士会の馬に鞭打って言いました「汝は秦に人がいないと思うな!わしの進言が用いられなかっただけのことだ(繞朝は士会を派遣することに反対したようです)!」
士会等が黄河を渡ると、魏の人々は歓声を上げて迎え入れました。
 
秦康公は騙されたと知りましたが、誓いを守って士会の家族を晋に帰らせました。秦に留まった者達は劉氏を名乗りました。士会は帝堯の子孫といわれており、帝堯の唐陶氏が衰えた時、劉累という人物が登場したため夏王朝・帝孔甲七年参照)、その氏を名乗ることにしたようです。
 
[] 五月壬午(あるいは四月晦)、陳共公が在位十八年で死に、子の平国が立ちました。これを霊公といいます。
 
[] 邾文公が繹(邾の邑)への遷都を卜いました。
史官が言いました「民には利がありますが、国君には不利です。」
文公が言いました「民の利とは孤(国君の自称)の利だ。天が民を生んでからその君を立てたのは、民の利とするためである。民に利があるのならそれを実現させなければならない。」
近臣が言いました「寿命は長くすることができます。主君はなぜ長寿を求めないのですか?」
文公が言いました「国君の寿命とは民を養うためにあるのだ。命の短長は時(時機・機会)によって左右される。民に利があるのなら遷都しよう。これ以上の吉はない。」
邾は繹に遷都しました。
 
五月、邾文公・蘧(または「籧篨」)が死にました
当時の君子(知識人)は「邾文公は天命を理解していた」と言って称賛しました。
文公の子・貜且が即位しました。これを定公といいます。
 
[] 正月から魯で雨が降りませんでした。
秋七月、やっと雨が降りました。
 
[] 魯の大室(太廟の部屋。太廟は周公・旦の廟)の屋根が倒壊しました。
魯の臣下が恭敬でなくなったことが原因とされました。
 
[] 冬、魯文公が晋に行きました。過去の盟約(東周襄王三十四年、前619年。衡雍の会)を再確認するためです。
途中で衛を通り、衛侯(成公)と沓(恐らく衛地)で会しました。衛成公は魯に晋との和平の仲介を求めます。魯文公は同意しました。
 
[] 狄が衛を侵しました。
 
[] 十二月己丑(恐らく「乙丑」の誤り。十六日)、魯公(文公)が晋侯(霊公)と会盟しました。
 
[] 魯文公が晋から還りました。途中、鄭伯(穆公)と棐で会しました。鄭穆公も晋との和平の仲介を求め、魯文公は同意しました。
鄭穆公は棐で宴を開き、鄭の大夫・子家(帰生の字)が『鴻雁詩経・小雅)』を賦しました。「鴻雁が飛ぶ。羽をはばたかせ。我が子は徴集され、遠野で労苦する。貧苦の者を嘆息し、鰥寡(親族がいない者)の孤独を憐れむ(鴻雁于飛,粛粛其羽。之子于征,劬労于野。爰及矜人,哀此鰥寡)」という内容で、「鰥寡」は鄭の喩えです。憐れな鄭のためにもう一度晋に行って和平の仲介をしてほしい、という意味です。
これに対して魯の季文子(季孫行父)が「寡君(我が君。魯文公)も立場は同じです」と言い、『四月(小雅)』を賦しました。「四月は既に夏になり、六月は酷暑が襲う。先祖は他人ではないのに、なぜ我々を苦しめるのか(四月維夏,六月徂暑。先祖匪人,胡寧忍予)」という内容です。真夏の労役に駆りだされた大夫が怨みを込めて歌った詩といわれています。季孫行父は魯が鄭のために再び晋に行くことを断りました。
すると子家が『載馳(鄘風)』の一部を賦しました。「大国の援けを得たいが、誰が協力してくれるだろう控于大邦,誰因誰極)」という内容です。
季文子はついに『采薇(小雅)』の一部を歌って同意しました。「安住に甘んじていられるだろうか。一月に三回功を立てる豈敢定居,一月三捷)」という内容です。
鄭穆公は魯の協力に感謝して拝礼し、魯文公も答礼しました。
 
魯は鄭と晋の和平も成立させました。翌年、諸侯が会盟します。
 
[十一] この年、楚穆王が在位十二年で死に、子の荘王・旅が即位しました。
 
 
 
次回に続きます。