春秋時代91 東周匡王(三) 宋の政変 前611年(2)

今回は東周匡王二年(前611年)の続きです。
 
[] 宋の公子・鮑または「鮑革」。昭公の庶弟)は国人に礼を用いて接してきました。宋を飢饉が襲った時は、自分の食糧を施して民を救済します。七十歳以上の老人には必ず飲食を提供し、四季に応じて珍味も加えました。
頻繁に六卿を訪問し、国の優秀な人材を漏れることなく用いました。
桓公以降の公族にも施しを与え、公子達の人望を得ました。
また、公子・鮑は容姿に優れていたため、襄公夫人・王姫が私通しようとしましたが、公子・鮑は断りました(宋襄公夫人は周襄王の姉です。既にかなりの年だったはずなので、関係を持とうとしたのは数十年以前の事です)。それでも襄公夫人は公子・鮑を経済的に援けました。
当時、昭公が無道だったため、宋の人々は襄公夫人に気に入られている公子・鮑を支持するようになりました。
 
宋の六卿は華元が右師、公孫友が左師、華耦が司馬、鱗司徒、蕩意諸が司城、公子朝が司寇です。
かつて司城を勤めていた公子蕩が死んだ時、その子である公孫寿が司城を継ぐはずでしたが、公孫寿は自分の子の蕩意諸に継がせました。
後に公孫寿が知人にこう言いました「主君が無道なのに、わしの官が主君に近ければ、禍が及ぶだろう。しかし官を棄てれば一族を守るものがなくなってしまう。子はわしの貳(代表。分身のようなもの)だ。我が子に跡を継がせてわしの死を遅れさせることにしよう。そうすれば、子が亡んだとしても一族が亡ぶことはない。」
 
暫くして襄公夫人が昭公を孟諸の狩りに行かせました。機を見て昭公を殺すつもりです。それを知った昭公は全ての財宝を持って出発しました。蕩意諸が言いました「なぜ他の諸侯を頼って逃げないのですか?」
昭公が言いました「自分の大夫や君祖母(襄公夫人)および国人の支持を得ることもできないのに、諸侯の誰がわしを許容するというのだ。そもそもわしは既に人君となった。改めて人臣になるくらいなら、死んだ方がいい。」
昭公は財宝を全て近臣に与えて去らせました。
襄公夫人が使者を送って蕩意諸にも去るように勧めましたが、蕩意諸はこう言いました「人の臣となりながらその難から逃げたら、たとえ生き延びても、後の国君に仕えることはできない。」
冬十一月甲寅(二十二日)、宋昭公が孟諸に到着する前に、襄公夫人が帥甸(官名。「帥甸」は『春秋左氏伝』の記述。『史記・宋微子世家』では「衛伯」。あるいは「衛伯」の官が「帥甸」だったのかもしれません)を送って昭公を殺しました。蕩意諸も共に死にました。
 
公子・鮑が即位しました。文公といいます。
文公は同母弟・須を司城に任命しました。
後に華耦が死ぬと、蕩虺蕩意諸の弟)司馬に任命しました。
 
[] 宋昭公弑殺の情報が晋に入ると、趙盾は霊公に宋討伐を請いました。霊公は「これは晋国にとって急を要する事態ではない」と言って反対しましたが、趙盾はこう言いました「人が生きるにあたって、最も大きなものは天地の関係であり、それに次ぐのが君臣の関係です。尊卑の差は明らかにしなければならない教えなのです。今、宋人がその君を弑殺したのは、天地に背き、民(人)の法則に逆らうことであり、天は必ず誅を降します。もしも天罰を実行しなかったら、盟主である我々に禍が及ぶでしょう。」
霊公は出兵に同意しました。
 
趙盾は太廟で令を発し、軍吏を召集しました。併せて楽正(楽官。鍾鼓を掌る官)に命じ、三軍の鍾鼓を準備させます。
趙同(趙盾の弟)が趙盾に言いました「国に大役があるというのに、民を鎮撫するのではなく鍾鼓を準備するのはなぜですか。」
趙盾が言いました「大罪は討伐するべきであり、小罪は畏れさせるべきである。襲侵鍾鼓を鳴らさず急襲すること)(大国が小国を虐げること)である。だから征伐とは鍾鼓を準備し、相手の罪を宣言してから行うのだ。錞于(楽器の一種)や丁寧(鉦)を使って戦うのは、民に警告するためだ。襲侵が音を立てないのは相手に防備の機会を与えないためだ。今、宋人はその君を弑殺した。これ以上の罪はない。その罪を明らかに宣言しても、まだ天下に聞こえないのではないかと心配している。だから鍾鼓を準備して、君道を明らかにするのだ。」
趙盾は諸侯に使者を送って宋討伐を伝え、軍容を整えると鍾鼓を響かせて宋に向かいました。
 
[] 『資治通鑑外紀』はここで晋霊公と孫息に関する故事を紹介しています。元の話は史記・范雎伝(巻七十九)』の注釈に書かれています。『史記』では「孫息」が「荀息」になっています。しかし荀息は晋献公死後に自殺したので(東周襄王二年、651年)時代が合いません。
以下、『史記』の「荀息」を「孫息」に置き換えて紹介します。
 
晋霊公が九層の楼台を築きました。千金に及ぶ出費を招きます。群臣の反対を恐れた霊公は「敢えて諫言する者は斬る」と宣言しました。
それを聞いた孫息が上書して謁見を求めました。霊公は謁見を許可しましたが、威嚇するために弩矢を持っています。
孫息が言いました「臣は諫言するために来たのではありません。臣は十二枚の博棊(将棋の駒)を積み重ね、その上に九つの鶏卵を置くことができます。」
霊公が実際にやってみるように命じると、孫息は顔つきを変え、精神を集中させて博棊を重ね、更に卵を載せていきました。周りの者達は息を飲んで見守り、霊公も呼吸を抑えて「危ない、危ない」とつぶやきます。すると孫息が言いました「これよりももっと危ないことがあります。」
霊公が「それは何か」と聞くと、孫息はこう答えました「九層の楼台は三年かかっても完成せず、その間、男は農耕ができず、女は織物ができないため、国庫が空になっています。もしも隣国が出兵を謀り、社稷が滅亡してしまったら、主君は楼台に登って何を眺めるのですか。」
霊公は「寡人の過ちはそれほどひどいものだったか」と言うと、楼台建築の中止を命じました。

尚、この年は晋霊公十年なので、霊公は十歳を少し超えた程度のはずです。ここでは上述の通り『資治通鑑外紀』の記事を元にしましたが、実際はもっと後の出来事かもしれません。
 
 
 
次回に続きます。