春秋時代88 東周頃王(四) 斉の政変 前613年

今回で東周頃王の時代が終わります。
 
頃王六年
613年 戊申
 
[] 春正月、魯文公が晋から帰国しました。
 
[] 春、東周頃王が在位六年で死にました。
当時、周朝廷では周公・閲と王孫蘇が政権を争っていたため、王の訃告が発せられませんでした。頃王が死んだ時間は「春」だったことしかわかりません。
頃王の子・班が立ちました。これを匡王といいます。
 
[] 前年、邾文公が死んだため、魯文公は弔問の使者を送りました。しかし使者が不敬だったため、邾が魯の南境を攻撃しました。
これに対して魯の恵伯(叔彭生)が邾を討伐しました。
 
[] 子叔姫(魯女)が斉昭公に嫁いで公子・舍を生みましたが、叔姫は昭公に寵愛されず、公子・舍も国内で威信がありませんでした。
公子・商人桓公の子。母は密妃)は施しを行って多数の士を集め、財産を使い果たすと国の官員から財を借りて施しを続けました。斉の人々は商人に帰心するようになります。
 
夏五月乙亥(恐らく「己亥」の誤り。二十三日。「乙亥」なら四月二十八日)、昭公が在位二十年で死にました。
史記・斉太公世家』は昭公の在位年数を十九年としていますが誤りです。
公子・舎が即位しました。公子・舎には諡号がありません。
 
[] 前年死んだ邾文公の元妃(正妻)は斉姜といい、貜且を生みました。晋姫という二妃もおり、捷菑を産みました。
文公が死ぬと邾人は貜且を即位させました。これを定公といいます(前年)。捷菑は晋に奔りました。
 
[] 六月、魯公(文公)・宋公(昭公)・陳侯(霊公)・衛侯(成公)・鄭伯(穆公)・許男(昭公)・曹伯(文公)と晋の趙盾が会しました。
癸酉(二十七日)、新城(鄭、または宋の地)で諸侯が盟を結びました。それまで楚に服従していた陳・鄭・宋が正式に晋と同盟します。また、邾の内争についても相談されました。
 
[] 秋七月、星孛(彗星)が北斗に入りました。
周の内史・叔服が言いました「七年以内に宋、斉、晋の国君が乱に遭って死ぬだろう。」
 
[] 魯文公が諸侯との会盟から還りました。
 
[] 晋の趙盾が諸侯の師八百乗を率いて邾を攻めました。出奔した捷菑を邾に入れるためです、しかし邾人が言いました「斉女から生まれた貜且(定公)こそが年長者です。」
趙盾は「順(秩序)に逆らって従わないのは、不祥なことである」と言ってあきらめました。
諸侯は兵を還しました。
 
[] 周朝廷で政権を争っていた周公・閲と王孫蘇は晋に訴えることにしました。
元々、匡王は王孫蘇を支持していましたが、突然態度を変えました。匡王は卿士・尹氏と大夫・聃啓を晋に送って周公・閲を助けさせます。
晋の趙盾は王室の争いを調停し、それぞれの職位を元に戻させました。

以上は『春秋左氏伝(文公十四年)』の記述です。『史記・晋世家』は晋が周と援けた出来事と邾を攻めた出来事が混乱しており、「晋が趙盾に命じて車八百乗での乱を平定させ、匡王を立てた」と書いています

[十一] 前年、楚で荘王が即位しました。
この年、令尹・子孔と潘崇が群舒を討伐します。王子・燮と子儀(子儀父。に留守を命じ、子孔と潘崇は舒蓼に出兵しました。
ところが王子・燮と子儀が叛して楚都・郢を占拠しました。
 
以前、子儀は秦に捕えられました(東周襄王十八年、前635年)。しかし殽で晋に大敗した秦(東周襄王二十六年、前627年)は、楚との関係を改善するために子儀を帰国させて楚と講和しました。子儀は楚が秦と協力して晋と戦うことを願っていましたが、そのような動きが生まれなかったことが不満でした。
また、王子・燮も令尹の職を求めていましたが、実現できなかったため、ついに子儀と謀反しました。
 
王子・燮と子儀は人を送って子孔を殺そうとしましたが、失敗しました
 
八月、王子・燮と子儀は荘王を連れて郢を離れ、商密に入ることにしました。
しかし廬邑を通った時、廬戢黎(または「黎」の下半分が「木」)と叔麇(戢黎は廬大夫で叔麇は佐)が二人を誘い出して殺しました。
 
[十二] かつて魯の公孫敖が己氏と一緒になるために魯から出奔した時(穆伯。東周襄王三十四年、前619年参照)、魯人は子の孟孫穀(文伯)に跡を継がせました。
公孫敖は莒で二人の子に恵まれます。
 
暫くして公孫敖が魯への帰国を求めたため、孟孫穀が父の入国を請いました。襄仲(公子・遂)は公孫敖が政治に関与しないことを条件に帰国を許可しました。
公孫敖は魯に戻りましたが、外出することなく三年(または二年)を過ごし、再び家財を全てもって莒に移りました。
後に孟孫穀が病に倒れました。孟孫穀は文公に「私の子はまだ幼弱です。弟の難に跡を継がせることをお許しください」と頼み、文公は同意しました。
孟孫穀が死に、孟孫難が継ぎました。これを恵叔といいます。
 
この年(頃王六年)、公孫敖が再び莒から魯への帰国を求めました。公孫敖は孟孫難に父の帰国を申請させます。孟孫難が多額の礼物を使ったため、魯国は公孫敖の帰国を許可しました。
 
九月甲申(初十日)、公孫敖が莒から魯に向かう途中、斉で死んでしまいました。家族が魯に訃報を送り、魯に埋葬することを求めましたが、魯朝廷は拒否しました。
 
[十三] 斉で昭公の跡を継いだ公子・が殺されました。『史記・斉太公世家』からです。
公子・昭公の寵愛を受けていなかったため、国に対して威信がありませんでした。
昭公商人桓公の死後、国君の位を争って失敗したためめ、秘かに賢士と交わり、百姓(民)を大切にしていました。百姓は喜んで商人に帰心するようになります。
昭公が死んで公子・が即位しましたが、幼少なうえ孤立していたため、この年の十月(後述)、商人が衆人と共に墓上で斉を殺して自立しました。これを懿公といいます
懿公桓公で、姫です
 
『春秋左氏伝(文公十四年)』には懿公即位前の事が書かれています。
斉の公子・商人が国君・
舍を殺し、公子・元(商人の兄。母は少衛姫)に位を譲りました。
しかし公子・元はこう言いました「汝は国君の地位を求めて久しい。わしは汝に仕えることができるが、もしわしが即位したら、汝はわしを憎むようになるだろう。そうなったらわしを禍から逃れさせることはあるまい。汝が即位すればいい。」
こうして公子・商人が即位しました。これを懿公といいます。
 
斉君・舎が殺された時を『春秋左氏伝』は「秋七月乙卯夜」としいていますが、この年の七月に乙卯の日はないようです。
史記・斉太公世家』は「七月」が「十月」になっています。「七」と「十」が似ているため、書き間違えたようです。
『春秋』経文は「九月」と書いています。『春秋左氏伝』は「懿公が即位して三カ月後(足掛け)の九月にやっと斉国内が安定し、魯に斉君・舎の訃告が発せられたため、魯の史書である『春秋』の経文では『九月』になっている」と解釈しています。
しかし実際は、斉は周暦よりも二カ月遅い夏暦を使っていたため、斉で七月に起きた出来事を、周暦(魯の暦)を使う『春秋』は「九月」と書いたようです。
 
公子・元は懿公の政治になじむことがなかったため、懿公を「公」とよばず、「夫己氏(あの人)」とよびました。
 
[十四] 宋の高哀(字は子哀)は䔥(宋の邑)の封人(守将。䔥大夫)でしたが、卿に抜擢されました。
しかし高哀は宋昭公が義を知らないと判断し、魯に出奔しました。
 
[十五] 魯の襄仲(公子・遂)が周匡王に使者を送り、斉の昭姫(昭公の妃・子叔姫。殺された斉君・舎の母)を斉から呼び戻させるように請いました。魯の使者が匡王に言いました「斉は昭姫の子を殺しました。その母に用はないはずです。昭姫を斉から呼び戻させてください。斉人に国君を殺させた罪を問います。」
 
冬、周の卿士・単伯が斉に入りました。
しかし斉懿公は周王の威を借りる魯に怒り、単伯と子叔姫を捕えました



今回で春秋時代第一期が終わります。
次回から春秋時代中盤に入ります。